6-2 相模 小田原城11
下座に座って待っている、というその態度が、左馬之助殿のひそかな意思表示だった。
だが孫九郎は気づかないふりをして、車座になるように部屋の真ん中に座った。
左馬之助殿は少し困ったような顔をしたが、まずは勘助が、ずけずけと遠慮なく孫九郎の隣に座り、承菊もさっと左馬之助殿の左隣に腰を下ろす。
渋沢だけは少し迷ったようだが、孫九郎が空いている反対側を数回叩くと、諦めたように一礼してそこに座った。
一同が円形に座るのを待って、部屋に蝋燭が灯される。
今の時間にろうそく? と思うかもしれないが、奥まった部屋は昼でも暗いのだ。
室内の明かりが安定するまで待って、承菊が懐から油紙に包まれた書簡を取り出した。
川に流れたと言い切っていたが、ちゃっかり回収していたらしい。
それはそうだ。でないと、あの男が古河公方からの使者だとわかるはずがない。
孫九郎は顔をしかめながら、少し濡れた感触がする油紙ごと受け取った。
中身は、格式ばった正式な書簡だった。
「……見なかった振りをするのは?」
一読してから隣の勘助に渡して言うと、承菊は「おすすめしない」とばかりに首を振った。
「それはそれで構いませぬが、心づもりはしておくべきです」
わかっている。ここで弱気をみせると付け込まれる。
公方様の厄介なところは、その権勢以上の力を誇示できることだ。
それは、京の公方と同じ。
旨味を吸い上げようとする者たちが、都合のいい時だけ集まってくる。
今は関東の安寧を口実に、今川に退くようにと命じている。
仮に言われたとおりにしたとしても、小田原が北条の手に戻るとは思えない。
古河公方を祭り上げた者たちが、そのあとの相模の覇権を狙って動くだろう。
「……好き勝手言う」
左馬之助殿の手に渡った書簡が、くしゃりと音をたてた。
不服を隠さないその表情から、彼もまた、公方の言い分が上っ面だけのものだと断じたようだ。
「以前から、伊豆に退けとやかましく言うてきておったのだ。小田原を北条に返せ? 大きなお世話だ」
はっきりとしたその態度に、その場にいる全員が同意の頷きを返した。
先の世を知る孫九郎にとっては、古河公方? なにそれ。程度の感覚だが、この時代の武士ならその権威は無視できないもののはずだ。
優柔不断なところがある男だから、どう出るかと思ったが……左馬之助殿にその覚悟があるのなら、こちらの対応は拒絶一択でいいだろう。
書簡は左馬之助殿の手から、最後は渋沢に渡った。
几帳面な男らしく、しわになった部分を伸ばしてから目を通す。
「ここに、会談の日程が書かれておりますが」
「日が近すぎますし、それは流すということで」
承菊の如才ない返しに、勘助がむっつりと顔をしかめる。
「いや、むしろそれに合わせて一気に叩く方がよい。長引かせてもいいことはない」
意見は割れた。
承菊は、書簡は今川陣営に届かなかった、という体で流すべきだと言い、勘助は逆に、ガツンと今川の立場を示すべきだと言う。
承菊も勘助も、古河公方からの命令に従わないという方針は同じだが、この先の動きについては対照的な考えだった。
孫九郎の本心としては承菊寄りだが、それが場つなぎ的なものであり、解決策ではないというのはわかっている。
かといって、勘助が言うように、好戦的な態度を示せばいいというものでもない。
「……この仲裁は、長綱殿の策だと思うか?」
ひと通り意見が交わされるのを待ってから、孫九郎が口を開いた。
男たちはしばらく黙り、それぞれに思案する。
「策かまではどうかわからぬが、予想はしているだろう」
左馬之助殿がひどく渋い表情で言った。長綱殿の話になるといつもこの顔だ。
「あやつなら、今川が退くとは思うておらぬだろう。仲裁を時間稼ぎに使うつもりだな」
孫九郎の思案に、承菊は同意した。
「関東勢をうまくまとめて、我らにあてる気でしょう」
「まとめる?」
勘助は鼻を鳴らし、馬鹿に仕切った様子で顎をしゃくる。
「来るならこればよい。まるごと食ってやる」
「勘助」
孫九郎は苦笑しながら制止した。
確かに、一万の兵があれば、物理的には可能だ。
今川にはまだ余力があるから、追加の派兵をすればさらに勝利は固いだろう。
だが、それはうまい手ではない。
特に古河公方。あのお方の御座所を勢力圏に含めるのは、いい考えとは思えなかった。
「有象無象がひしめき合っておりますが、大きな勢力はございませぬ。今が食い時では?」
「旨味がない」
にべもない孫九郎の返答に、勘助は渋い顔をして、承菊は笑い出した。
「旨味でございますか」
はっはっはと、さも面白い事を聞いたとばかりに身体を揺らす。
「皆が必死に、少しでも領土を広げようとあがいておりますのに」
「広げることが正しいとは思わぬ」
「お優しいですね」
「優しい?」
承菊の予想外の言葉に、孫九郎は首を傾けた。
「……いや、戦線を広げるべきではないと思うだけだ」
どこが攻めて来ようとも、単純兵力で押し負けるとは思わない。関東がすべて反今川でまとまったとしてもだ。
だが今川領は国境線が長すぎる。仮にその両端で戦が勃発した場合、楽ではない。
「むしろ完膚なきまでに叩いておけば、敵も大きくはなりませぬ」
穏便路線を主張した承菊まで、勘助と同じことを言い始める。
孫九郎は長く息を吐いて、試しているのか期待しているのかわからない目つきで見てくる男たちを、ぐるりと見返した。
「こちらが労力を使う必要はない」
「……と、おっしゃいますと?」
「敵は敵同士で食わせ合えばよい」
承菊の形の良い眉が、数センチ上がった。
むっつりと唇を引き結んだ勘助が、思案するように顎に手を当てる。
二人の軍師の頭の中で、孫九郎の言葉がどういう意味で働いたのかはわからない。
ただ二人ともが、興味をひかれたように目を光らせた。




