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夏颯記  作者:


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8-3 相模 竜宝寺3

 痛いところを突かれたようだ。

 大森殿の手は刀を掴み、その瞬間に今川側が一斉に身構えた。

 このぶんなら当初の予定通り、先に抜かせることが出来るか。

 孫九郎のそんな思惑に反して、大森殿の手はそれ以上動かなかった。

 短気ではあるが、そこまでの度胸はないようだ。

 太田殿も同じ感想だったらしい。ふんとこれ見よがしに鼻を鳴らした。

「どうした。勝てるのならそう言え。公方様の号令により集まったのだろう。その名に恥じぬ働きをすればよい。……できるものならな」

「おのれ! むざむざと城を失った分際でなにをっ」

 大森殿が吐き捨てた言葉は、途中で途切れた。

 ぞっとするほどの怒りが、膝を立てて座っている男から発せられたからだ。

 今川側だけではなく、周囲の国人衆も一斉に身じろぎする。

 誰も刀を抜いていないのに、お堂の空気に刃物の匂いが混じった。

「抜け」

 殺気すら混じった怒気にふさわしくない、平坦な落ち着いた声が響いた。

「刀を抜くなら今ここで抜け。談判の座で誰が先に抜いたか……ワシがこの目で見届けてやる」

 大森殿は真っ赤だった顔から血の気をひかせた。だがそれを傍目にさらすまいと、乱れかけた息を整える。

「どうした、公方様の名のもとに集められた軍勢なのだろう。御下知に従い、今川を下すのではなかったか」

 煽っているのに、理屈だけは外さない。責任の所在をはっきりさせている。

 その言葉の選び方で分かった。太田殿は、公方側に立っているわけではない。少なくとも、単純な“公方の犬”ではない。公方も北条も憎んでいる。

 扇谷上杉家の使者として、主君の名を背負ってここにいることは間違いない。

 だが、「むざむざと城を失った」と言われ激怒した。

 やはり北条に江戸城を奪われた太田氏なのだろう。

 あの後、北条は古河公方の姫君を迎え入れた。それはつまり、御一門の末席に名を連ねたということ。

 どういう事情があってそうなったのかは定かではないが、扇谷上杉家にとって、いや太田殿にとって、納得が行かない成り行きのはずだ。

 太田側の供が少ない理由が、ようやく腑に落ちた。

 ここで、事を起こす気だ。

 いやもっと正確に言うなら、起こさせる気だ。

「それとも、負けて退き、公方様の御名を辱めるか」

 太田殿の煽りに耐えかねて、大森殿の指が刀の柄を握りしめ、鯉口が切れかけた。

 国人衆の視線が大森殿の手元に吸い寄せられ、今川側の供回りが息を殺す。

 そして、その瞬間。

「……今ここで刀を抜くなら、それは『公方様の御意』と受け取ってよろしいか」

 孫九郎の声が、緊迫したその場の空気を崩した。

 声は少年のものだ。だからこそ、その場にいる全員がギクリと身じろいだ。

 今まで孫九郎を見ていなかった大森殿も太田殿も、反射的に視線をこちらに向ける。

 大森殿の、刀を抜きかけていた手が止まった。

 おそらく誰もが同じことを考えている。“公方の御名で”正当化できるのかと。

 孫九郎は黙って、その答えを待った。


 結局、この調停は物別れに終わった。

 現状維持というか、公方様にお伺いを立てるまでは一時停戦だ。

「……残念」

 足早に遠ざかっていく騎影を見送って、ぽつりとつぶやいた。

「うまくいかなかったな」

 そんな孫九郎を、藤次郎はじめ側付きたちが呆れた目で見る。

「わざわざ止めたのは御屋形様では」

「……まあそうだ」

 孫九郎は、近づいてくる特徴的な足音に振り返った。

 濡れた土の上を、片脚を引きずりながら近づいてくるのは、座っていた時には巨人に見えた太田殿だ。

 あれほど声は息子に似ていたのに、特に背が高いというほどではなく、体格はむしろ痩せていた。

