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夏颯記  作者:


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9-5 相模 三浦半島 城が島2

 聞いてから動くのでは、もはや遅い。

 わかっていても、駆けつけずにはいられなかった。

 渋沢を筆頭にした騎馬隊は、鎌倉の脇を抜けて三浦半島を南下した。

 新井城も素通りし、城が島が見えてくる頃には、被害の様相は明らかになっていた。

「あっ、御屋形様!」

 だがしかし、息を荒げて馬を降りた孫九郎を見て、そこかしこから上がる声は明るかった。

 あちこちひどいありさまで、見えている範囲の建物は燃えつくしていたが……そういえばそもそもこの辺りの建築物は風で倒れることが前提のものばかりだったな。

 海には船がひしめいている。

 そちらにも被害の跡が見える。

 だが、早くも復旧は始まっていて、陸でも海でも、大勢が精力的に動き回っていた。

 里見の船団は小田原にたどり着かず、ここで食い止められたのだ。

 城が島に砦を築くために残した兵が、うまく仕事をした。

 荷運びの為に伊豆から呼んだ船団も、タイミングよく居合わせたようだ。

 孫九郎は、転がるようにこちらに駆け寄ってくる清水九兵衛を見つけて、初めて安堵の息を吐いた。

「お、お、御屋形様!」

 身体はなんとか転ばずに済んだが、声は見事にひっくりかえった。

 それもまた九兵衛らしいと、笑みがこぼれる。

「ようやった」

 褒めると、九兵衛の顔がぱっと明るくなる。

 被害はそれなりに出たと聞いている。だが、持ちこたえた。押し返した。十分な戦果だ。


 蜂起した相模衆の目的は、里見を小田原に呼び込む事だった。

 相当な数の兵が、海から襲撃してくる手はずだったようだ。

 まずは手始めの兵が五百。それに気を取られているうちに、左馬之助殿の弱点であるご正室らを狙われた。

 奥方らがいる小田原湊は手薄だった。佐吉がいたので最悪の事にはならなかったが、かなり危うかったそうだ。

 もし里見の水軍が小田原湊に押し寄せてきていれば、彼女たちは真っ先に人質にされただろう。

 蜂起した相模衆が時間差で動いたのも、おそらく里見の軍勢と湊で合流する手はずだったのだと思う。

 もしすべてが後手に回ってしまった場合、直情型の左馬之助殿が冷静に対処できただろうか。

 勘助がいるから何とかなった気もするが、誰が裏切って誰がそうでないかわからない状況では、大きな被害が出ていてもおかしくなかった。


「そのほうらのお陰で、小田原は無事だ」

「そっ、それは良かったです」

 九兵衛は耳まで赤くなりながら、そわそわと視線を揺らした。

 聞いたところによると、海上ではかなりの猛将だったそうだ。

 気弱だが、使える男だというのは知っていた。その特殊技能は得難いものだし、素直なその気質にも好感を持っていた。

 だが、孫九郎が知っていたのはそこまでで、この男の海の上での才能を過小評価していた。

 興津と並んで、清水家にももっと多くの船団を任せてもよさそうだ。

「被害はどの程度だ? どれほどで復旧が可能だ?」

「はっ、はい」

 九兵衛は、子熊のような顔を不安そうにしながらも、こくこくと首を上下に振った。

「砦より船の修繕を優先しろ。怪我人の手当ても」

 孫九郎はポンと九兵衛の肩を叩いた。

 本当によくやってくれた。

 城が島を視察して、その対岸を見て海からの攻撃のことも考えていたのに、今すぐそうなる事態は頭にはなかった。

 完全な油断だ。

 もしここで食い止めることが出来なかったら?

 想像するのも恐ろしい事態になっていただろう。

 負けはしなかったはずだ。だが、戦死者の数もきっと跳ね上がっていた。

 潮風が海から煤けた臭いを運んでくる。

 陽気な男たちの声が、そこかしこから聞こえてくる。

 勝って意気が上がる様子は心躍るが、孫九郎が考えなければいけないのはこの先だ。

 今は勝った。次も必ず勝たねばならない。その為に必要なことはなんだ?

「褒美をやらねばな。なにがよい?」

 だが自省は後にして、今は勝利を祝うべきだろう。

 孫九郎がそう言うと、声が届く範囲にいた男たちが歓声を上げた。


 承菊が、顔面に笑みを張り付かせたまま言った。

「引き続き目を光らせておかねばなりませぬ」

 祝宴が続く中、酒を口にしない孫九郎と承菊は酔わない。

 ふたりして白湯を飲みながら、酔っぱらう男たちを眺めている。

「そのほうの予想が当たったな」

「房総のことでしょうか……方向は違いましたが」

 孫九郎が呟くと、承菊は笑みの形を崩さない唇に湯呑を運んだ。

「だがこれでわかった。あやつらは今川を敵に選んだ」

「そのようですね。正気の沙汰とは思えません」

 孫九郎は小さく笑う。

「……我らを相模にとどめておこうとしているのだと思うか?」

 胸の内にあった疑惑を口にする。

 承菊はしばらく黙った。

 孫九郎の問いの意味を、しっかり考えている様子だ。

「武蔵にまで出てこぬよう牽制されたということですか?」

「……それもある」

 酔っ払いどもを微笑みの形状で見守っていた目が、すっとこちらを向いた。

 孫九郎もまた横目で承菊を見て、手に持っていた湯呑を床に置いた。

 承菊は口を閉ざした。孫九郎も何も言わなかった。

 だが、互いに理解をした。

 房総の勢力は、武蔵への進出を目論んでいる。今川に余計な手出しをしてほしくない。お前らは手に入れたばかりの不安定な相模で遊んでいろ。……そんなニュアンスだろう。

 もちろん牽制は失敗したわけだから、何を言わんや。

 上手く行けばそのうち相模にも進出して……と皮算用をしていたのかもしれない。

 里見衆の中には、左馬之助殿の父親が滅ぼした三浦衆の一部もまじっているそうだから、城が島を何としても取り戻したいと思っていたのかもしれない。

 どちらにしても、上手く行かずに敗走したわけだが。

 承菊の口角が、にゅっと上がった。笑い声はない。ただ、小さく肩が揺れた。

 笑うな。そんな風に笑ったら……気の毒じゃないか。

 孫九郎はつづけた。

「あるいは……あるいはだ」

 どこかで大きな笑い声がした。陽気な酔っ払いどもの歓声だ。

 孫九郎もまた、承菊にならって唇を笑みの形に持ち上げた。頬の筋肉が若干引きつる。

「双方の弱体化を狙ったのやもしれぬ」

 誰が、とは明言しなかった。

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