1-6 駿河 今川館2-3
ダダダッと足音がした。
さっと前に出た護衛達の間から、廊下を走ってくる子供の姿が見えた。骨が太く頑丈そうな子供だ。
一瞬それが誰かわからなかったのは、その子が女児の着物を着ていたからだ。
正確には、女物の小袖を羽織り、追っ手の目をくらませようとしたようだ。
こちらに気づいて、しまったというような顔をしたが、すぐに取り繕った。
「治部大輔様!」
きちんとその場で居住まいを正して、頭を下げる。
「やあ、太郎殿」
孫九郎は軽い口調でそう返し、太郎殿を逃走させたのは誰だと視線をその背後に向けた。
そして、駆け回っている武士たちの顔ぶれを一瞥して、武田勢の側付きらだと見極める。
太郎殿は賓客として、今川館の別棟の屋敷に住んでいる。あくまでも人質ではなく、賓客だ。
なので比較的自由度は高い。
与えた屋敷の中とその周辺は自由に歩き回ることができるし、家臣や商人を呼ぶことも許されている。
もちろんかなりの部分に監視が入っているが、よほどのことではない限り規制はかけていない。
彼らが今川館に来て二年。当初はおとなしくしていたが、最近いくつかの思惑により動きがあると報告を受けていた。
太郎殿は頭の良い子だ。本音でどう思っているかはわからないが、今川家に敵対する気はないと、常に態度で示している。まだ十歳に満たないが、ただの子供ではない。
太郎殿を探し回っていた一部が、孫九郎に気づいた。
同時に視界に入ったのだろう太郎殿を見て、ほっとした表情をする。
甲斐衆とはいえ腹芸ができない者ばかりではないので、控えめにその場で片膝をついた側付きたちの中に、今川家に対して強い敵意を抱いている者はいるだろう。
賢い太郎殿が、そのうちの誰から離れようとしたのか。
孫九郎は静かに甲斐主従を見比べて、にこりと笑みを浮かべた。
「鯉に餌をやりに行こうと思うていたのだ、一緒にどうだ?」
とっさのその思い付きに、困惑の表情をしたのは甲斐主従。孫九郎の側付きや護衛たちは表情を変えない。
「……はい」
従順に頷いた太郎殿に向かって、手を差し出す。
……思いっきり、「えっ」という顔をされてしまった。
すでにもう童子と呼ぶには大きい。仲良く手をつないで、という年でもないのだろう。
だが今更差し出した手を引っ込めるわけにもいかず、素知らぬ顔で小さく首を傾けて見せると、太郎殿は少し照れくさそうな表情をして、おずおずと手を握り返してくれた。
二人して手をつないで廊下を歩く。
太郎殿は鮮やかな色の小袖を羽織っているので、さながら女児を連れているようにも……いや、まったく見えないな。
こちらを二度見してくる家臣らが、残念そうな顔をしているのは……気のせいだろう。
今川館の敷地内にはいくつかの池がある。美しく整備され、四季折々目を楽しませてくれる。
寝殿造りを基本にしているので、庭も広大だ。
孫九郎も日々かなりの距離を散歩しているが、同じところをぐるぐる回っている感じがしないと言えば、広さがイメージできるだろうか。
普段はこの辺りに来ることのない太郎殿の目が、興味深げにきょろきょろと動く。
この辺りは北奥に面しているので、警備の都合上限られた者しか入ることが許されていない。
「兄上様!」
少し離れた位置から呼ばれて、はっとした。
聞き間違いようのないその声は、誰が聞いても喜色が混じっているとわかる弾んだものだった。
「姫様! なりませぬ! 姫様っ」
お付きのものに必死に止められて、幸ははっと口を押えた。
駆け寄ってこようとしていたのを誤魔化すようにさっと顔を俯け、ぱたぱたと乱れた裾を直して、改めて顔を上げる。
知らず、孫九郎の頬が上がっていた。
「幸」
目が合って微笑みかけると、幸の顔もぱっと綻んだ。
「来ていたのか。幸松も?」
「はい、御屋形様」
すまし顔でそう言って、ちらりと見たのは孫九郎の手だ。
幸の表情は陰りのない笑顔だったが、その一瞥を受けて、太郎殿が慌てたように孫九郎の手を離した。
「兄上は表の方に行っております。すぐにご挨拶に伺うとのことです」
「そうか」
太郎殿が半歩後ろに下がるのを感じて振り返ると、まるで孫九郎の陰に隠れるように顔を伏せていた。
この子らしくない挙動を不審に思ったが、幸が「御屋形様!」と鈴のような声を上げたのですぐにそのことは頭から退かされた。
「こちらの鯉は鮮やかな色味ですね! 名はあるのですか?」
「さあな。餌をやると寄ってくる」
「そうですか!」
幸は素早く孫九郎の護衛の間をすり抜けて、側に寄ってきた。ふわりと漂ってくる香の匂いに、年頃の姫君らしくなったと目を細める。
幸は福島家の子らしく、背が高い。おそらく年齢的には太郎殿と変わらないが、比べてみると頭一つ分は大きい。
男子より女子のほうが成長が早いので、おかしなことではないが、成長期が来たと自覚している孫九郎よりもなお目線が高いのには羨望しかない。
「鯉に名をつけても構いませぬか」
「もちろんだとも」
ひとしきり会話をしてから、ようやく太郎殿の存在を思い出した。
これはいけないと、数歩下がってしまった太郎殿を幸に引き合わせる。
「太郎殿、妹の幸だ」
太郎殿は引いた位置から、幸と孫九郎の様子を観察していたようだった。
「……武田太郎と申す」
「福島幸です」
ふたりの間に流れる空気感に、思わず咳払いをしてしまった。
太郎殿はむっつりと唇を引き結んでいるし、幸の笑顔も張り付いたようだ。
「赤い小袖がお似合いですね」
「好きで着ているわけではない」
……なんでこんなにギスギスしているんだ?




