1-8 駿河 今川館2-5
やられた。北条殿の三男が武田に婿入りした。
棚田の嫡男が運んできたのは、それを知らせる朝比奈殿直筆の書簡だった。
北条の一行が北に向かっているのに気づき、探りをいれたところ、とんでもないことが判明した。同行していた武田の言い分としては、古くからの約定であり、今更破るわけにはいかないとのことだ。
本家ではなく分家だからいいだろうと、安易な判断をしたわけではないのは断言できる。
北条と今川が敵対しているのはわかり切っているのに、あえてそのようなことをした理由はひとつしかない。
武田はまだ屈したわけではないという、明確なアピールだ。
孫九郎は、目の前でぎゅっと拳を握り、白くなるほど唇をかみしめた太郎殿を見下ろした。
責めたくはない。この子が知っていたとも思わない。
だが、太郎殿が武田家の当主である限り、その責任は小さな肩に負わされる。
「……申し訳ございませぬ」
悔しそうな表情。床に向かう声はくぐもっていて、泣いているように聞こえた。
「処罰はいかようにも」
幼い口からこぼれた苦渋の声に、ぎゅっと胸が詰まった。
太郎殿が今川館にいるのに、このようなことが起こってしまったのは、甲斐におけるその立場が弱まっているということだ。
心当たりはある。太郎殿の叔父のうちのひとり、忠義よりも露骨な野心を覗かせていた方だ。
だが、鼠のように臆病でもあった。今川家に逆らう愚を犯すとは思ってもいなかった。
孫九郎は苛々と扇子を開け閉めした。脇息に肘を乗せ、どう動くべきかと思案する。
「御屋形様」
うっそりと、異形の男が囁いた。
「もういっそ、攻め取ってしまわれてはいかがか」
勘助の提言に、同意の頷きを返す者は多い。
「下手に生きながらえさせたがゆえに、このようなことになったのです」
孫九郎は、青白い顔で唇をかみしめている太郎殿から、勘助に視線を移した。
目が合って、「こいつ」と内心舌打ちした。
間違いなく、勘助はこの件を知っていた。
知っていて泳がせたのだ。反目してくる者たちの排除のために。
じっと見据えると、勘助は隻眼の奥の目をきらりと光らせた。
仕込みがうまく働いたとご満悦か? 太郎殿がどんな気持ちになるかわかっていて?
……いや、勘助に怒りを向けるのは間違っている。
不穏分子を炙り出そうとするのは、軍師として何らおかしなことではない。
孫九郎は強めに音を立てて扇子を閉じた。
そんなつもりはないと言うつもりだった。甲斐はいずれ太郎殿の手に戻すのだと。何もかもを支配したい欲など持ち合わせておらず、むしろそんなことを考えるのは愚策……と。
だが言えなかった。
世の中の善性を信じたい孫九郎と、そんなものはないと確信している勘助とでは、ものの見方も対処法もまるで違う。
わかっている。戦国の世では、勘助の考えのほうが正しい。
「付け入る隙を見せるべきではありませぬ。容赦なく叩きのめし、二度と逆らえぬようにせねば」
勘助は、ひどく楽しそうに顔をゆがめて笑っていた。
見る者によっては不快に感じるだろうその表情に、孫九郎はひとつ、ため息をついた。
「あくどい顔はやめよ」
唇をかみしめる太郎殿との対比で、まるっきり悪役だ。
勘助はふっと真顔になった。問うように見据えられ、孫九郎も真顔でそれに視線を返した。
「……いいだろう」
太郎殿に武田の全責任が負わされるのと同様、勘助の謀略はその主である孫九郎に責任がある。
「おいたをした者にお仕置きは必要だ」
たとえそれが、意図して作られた状況であろうとも。
勘助が満足そうに頷くのを横目に、孫九郎は強い疲労感を覚えながら脇息に体重を預けた。
「太郎殿」
真っ青な顔の子供に、できるだけまっとうに見えるように穏やかな口調で話しかける。
「そのほうはどうする? 甲斐に戻り見届けるか、それとも……」
ひゅっと息を飲む音がした。くりっとした大きな二重の目が、うっすらと涙の幕が張った目で孫九郎を見上げる。
「楽しいことにはならならぬ。見たくないのなら、今川館に残っても良い」
ごくり、とその喉が上下するのが見えた。
ああ、この子はまだ十歳にもならない子供なのだ。人生の選択を迫られたかのような顔をさせたくはなかった。
しばらくの逡巡の後、太郎殿は奥歯を食いしばり、それからすっと背筋を伸ばした。
「いいえ。行かねばなりませぬ」
一瞬その声が震えたが、激情はすぐに抑えられた。
太郎殿はまっすに孫九郎を見てから、よくしつけられた所作で床に両手をついた。
「ご温情に感謝いたします」
温情などではない。
勘助が裏で糸を引かなければ、こんな事にはならなかったかもしれない。むしろ、醜い争いを見せてしまうことへの謝罪をしたいぐらいだ。
「わかった。ならば兵をつける。思うように仕置きをしてみよ」
孫九郎の言葉に、太郎殿は驚愕の表情をした。
勘助は渋い顔、そのほかの者たちもいい顔はしていない。
孫九郎は気にせず続けた。
「どうにもならぬようなら遠慮なく言え。既に朝比奈が動いている」
確かに太郎殿はまだ幼少だが、気質は悪くなく、武士としての気概もある。いずれ甲斐を丸ごと任せる予定でもあった。
少々早いが、予行演習と思えばいい。
「できるな?」
孫九郎が感情を乗せずにそう問うと、太郎殿はすうっと大きな音を立てて息を吸い、胸を張った。
その頬に徐々に赤みが差し、気負いというよりも決意が覗く。
「はい。ありがとうございます」
確かに太郎殿はまだ幼少だ。
だが、覚悟を決めたその顔はすでにいっぱしの武士で、頼もしかった。




