6-3 相模 小田原城12
亡き北条殿の嫡男、新九郎殿が正室を迎えた。
お相手は、古河公方の娘のひとりだ。
席次はそれほど高くない姫のようだが、これで北条家と古河公方との間に無視できない関係が結ばれたことになる。
その話を聞かされたのは、孫九郎が新井城に視察に向かおうとした朝のことだった。
軽い旅装。お忍びではないが、動きやすさを優先している。
足に脚絆をつけてもらいながら、そう報告をしてきた弥太郎を真顔で見返す。
「新九郎殿には、公家の姫君との話が進んでいたはずだ」
複雑な表情でそう言うのは、見送りに来ていた左馬之助殿だ。
孫九郎は、足のひもが結ばれるのを待って、立ち上がった。
「公家というのは勧修寺家ですね」
同じく、見送りに顔をだした承菊が坊主頭を傾ける。
誰も口にしないが、北条の今の状況で、羽林家と縁が結ばれることはないだろう。
江戸北条家は小田原を失い、はた目にも、いや実際にも大きく勢力を失った。
たったひとつしかない若き当主の正室というカードを、公家の姫君で使うのは合理的ではないし、勧修寺家のほうも、江戸という小さな城を持つだけの北条家に旨味は感じないだろう。
新興したての北条家が結ぶには、家格的に背伸びをした縁談なので、この状況で流れてしまうのも自然なことだった。
「長年の許嫁ではなく、実利をとりましたか」
にこにこ笑顔でそう言った承菊の言葉は、やけによく通った。
左馬之助殿が低く喉を鳴らす。
この男の中では、思い合う許嫁同士が、長綱殿の策略で引き裂かれた……そんな妄想がはかどっているのかもしれない。
だが言わせてもらえば、新九郎殿の年齢と立場で、許嫁がいるのにまだ婚姻していないというのは、何らかの事情があるからだ。
たとえば……京に住む公家の娘の大半は、遠い関東に嫁ぐことを好まない。そんな感じに。
「めでたい事ではありませんか。ご祝儀をお送りしますか?」
ふわふわとした口調でそう言われて、左馬之助殿の唸り声が情けないものに変わる。
承菊……やめてやれ。
一見無害に、いや善良に見えるこの男の真実は、数日側にいたぐらいでは伝わらない。左馬之助殿はまだその域に達していないのだ。
「葵殿の縁談は流れたということでよいのだろうな」
孫九郎が話を逸らすべくそう言うと、左馬之助殿は大きく頷いた。
父親としては、それでいいと思っているのだろう。
おそらくだが葵殿もそうだ。
彼女は婿を取って北条を継ぐ気でいる。そのお相手を、北条衆(もともとは相模の国人)の有力者から選びたいと思っている。
あんなことがあってなお意見を変えない頑固さは、孫九郎の目にはいいものに見えない。
そんな彼らと左馬之助殿の古参家臣団との軋轢は、日に日に大きくなっている。
……正直、勘助のいい玩具だ。
そろそろ出立しようか、そう話を切り上げようとした矢先。
見覚えのある男の顔が視界をかすめた。
申し訳なさそうに庭先に膝をつき、孫九郎が気付くのを待っている。
「佐吉?」
ここ十日ほど見かけなかった佐吉は、ずっと小田原湊で左馬之助殿のご正室らの面倒を見てくれている。
彼女たちは頑として小田原城には戻らないと言っているそうで、いまだに夫婦間の問題は解決していない。
「どうした」
そう声をかけると、佐吉は地面に両膝をついたまま頭を下げた。
「……あの」
顔を上げて、ちらりと左馬之助殿を見て、再びひれ伏す。
「も、申し上げます。お方様が、是非ともご挨拶をしたいと」
「えっ」
左馬之助殿が驚愕したように身体を引いた。
彼が妻を説得するために、何日も小田原湊に通っているのは知っている。
それでも戻ってきてくれない理由を、多分わかっていないのだと思う。
「……実家に帰りたいと言うておるのだな」
「はい」
「ええっ」
左馬之助殿は大きな声を上げた。
顔から血の気を失せさせて、きょろきょろと視線を泳がせている。
すがるように佐吉を見て、孫九郎を見て、よろけながら腰を浮かせる。
左馬之助殿のご正室の実家は伊豆だ。伊豆衆の中では有数の大家だったが、今川家が伊豆支配をしてから家門ごと相模に移っている。
つまり左馬之助殿の古参衆という扱いで、最近は古い相模の国人衆と距離をおいていた。
左馬之助殿のご正室は、まともな感性をお持ちのようだ。
今川家に対していい感情はないだろうに、武家のならいをわきまえている。
彼女は己たちを、敗者だと受け入れているのだ。
夫である左馬之助殿が勝者側という、一般的ではあまりない状況だが、彼女たちの実家は確かに敗者ではある。どんな苛烈な扱いをされるのかと、恐々としていたはずだ。
おそらく彼女たちはわかっている。
葵殿の周囲に侍る者たちが、火薬庫の上で危険なダンスを始めていることを。
だから、それと距離を置こうとしているのだ。
ご正室は、葵殿の実母だ。娘を説得しきれず、小田原を離れるという決断は、彼女にとっても簡単なものではなかっただろう。
孫九郎は、少し考えて頷いた。
「新井城に戻るころに場所を用意させよう」
佐吉に詰め寄ろうとしていた左馬之助殿が、信じられないものを見る目で孫九郎を振り返る。
小田原城を落としてからも、十分な時間があった。
それで話し合いに片が付かず、彼女たちは決断をしたのだ。
北条家ではなく、父や兄弟たちの家門を守ることを。
それはつまり、左馬之助殿との決別を意味している。
わかるか、色男。ふらふら城の女中と遊んでいる場合じゃないぞ。
このままだと、お前の家族はお前を捨てて実家を取る。
新井城の視察は、往復一週間ほどを見ている。
失いたくないなら、その間に説得することだ。




