7-5 相模 玉縄城2
昼からまた雲が増え、夕刻には雨が降ってきた。
梅雨はもう終わったはずなのに、季節が逆戻りしてしまったようだ。
幸いにもそれほどの雨量ではなかったので、今川軍はおとなしく玉縄城の敷地内で待機した。
バラバラと屋根に雨音が打ち付ける。
その音に、つい天井を見てしまうのは、雨漏りが気になるからだ。
ここは一番延焼が少なかった建屋だが、それでも屋根のいくらかは痛み、建具類が真っ黒になっている。壁が丸ごとないところもあるので、真冬だったらとんでもなく寒かっただろう。
もう薄暗くなってきたのに、応急手当の修繕の音がそこかしこから聞こえてくる。
だが、今回孫九郎が率いているのは実働部隊であり、どこかと戦うには不足がないが、建築を得意とする者は少ない。
城の修繕が「それなり」では困るので、仮の修繕にしてもいずれ本職の大工を呼ぶ必要があるだろう。
実は、今川軍内にも専門の部隊がある。
だがその者たちは吉田城の井伊殿の下に組み込んでいるから、呼び寄せるにも遠すぎる。
さて、どうする?
まず考えるべきは、この城を誰に任せるか。
後回しにされると取り残された領民に被害が出るだろう。
左馬之助殿と勘助に不足があると言っているわけではない。誰に任せても、優先順位があるのだからそれで割を食うところは出る。
ふたりの下でも、きちんと己の意見を言える者がいい。
ふと脳裏に浮かんだのは、松永の顔だ。
……いや、あの男は、左馬之助殿の補佐としてもはや欠かせない存在だ。
松永とセットで思い出したのは、今川館で文官をしている男の顔だ。
最近生まれた子供の髪色が、祖父にそっくりだと聞いて見に行ったところだった。
あれに城を任せることはできないが、文官としては有能なので、松永の代役なら務まりそうだが ……まだ子供が小さいのに転勤は気の毒か?
うろうろと思いは迷走しつつも、方針はほぼ固まりつつあった。
勘助の下に、これまで孫九郎が有能だと感じた者を移動させるというものだ。
松田以外の者たちは、元の身分が低いので、これまでは前に出て活躍できなかった。
だが、使える者はつかうべきだ。
何しろ人が足りない。
相模衆の中にも使える奴はいるはずだが、期待していたほど集まらない。今川家への反発が強いせいだろう。
「御屋形様」
カンコンと規則的な木づちの音にウトウトしかけていた孫九郎は、はっと目を開けた。
いかん。じっとしていると寝てしまいそうだ。
「……どうした」
軽く首を振ってそう返すと、かろうじて燃え残った襖がガタゴトと音を立てて開き、その向こうで土井がさっと片膝をついた。
「問題が起こったようです。御仕度を」
何があったのかと問い返したかったが、開け放たれた襖の向こうからざわざわと緊迫した気配が伝わってくる。
直接見に行くかと腰を浮かせたところで、谷がドンと刀鞘の尻を床に落として鳴らした。
今の今まで目を閉じて、きっと寝ていたに違いないのに、鋭い視線を周囲に向ける。
わかった。わかったって。そんな目で睨まなくても、報告が来るまでちゃんと待つ。
「申し上げます」
残っていた湯呑の白湯を飲み干して、いつでも出かけられるよう気構えをしていると、庭先から藤次郎が近づいてきた。
「野盗がでたようです」
孫九郎の眉間にぎゅっと皺が寄る。
今川家の領内には、野盗は多くない。
野盗といえば山の民、サンカ衆だが、彼らとの間には強い協定があるからだ。
あの者たちの情報伝達の速さは忍びを越える。相模が今川の勢力範囲になったと知らないはずはない。その野盗がサンカ衆なら協定違反だが……別口だろうな。
最近は戦続きで、武士崩れの盗賊が多いのだ。
「ここにか?」
孫九郎の問いに、藤次郎は首を横に振った。
「まさか。我らを襲おうなどという猛者はおりませぬ」
「おめぇらのせいだっ!」
そんな子供の声が聞こえ、同時に藤次郎がさっと拳骨をふるった。
ゴン! と痛そうな音。
目を凝らすと、足元に小柄な子供が転がっている。頭を押さえてゴロゴロと。
「いてぇ!」
それは、あの谷戸の村の子供だった。孫九郎を睨んでいた、目つきの悪い童子だ。
「おとなしくしておると言うから連れてきてやったのだ。無礼は許さぬ」
兄弟の多い藤次郎には、この手の子供の扱いはお手の物なのだろう。
まだ暴れているその着物の裾を踏み、動きを止めてから、襟首をつかんでブランと引き上げた。
じたばたしている子供をぶら下げて微動だにしないのは、力があるというよりも慣れだろう。
今、ぽいと後方に投げようとしたな。やめろよ、猫と違って受け身の取れない人の子だぞ。
「下ろしてやれ」
それよりも、話の流れ的に、孫九郎たちが世話になった村が襲われたのか?
いや、村には数人だが兵を置いてきた。何かあったら先にそこから知らせが来るはずだ。
盗賊のほうも、近くにいる我らに気づかれる危険をおかすとは思えない。
「庄屋が、他の村にも米を分けようと運び出したようです」
その輸送中に襲われ、運び手の老人も、届け先の村人たちも、無残に殺されたそうだ。
藤次郎の説明を聞いて、孫九郎は、憎々し気なあの目で睨んでくる童子に視線を向けた。
それをこの子が知らせに来たのか。
まだ五つほどの童子だぞ?
「他の被害は」
「わかりませぬ。ですが、物見によると、よその谷戸でも火の手が上がっているようだと」
「おめぇらのせいだっ! おめぇらが、おめぇらが!」
暗がりで目だけが光っている子供の絶叫が、容赦なく孫九郎に浴びせられた。
再び藤次郎の拳骨が振りかぶられるが、孫九郎が扇子をすっと上げたので止まった。
「なるほど。我が領内に攻め込んできたということだな」
あえて「野盗が」とは言わなかった。
いつの間にか周囲は静まり返っていた。
木づちの音も聞こえない。騒ぎも聞こえない。あれだけ喚いていた童子も、いつの間にか黙り込んでいる。
孫九郎はゆっくりと扇子を広げ、ぱちりと閉じた。
その乾いた音を聞いて、藤次郎が童子の襟首から手を放す。
ドスン、と音を立てて童子は尻から地面に落ちたが、苦痛の声は上がらなかった。
その目が大きく見開かれている。
……何を見ている? 不甲斐なくも領民を守れぬ武士をか? すまないな。すぐに済ませるから。
立ち上がって、縁側まで進む。
藤次郎が、土井が、そのほかの者たちが、土の上に片膝をついてこちらを向いている。
孫九郎はゆっくりと深呼吸した。
感情のままに動いてはいけない。そんなことはわかっている。
だが、必死に生き延びようとあがく無辜の民から糧を奪い、その命をも平然と刈り取る。そんな者たちに容赦は不要だ。
「残らず討ち取れ」
応っ! という掛け声と同時に、ザッと土が擦れる音がした。