「余計なことをしたか?」

 孫九郎がそう問うと、太田殿は探るようにこちらを見て、しばらくしてから息を吐いた。

「治部大輔様でしょうか」

「そう名乗ったはずだが」

 いや、門前で言っただけだったかも。

 もしかして、違うと思われていたのだろうか。

 あれだけ煽っても、孫九郎が直接話し合いの場に出てくるとは思っていなかったのかもしれない。

 孫九郎は納得して頷いた。

 あの場で誰もこちらに注意を払わなかった理由がわかってすっきりした。

「大変失礼な真似を致しました」

 太田殿はそう言って、つるりとした頭を深く下げた。

 態度は殊勝だが、実際にはそう思っていなさそうな表情だ。

 孫九郎は苦笑した。 

「死に場所は選べ」

 孫九郎の言葉に、太田殿は複雑そうな表情をする。

 おそらく、あの場で死んでもいいと思っていたのだろう。

 騒ぎを大きくし、今川軍を武蔵に引き込むことができたなら、その責任をとって腹を切るつもりだったのかもしれない。

「そちらこそ、御身をもっとたいせつになされよ」

 あいたたた。

 太い釘を刺してきたのが、味方ではなく敵方なのは皮肉だ。

 孫九郎は口元に手を当てて、もう一度笑った。

 雨がサアッと通り過ぎ、雲が切れる。

 わずかにのぞいた青空から、陽光が差し込む。

「武蔵は荒れるぞ」

 孫九郎がそう言うと、太田殿はしばらく黙った。

「……治部大輔様は関東を欲しておられるのでしょうか」

「いや?」

 どこまでを勢力圏にするかについては、さしてこだわりはない。むしろこれ以上はいらない。

 だが、左馬之助殿に相模を任せたのちに、泥沼の戦いが起こるようでは困る。

「公方様が今川を敵としてみておろうとも、さしたる問題ではない。だが、武蔵をまとめる口実にされるのは御免だ」

 太田殿の用心深い視線が、舐めるように孫九郎を見た。

 老練な武士の凝視を振り払うために、あえて年若い少年らしさを前面に押し出し、笑顔を向ける。

「次に会うのが戦場でなければよいな」

 門前で、白桜丸が嘶く。

 百名ほどの軍勢が、孫九郎を迎えに来たようだ。

 その先頭にいるのは、黒衣の小具足姿の渋沢だった。

 太田殿は、何かを考えるような表情で、孫九郎が馬に乗るまで無言でいた。

 その傍らにはいつの間にか息子殿と、太田家の家臣らが控えている。

 鞍に座り、足をあぶみにしっかりと掛けてから、孫九郎は視線を太田殿に合わせた。

 最後にひとつ、伝えておくべきことがある。

「先だって、小田原に公方様が使者を送ってくださったようだが」

 途中で賊に襲われ、川に流されていたのを救助した事。書状が濡れて読めなかった事。

 今川家が敵対しているのはあくまでも江戸城にいる北条氏であり、公方様に思うところはないと、伝言を頼む。

 太田殿の目がきらりと光った。

 この名目があれば、今川との仲裁をしようとした扇谷上杉家の言い訳が立つ。

「……これでまだ戦えるだろう?」

 孫九郎はそう言い置いて、馬の腹を蹴った。

わかりにくいかもしれないです

書き直してもうまく書けない……

更新はしましたが、まだ少しづつ修正しています

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― 新着の感想 ―
今回の太田氏は、太田道灌? それとも、太田資頼(出家しているから知楽斎か?)なのでしょうか。 とするならば、息子が資正(三楽斎)なのか。 彼らも、史実とは違うこの乱世でどういう運命を辿るか、楽しみです…
この方は死ぬまで北条に噛みつき続けた太田三楽斎様?それともその父上の太田資頼様? というか岩槻の太田一族は道灌様から始まって三楽斎様の子が北条に下るまではひたすら北条と敵対し続け、 秀吉の北条征伐まで…
大きいな人には甘くなる〜 殺伐とした中にもらしさが出てて好きですv
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