1-5 駿河 今川館2-2
夜。宿直が控える闇の中、孫九郎は臥所には入らず外を見ていた。
見慣れた庭園のほぼすべてが闇に沈み込んでいるが、暗い室内はなおいっそう暗い。
人類は火を得て、夜の闇を克服することができた。
いずれは二十四時間街灯が輝き、コンビニなど真夜中でも真昼のように明るい場所ができるようになるが、今はまだ、おぼろな光源を頼りに夜明けを待つしかない。
だが、この時代の人間は全くの非力ではない。
闇に迎合するすべを知っている。
夜目が利き、闇に紛れて行動する者たちは、優れた武器であり脅威でもあった。
「御屋形様」
部屋の隅に控えていた弥太郎の、囁くような声が孫九郎を呼ぶ。
「……来たか」
.胡坐をかいて膝に肘を乗せていた孫九郎は、お世辞にもうまくない小声で返して背筋を伸ばした。
ふわり、と風が動いた。
毎回思うが、これは演出か、あるいは物理的な現象か。
気づいた時には、庭先に小山のような人影があった。まるでずっとそこにあったかのような自然さで。
正式に代替わりをしたので、その隣に控えている男が当代なのだが、二人が並ぶとどうしても大きな方に目が行ってしまう。
「小太郎」
呼びかけると、二人は同時に頭を下げた。ややこしいな。どちらも『風魔小太郎』だ。
大きい方の小太郎が先に顔を上げ、闇の中できらりと目を光らせた。
「御屋形様」
相変わらずのだみ声、声よりも吐く息のほうが強い。
孫九郎は背筋にぞわりと悪寒を覚え、腕をさすった。
この男に『御屋形様』と呼ばれると、いまだにものすごく違和感がある。
「少し見ぬ間に、また背が伸びましたな」
うれしいことではあるのだが、会う人会う人すべてに同じことを言われるので食傷気味だ。
孫九郎のそんな心の機微に気づき、小さく咳ばらいをしたのはもう一人の小太郎だ。こちらも長身ではあるが、一回り以上身体が薄い。
「お呼びと伺い、参上いたしました」
「隠居の老人にまで何用で……」
大きなほうのだみ声を、若い方がもう一度咳払いして遮った。
「何なりとお申し付けください」
孫九郎は二人を交互に見て、少し気を緩めて頷いた。この先の微妙な話をどう切り出すべきかと迷っていたが、率直に言った方がよさそうだ。
「北条殿が倒れた」
孫九郎のその言葉を聞いて、二人の間にあった空気が止まった。
警戒したということではない。緊張したというほどでもない。いうなれば神妙な、わかっていたことを改めて突き付けられた、という感じだ。
「すでに知っていたか」
「はい」
即座にそう返してきたのは若い方だ。
「そのことを携え、左馬之助様に接触してきた忍びがおります」
「弥太郎から聞いた」
「我らをお疑いでしょうか」
あまりにも平淡なその問いかけに、孫九郎は軽く手を振った。
「そういう話ではない」
疑心を抱いているわけではないのだ。
「そのほうらを改めて召し抱えたい」
これまで、かつての北条風魔衆には都度仕事を依頼する形だった。常態として今川家に仕えてくれていたわけではない。彼らは確かに三河に根を下ろしたが、いまだに左馬之助殿を主君として見ている。
もちろん、その感情を否定したり、取り上げたりするつもりはない。
ただ今川家としては、保険をもうひとつつけておきたいのだ。
「扶持はうちの忍び衆と同格だ。働きにより加増もある。緊急時は左馬之助殿を優先してくれて構わない。ただひとつ」
孫九郎は、脇に置いた二枚の紙に目を向けた。
この暗闇で文字どころか紙そのものすらよく見えないが、孫九郎自身が書いたものだ。
「東か北かを選べ」
今や今川家の忍び衆は大所帯だ。弥太郎がその統括を務めているが、何もかもが一人の肩にかかっている状況は正直よくない。
そこで、武家と同じように地方ごとに専属でまかせることにした。丸投げ? まあ、今川家ほど広大な領地になると、そうしなければやっていけない。
「北を選ぶなら、信濃甲斐方面を担当してもらう。東を選ぶなら……」
孫九郎はひょいと肩をすくめた。
「北条を相手にすることになる」
しばらく誰も口を開かなかった。
二人の小太郎の心情は手に取るようにわかる。
今川は彼らにとってずっと敵だった。今はその風下に立つことになったが、いずれ時が来ればまた敵対することもあるかもしれない。
そんな風に思っていたのだろう。
三河に安住の地を得てもなお、彼らの心情としては北条家に仕える忍びなのだ。
「左馬之助殿に戻ろうという考えはないように見える。だがずっとそうとは限らない。もしも仮に、左馬之助殿と我らが袂を分かつときが来れば、そのほうらも同じ道を行けばよい」
「……裏切っても良いと仰るのか」
隻腕の巨躯の背中を少し丸めて、囁きのような声がそう尋ねる。
孫九郎は首を左右に振った。
「左馬之助殿は律儀な男だ。今川を去るというのなら、事前にそう告げるだろう」
つまり、小太郎らの去就もそれでわかる。
「黙って見送ると?」
「そのほうが何を聞きたいのかわかっている」
かつて敵国の忍びだった者たちを、利用するだけならまだしも、扶持を与えて召し抱えるなど、この時代の武士はなかなか怖くてできないだろう。
だが孫九郎にも思惑はあった。
「ここだけの話だ」
口元に手を当て声を潜める。
「兄弟喧嘩に決着を付けるつもりがあるなら、手を貸すのも吝かではない」
はっと息を飲んだのは、若い方の小太郎だった。
老練な方は、目を鋭く光らせてこちらを睨んでいる。
だがわかっているだろう? 仮に左馬之助殿が小田原に帰参したとしても、今川家と戦うより長綱殿の魔の手のうが先に伸びてくる。
あの男のほうこそ、一度今川家の為に働いた風魔衆を受け入れるはずはない。




