7-2 相模 相模川~玉縄城付近 谷戸の村1
あれだけ晴れていたのに、午後も遅くなると雨が降ってきた。
見上げると、色の濃い雲が空を覆っている。
西のほうにはまだ青空が見えるから、本降りではない。
だが、川はもっと機嫌を悪くするだろう。
「渡らなくて正解ですね」
隣で馬を進める藤次郎が言う。
「このぶんだと、増水は長引きそうです」
孫九郎は頷き、延々と続く軍列に目を向けた。
この時代の雨具といえば蓑。意外と有能な雨合羽ではあるが、何しろかさばる。
笠と蓑の両方を持参している者は少なく、多くが濡れたままだ。
「雨が止むまで休んだ方がいいのではないか?」
孫九郎の問いに、空を見上げる男たち。
顔をしかめる者が多数なのは、今の時刻がかなり遅いからだろう。
夕暮れ時まではまだあるが、冬ならすでに暗くなっている頃だ。
「いえ、このまま進みましょう」
殿から近づいてきた渋沢が言う。
「……御屋形様に笠と蓑を」
「いやいい」
濡れ始めている孫九郎を見て、渋沢が側付きたちに指示を出すが、首を横に振った。
孫九郎が立ち止まれば、全軍が止まる。
大軍が動き出すにはそれなりに時間がかかるから、多めに濡れてしまう者も出てくるだろう。
そう言う渋沢自身、黒備えの鎧兜のまま濡れているが、この程度の雨なら気にしないようだ。ちなみにしっかり頬あても完備していて、この男は真夏でもそれを外すことはない。
吹き出物もないつるりとした顔を思い出しながら、恐ろし気な頬あてを見返す。
「あとどれほどで着く?」
「この調子なら一刻ほどでしょう。あの山あたりです」
雨の道を騎馬で進むのは、安全とは言えない。
白桜丸が脚を痛めることを想像すると、自動的にしかめっ面の逢坂老の顔が浮かんでくる。
日があるまでに着けばいいが。
「奇襲に気をつけよ」
強まる雨に目を細めながら言うと、孫九郎に塗り笠を渡したそうにしている小姓がはっとした。
他の男たちはわかっていると言いたげに、鋭い視線を四方に散らす。
霧雨のようだった雨が次第に重みを増し、視界を悪くする。
土地勘のある者にとっては、絶好の奇襲タイミングだ。
だが、奇襲といえどもこの数の兵を相手どるには場所が悪い。陣取るとすれば……
「……斥候を出しましょう」
渋沢が目的地の方向を見てつぶやき、殿部隊に向かって手を振った。
斥候に気づいた複数の陣営が奇襲を諦め退いた。
玉縄城に入る前の何か所かの細道で、弓兵と急襲部隊で待ち構えていたようだ。
奇襲は相手が油断しているからこそ成り立つものだ。
敵は斥候に見つかって素直に引いたそうだから、目端の利く者がいるのだろう。
孫九郎は、近づいてきた丘陵地に目を凝らした。
雨はすでに止んでいるが、まだ遠くまでは見渡せない。
灰色の空の下に、ひとつだけ輪郭の違う丘があった。
なだらかな丘が幾つも重なり、その向こうに、他の丘よりわずかに高い稜線がある。
あれだ、と誰かが言った。
玉縄城。
だが、城そのものは見えない。櫓も塀も見えない。
その景色は、近づいてもさほど変わらなかった。
灰色の雨雲の下に、低い稜線が重く横たわっている。
城があるはずの頂は、林に覆われて黒く沈み、どこが郭なのかも分からない。
軍はその丘に向かって進んだ。
孫九郎自身も馬から降り、斜度のある道を黙々と歩く。
足元の土は重く、草履は泥を吸う。
雨は止んでも、ぬかるんだ土はすぐには乾かない。
足場が悪い。……ここでは戦えない。
奇襲を受けても負けはしないだろうが、相当の被害は出たかもしれない。
改めて気を引き締める。
物見遊山ではない。大勢の命がかかっているのだ。
谷戸をひとつ越えると、丘は少し大きくなる。さらにひとつ越えると、今度は斜面の線がはっきりしてくる。
その頃になって、初めて見えてくる。
丘の上に、黒い影。
木ではない。幹がまっすぐすぎる。
近づくと、焼けた櫓なのがわかった。その骨組みだけが、崩れかけたまま空へ突き出している。
雨に濡れた炭の匂いが、土の匂いに交じって届く。
城は焼け落ち、死んでいた。
玉縄城の縄張り内を索敵している間、近くの谷戸で休ませてもらった。
大勢の今川兵に村を囲まれて、さぞかし肝が冷えているに違いないが、しわくちゃ顔の庄屋はそれを顔には出さなかった。
丘と丘の間にある谷には、小さな田畑が点在している。それらを谷戸と呼ぶ。
今は農作業の多い季節だが、田畑に出るのは年寄りばかりだそうだ。
長綱殿に連れていかれた雑兵の一部は、ここの者たちなのだろう。
おそらくだが、女子供は隠されている。
今川軍が乱暴なことをするのではないかと、怯えている。
それでもこの地を離れないのは、郷土愛というよりも、よそでは生きてはいけないからだ。
谷に住む村人たちは、玉縄城が燃えていくのを見ていただろう。
息子や夫が雑兵として連れていかれるのも、何も言えずに見送ったに違いない。
それが戦国時代だと言うのは簡単だが、気軽に帰省などできないこのご時世、このような形で生き別れになってしまえば、次に会えるのはいつになるか。……いや、もう二度と会えないかもしれない。
夏だが火を入れた囲炉裏で、濡れた衣類と髪を乾かす。
孫九郎は、土井が差し出した白湯を口に含み、土間のほうをちらりと見た。
庄屋一家は土間で両膝をついて黙って平伏している。
年老いた庄屋と、その妻。同居している兄弟なのだろう者たち。
誰もが年老い、兵役には適さない。
ぽたりと、庄屋の汗が顎から滴り落ち、土間に染みを作るのが見えた。
その妻の震えが、こちらまで伝わってくるようだ。
孫九郎はあえて、声はかけなかった。
なにを言っても、恐怖は消えないだろう。
孫九郎にできるのは、この地に十分な謝礼を落とし、一刻も早く立ち去ることだけだ。
「……あっ」
孫九郎の髪を結っていた小姓が、声を上げた。
元結の紐が切れたのだ。
まだ湿った髪が、すとんと肩まで落ちる。
「申し訳……」
謝罪しようとする小姓を制し、髪が乾くまで少しそのままでいることにした。




