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夏颯記  作者:


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8/10

1-8 駿河 今川館2-5

 やられた。北条殿の三男が武田に婿入りした。

 棚田の嫡男が運んできたのは、それを知らせる朝比奈殿直筆の書簡だった。

 北条の一行が北に向かっているのに気づき、探りをいれたところ、とんでもないことが判明した。同行していた武田の言い分としては、古くからの約定であり、今更破るわけにはいかないとのことだ。

 本家ではなく分家だからいいだろうと、安易な判断をしたわけではないのは断言できる。

 北条と今川が敵対しているのはわかり切っているのに、あえてそのようなことをした理由はひとつしかない。

 武田はまだ屈したわけではないという、明確なアピールだ。

 孫九郎は、目の前でぎゅっと拳を握り、白くなるほど唇をかみしめた太郎殿を見下ろした。

 責めたくはない。この子が知っていたとも思わない。

 だが、太郎殿が武田家の当主である限り、その責任は小さな肩に負わされる。

「……申し訳ございませぬ」

 悔しそうな表情。床に向かう声はくぐもっていて、泣いているように聞こえた。

「処罰はいかようにも」

 幼い口からこぼれた苦渋の声に、ぎゅっと胸が詰まった。

 太郎殿が今川館にいるのに、このようなことが起こってしまったのは、甲斐におけるその立場が弱まっているということだ。

 心当たりはある。太郎殿の叔父のうちのひとり、忠義よりも露骨な野心を覗かせていた方だ。

 だが、鼠のように臆病でもあった。今川家に逆らう愚を犯すとは思ってもいなかった。

 孫九郎は苛々と扇子を開け閉めした。脇息に肘を乗せ、どう動くべきかと思案する。

「御屋形様」

 うっそりと、異形の男が囁いた。

「もういっそ、攻め取ってしまわれてはいかがか」

 勘助の提言に、同意の頷きを返す者は多い。

「下手に生きながらえさせたがゆえに、このようなことになったのです」

 孫九郎は、青白い顔で唇をかみしめている太郎殿から、勘助に視線を移した。

 目が合って、「こいつ」と内心舌打ちした。

 間違いなく、勘助はこの件を知っていた。

 知っていて泳がせたのだ。反目してくる者たちの排除のために。

 じっと見据えると、勘助は隻眼の奥の目をきらりと光らせた。

 仕込みがうまく働いたとご満悦か? 太郎殿がどんな気持ちになるかわかっていて?

 ……いや、勘助に怒りを向けるのは間違っている。

 不穏分子を炙り出そうとするのは、軍師として何らおかしなことではない。

 孫九郎は強めに音を立てて扇子を閉じた。

 そんなつもりはないと言うつもりだった。甲斐はいずれ太郎殿の手に戻すのだと。何もかもを支配したい欲など持ち合わせておらず、むしろそんなことを考えるのは愚策……と。

 だが言えなかった。

 世の中の善性を信じたい孫九郎と、そんなものはないと確信している勘助とでは、ものの見方も対処法もまるで違う。

 わかっている。戦国の世では、勘助の考えのほうが正しい。

「付け入る隙を見せるべきではありませぬ。容赦なく叩きのめし、二度と逆らえぬようにせねば」

 勘助は、ひどく楽しそうに顔をゆがめて笑っていた。

 見る者によっては不快に感じるだろうその表情に、孫九郎はひとつ、ため息をついた。

「あくどい顔はやめよ」

 唇をかみしめる太郎殿との対比で、まるっきり悪役だ。

 勘助はふっと真顔になった。問うように見据えられ、孫九郎も真顔でそれに視線を返した。

「……いいだろう」

 太郎殿に武田の全責任が負わされるのと同様、勘助の謀略はその主である孫九郎に責任がある。

「おいたをした者にお仕置きは必要だ」

 たとえそれが、意図して作られた状況であろうとも。

 勘助が満足そうに頷くのを横目に、孫九郎は強い疲労感を覚えながら脇息に体重を預けた。

「太郎殿」

 真っ青な顔の子供に、できるだけまっとうに見えるように穏やかな口調で話しかける。

「そのほうはどうする? 甲斐に戻り見届けるか、それとも……」

 ひゅっと息を飲む音がした。くりっとした大きな二重の目が、うっすらと涙の幕が張った目で孫九郎を見上げる。

「楽しいことにはならならぬ。見たくないのなら、今川館に残っても良い」

 ごくり、とその喉が上下するのが見えた。

 ああ、この子はまだ十歳にもならない子供なのだ。人生の選択を迫られたかのような顔をさせたくはなかった。

 しばらくの逡巡の後、太郎殿は奥歯を食いしばり、それからすっと背筋を伸ばした。

「いいえ。行かねばなりませぬ」

 一瞬その声が震えたが、激情はすぐに抑えられた。

 太郎殿はまっすに孫九郎を見てから、よくしつけられた所作で床に両手をついた。

「ご温情に感謝いたします」

 温情などではない。

 勘助が裏で糸を引かなければ、こんな事にはならなかったかもしれない。むしろ、醜い争いを見せてしまうことへの謝罪をしたいぐらいだ。

「わかった。ならば兵をつける。思うように仕置きをしてみよ」

 孫九郎の言葉に、太郎殿は驚愕の表情をした。

 勘助は渋い顔、そのほかの者たちもいい顔はしていない。

 孫九郎は気にせず続けた。

「どうにもならぬようなら遠慮なく言え。既に朝比奈が動いている」

 確かに太郎殿はまだ幼少だが、気質は悪くなく、武士としての気概もある。いずれ甲斐を丸ごと任せる予定でもあった。

 少々早いが、予行演習と思えばいい。

「できるな?」

 孫九郎が感情を乗せずにそう問うと、太郎殿はすうっと大きな音を立てて息を吸い、胸を張った。

 その頬に徐々に赤みが差し、気負いというよりも決意が覗く。

「はい。ありがとうございます」

 確かに太郎殿はまだ幼少だ。

 だが、覚悟を決めたその顔はすでにいっぱしの武士で、頼もしかった。

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― 新着の感想 ―
この頃の甲斐は独立意識の強い国人衆がゴロゴロしていたので、史実でも武田信虎が苦労して武力と婚姻で甲斐を統一してました。だから武田の太郎君が今川に臣従しても、「俺らは好きにやりたいんだ」と蠢く連中がいて…
勘助の方が正しいけれど、これがうまくいけば太郎君はお飾りでも傀儡でもない当主の器を見せつけることができるし、自分の家臣たちにはカリスマ性を発揮しつつ、孫九郎への忠誠心も爆上がりするね! 課せられたハー…
兵を付けるって飯富さんかな?楽しみ
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