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夏颯記  作者:


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8-4 相模 玉縄城2-1

 交渉が決裂した翌日から、晴れが続いた。

 この分なら川の増水も収まりそうだ。

 もちろんそれは相模川だけのことではなく、多摩川も同様だ。

 つまり、古河公方の軍勢が増援を呼び、再び押し寄せてくる可能性がある。

 孫九郎は、しばらく玉縄城にとどまることにした。

 小田原から、交代の兵を寄越すとの知らせがあったから、その到着を待つ間だけだが。

「長く滞在するのでしたら、御身の回りの品を用意せねばなりません」

 藤次郎が眉間にしわを寄せながら言う。

「そうですね。少なくともあと二揃いほど着替えを……」

「要らない。定住するわけじゃないんだから」

 孫九郎は首を振って、笑いながら返した。

 ひと戦終えた今川軍は、武器を木づちに持ちかえて、再び城の修繕に励んでいた。

 カンコンとそこかしこから聞こえる音が、耳に心地よい。

 人が生きていこうとする音。復興の音。

 戦場で聞く剣戟よりもずっと好きだ。

 孫九郎は額に滲んだ汗をぬぐい、強まる日差しに目を細めた。

 まだ蝉が鳴くには早いが、気温的にはそれに近いものがある。

 夏本番が迫っている。


 晴れが続いて三日目。

 相模川の対岸に軍勢が現れた。待っていた交代の兵だ。

 後続に長く小荷駄隊があると聞いて、わかっている奴が後詰めにいる安心感にほっとする。

「ご無事でなによりです」

 そう言いながら孫九郎を見て、満面の笑みを浮かべたのは承菊だ。

 たいして心配などしていないだろう。

 そう返してやりたかったが、さっそく物資を下ろす指示を出している松之助殿を見て黙った。

「庵原を連れてきたのか」

「はい。我らがおらぬ方が気楽かと存じまして」

「……気楽?」

 孫九郎はちらりと、テキパキ働く新参たちを見る。

 孫九郎が三浦半島に連れていった兵が三千ほど。承菊が入れ替え用の兵として連れてきたのも同程度。

 つまり今の小田原には、もとの半分の兵もいない。

「今しかないと思うでしょう」

「楽しそうだな」

 まるで、プレゼントを心待ちにしているような顔だ。

 承菊はなおいっそうにこやかな笑顔を浮かべた。

 楽しいのか。……そうか。

 孫九郎はそれ以上の突っ込みを入れずに、視線を逸らせた。

「こちらもいろいろとあったようですね」

 承菊の墨色の法衣はここでも異彩を放っているが、渋沢隊がそもそも黒づくめなので、意外と浮いて見えない。

 そんな事を考えながら、小さく頷く。

「たいして激しい攻勢でもなかった。気がかりなのは、山内上杉家の動きがわからないところだ」

「ああ、山本殿から伝言を預かっておりますよ」

 承菊はニコニコ笑顔のまま、忘れていたとばかりに両手を軽く打ち合わせた。

「山内上杉家で内訌が起こりました」

 そのよく通る声は、近くにいた者全員の耳に届いた。

 ぎょっとしたような視線が四方から寄せられて、孫九郎は溜息をつく。

「……ついでのように言うな」

「悪くはない状況です」

 承菊はこちらの気持ちなど構いもせず、ますます上機嫌な表情で言った。

「武蔵を切り取るいい機会です」

 いや! 切り取らないからね!

「……ちょっと来い」

 可能なら、その無意味に形のいい耳を掴んで引っ張ってやりたかったが、そんなことをしたら恨まれそうなので、小声で命じるにとどめた。

 顎をしゃくって薄暗い室内に導き入れ、座れと近くを指さす。

 承菊はきょとんとした表情で孫九郎を見下ろして、首を傾げた。

 ……こいつ、本気でわかっていないんじゃないか。

 一度ガツンと言ってやった方がよさそうだと口を開いたが、「何が悪いか」を明確に言うのは難しいと思い至った。

 このやろう、確信犯だな。

「武蔵は要らない」

 はっきりとそう言ってやると、小さく口角があがったから……やはりそうだな。わかっていて言ったのだ。

「……山内上杉がいずれそうなるかもしれないとは思っていた」

 二年前の甲斐戦で、既にその気配はあった。

 山内上杉家が甲斐に影響力を拡大しようとした理由は、家中に威信を見せつけるためだったように思う。

 だが、今川軍がそれを妨げた。

 今回の内訌は、それが原因の一端になったのではないか。

「これほどの好機はありませぬ。御屋形様は天運に恵まれておられます」

 今度の承菊の声は、囁くように小さかった。

「今の山内上杉家の当主は、古河公方様のご実子です。ですが、内訌を起こした先代の子のほうが優位に事が進んでいるようです。上野も武蔵も、どちらにつくかで揺れるでしょう」

 ちょうどよいタイミングで、一万の兵が相模にいる。

 武蔵を嘗め尽くし、上野まで勢力圏にできる立ち位置だ。

 承菊の言葉から連想してしまったことに、ぞっとした。

 悪魔のささやきだ。

 自分はこんなことを考える人間ではなかったはずだ。

「武蔵は要らない」

 もう一度、強い口調でそう返す。

 承菊はじっと探るように孫九郎の目を見てきた。

 相変わらず黒目が大きくて目力が強い。

 ぐっと腹の下に力を込めて睨み返すと、しばらくして、承菊は「ふっ」と息を吐いた。

 笑ったような、呆れたような……よくわからない表情のまま、坊主頭を下げる。

「わかりました」

 本当に分かったのか?

 非常に疑わしかったが、承菊はそれ以上何も言わなかった。

 藪蛇になるので、孫九郎もその話題は避けた。

やっと伏線回収

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― 新着の感想 ―
実際問題武蔵まで手に入れたら敵と隣接し過ぎて人が足りんようになるよね今だと
「武蔵は要らない」 ああ!なるほど「武蔵は!要らない」ですか、ふふふ そうですかそうですか、やはり京への道のりを何とかせよとのことですか なるほどなるほど、甲斐、ときて...  あとは三河、尾張、美濃…
頻繁の更新ありがとうございます。 時期を狙ったかのような山内上杉家の内紛、元々、火種はあったにせよ、炎上のタイミングは甲斐攻めの時の様に勘助の手によるものでしょうね。 孫九郎視点のため、裏で勘助や承菊…
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