6-6 相模 三浦半島 新井城2
空気が湿気ている。
孫九郎は、重く立ち込めている雲に目を凝らした。
新井城での用事が済んだので、小田原に引き上げようとしたその前日、再び雨が降り始めた。
豪雨とまではいわないが、長引きそうな雨だ。
出立を延期するというのは妥当な判断だった。
ぽっかり空いた一日。
たいていは執務をして過ごすが、出先の時は本当にすることがない。
テレビはない。ラジオもない。スマホもパソコンもない。本もなければ、電話もない。
……こういう時に、現代をひどく恋しく感じる。
もはや遠い蜃気楼のような記憶だ。手を伸ばしても、掴むことはできない。
それでも折に触れ思い出してしまうのは、かつてはこんな雨の日を好んでいたからだろう。
子供のころは、雨の音が好きだった。静かに広がる雨音を聞きながら、延々と本を読んで過ごしたものだ。
少し前までは、雨の日に思い出すのは事故のことばかりだったが、最近はまるでセピア色の写真をめくるように、古い記憶が蘇ってくる。
「御屋形様」
弥太郎が、湯気の立った薬湯を持ってやってきた。
一礼する姿は静かで、足音も衣擦れの音もなかった。
「降りますね」
珍しくそう話しかけてきたのは、気分が下がり気味なことに気づいたからだろう。
孫九郎は頷き、開け放たれた木襖の向こう側に視線を戻した。
雨は静かに降り続いている。
晴れた日の見晴らしのよさから一転、白くもやがかかったような雨のカーテンが、世界を重く閉ざしている。
新井城は、岬の端をうまく利用した海の城だ。
三方に海があり、海側から攻め込まれにくい地形。それは防衛の面で優れた立地であり、三浦氏が北条を相手に抵抗を続け得た大きな理由でもある。
船団を保有する清水氏になら、任せても大丈夫だろう。
ぼんやりとそんなことを思いながら、薬湯をすする。
もはや慣れた苦さだったので、わずかな味の違いにも気づいた。
弥太郎は時折こうやって、孫九郎の体調の変化に気づいて薬湯の中身を調整する。
やはり体調不良にみえるのだろうなと、胸のうちだけで苦笑する。
「……聞こう」
しばらく雨の音に耳を傾けながら薬湯を飲む。
半分ほど残った中身を見下ろしながら言うと、弥太郎はもう一度丁寧に頭を下げた。
「江戸の忍びの層が厚うございます」
「無理はするなと言うたぞ」
「はい。赤目殿が近隣の国人衆として探りを入れたようです。我らは外から試みています」
赤目は勘助の子飼いの忍びだ。もっと前から武蔵に潜り込んでいたから、比較的楽に江戸に探りを入れることが出来たのだろう。
「わかった範囲でよい。江戸はどうだ」
「兵の数が多く、城では収まり切らぬようです」
この時代の城は防衛施設なので、大量の兵が常時生活できるところばかりではない。
新井城もそうで、多くの兵は城を守るように配備されている。
だが、江戸は広範囲が湿地帯だったはずだ。
駿東の湿地帯よりも大きく、そもそも集落もあまりないはず。城に入りきらない兵は、たとえば近隣の村などに分かれて配備されることが多いが、江戸はそれが難しい。
孫九郎はおおむね予想通りと、頷いた。
勘助や承菊とも話したが、江戸の兵は周辺国衆との軋轢を生むだろう。
古河公方の姫君との婚姻は、おそらくそれを黙らせる意味でもある。
これで江戸北条氏は、一躍周辺の代表格に躍り出ただろうが、もちろん納得するものばかりではないはずだ。
特に、江戸城を失った扇谷上杉家。
さぞ腹を立て、地団太を踏んでいる事だろう。
直接会ったことはないのだが、長年書簡のやり取りはしていて、当主の気質はわかっている。
気が弱く、だからこそ周囲を威嚇する。慎重になりすぎて、時を逃すタイプだ。
相模にいる間に、一度会ってみてもいいかもしれない。
そんな事を思いながら、薬湯を飲み干す。
「この辺りの国人らはどうだ」
三浦衆は排除した。だが、もっと小さな規模の国人衆は残っている。清水氏は新井城で、房総の海賊衆だけではなく、この半島をきちんと治めていく義務を負う。
「怪しい動きは今のところはございませぬ」
孫九郎はちらりと弥太郎の顔を見た。
この男がそう断言するのは珍しい。
なんでも、北条への反発が大きすぎて、三浦をあっさり討ち取った事よりも、小田原を落としたことのほうに好意的なようだ。
だが、それが本心からかはわからない。
この時代の国人領主は、力が強い者に靡くからだ。
孫九郎が相模にいる間は良くても、左馬之助殿だけになったとたんに離反する可能性は大いにある。
「しばらくは目を離すな」
「はい」
数日前、新井城の本丸で執務をしていて、大切にしまい込まれた書簡を見つけた。
それは、今川を討てという古河公方からのものだった。
時期的に、武蔵の国衆が連合して小田原に迫っていた頃と重なる。
三浦氏は公方の後見を当てにし、武蔵の動きも見て、蜂起したのだ。
北条が勝つと信じていたというよりも、この期にうまくやれば、新井城を取り戻せるに違いないと。
だが他の相模国人衆は動かず、後詰めもなかった。
結果相模三浦衆は、時流を読み間違えて自滅した。長く北条に支配されてきて、そのあたりの嗅覚を失っていたのだろう。
このことは、多くの示唆を含んでいる。
古河公方に実権はなくとも、権威はある。信じて従う者もいるし、あえて聞こえなかった振りをする者もいる。
つまり場合によっては、思いもよらないタイミングで足元を掬われることもあるかもしれない。
湯呑を返しながら、孫九郎はもう一度外に目を向けた。
雨はまだ降り続けている。
まるで、うっすらと白いヴェールをまとったような雨だ。
見晴らしが悪く、遠くまで見えない。
それはまるで、関東の趨勢のようだった。




