5-7 相模 小田原城7
孫九郎には、領土を広げたいという欲求はない。
小さな勢力だから攻め入って統合しようとは思わないし、強大な兵力を持つ国が隣にあるのだとしても、戦にならないのなら争わない。
そう、大前提として、今川家に敵対しない事。
それすら守ってもらえるなら、好きにすればいい。
だが、孫九郎がよくとも、相手側が良くは思わないのが常だ。
新井城で蜂起した三浦一族は、そのまま今川家に従っていれば、いや従わなくとも友好的な態度を示してさえいれば、蜂起四日目にして希望をたたれることはなかっただろう。
「ですが結果的にようございました」
承菊が、ふわふわと上機嫌に笑う。
「これで相模湾は我らの勢力下です。房総への足掛かりとしてもよい立地です」
まるで徳の高い僧侶が、ありがたい話をしているかのような口調。
だがこの男はゴリゴリに好戦的だ。
見た目ではわからないという典型。
孫九郎は扇子を口元に当て、息を吐いた。
坊主がコレとは、世知辛い世の中だ。
「多摩川までと思うておったが、鎌倉ぐらいで線を引いた方がよさそうだな」
「向かってくれば倒すでよろしいかと」
急ぐことはない。
今川が小田原城に十分な兵力を置いたら、いずれ江戸と小田原の間の国人たちは、どこに組するか考えなくてはならないだろう。
この時代の江戸は、周囲を湿地帯に囲まれ、攻めにくい立地にある。
農耕よりも流通向きの町だ。
つまり、米は買って手に入れなければならず、周辺諸国との良好な関係が不可欠になってくる。
そう、彼らは生き延びるために選択しなければならない。
周辺の国人たちとうまくやり、いつか再び小田原を取り戻すことに望みをかけるか。
あるいは……そいつらを食うか。
そう考えてみると、江戸城の千という数は決して少ないものではない。
少なくとも、周辺の国人でそのレベルの兵数を率いているところはないだろう。
「片を付けておけば、面倒もなく済むと思うておりましたが」
承菊は、吹き上げてくる海風を気持ちよさそうに受けながら、目を細めた。
青空と海とを背景に、墨色の法衣がパタパタとなびき、非常に絵になるワンショットだ。
「逆に、武蔵南部を引っ掻き回し、我らにとって有利になるやもしれませぬ」
我らにとって有利か。
いったいどれぐらい、今川を大きくすればいいのか。
すでにもう国境線が広すぎて、いずれどこかで抜かれる日が来るのではないかと、危惧すら覚えるぐらいなのに。
黒ずくめの渋沢隊が、三浦半島から帰還してくる様子が見える。
戦をするということは、家臣を、孫九郎に付いてきてくれている者たちの命を矢面にたてるということだ。
いつかそれを、当たり前だと思ってしまいそうで怖い。
「戻りましょうか。風が強くなってまいりました」
「承菊」
遮るもののない眺めを見下ろし、孫九郎は呟いた。
「片を付けるとは、どこまでを言うのだ」
もちろん北条家に関して言えば、長綱殿を捕え、亡き北条殿の嫡出男子、および一門衆たちのすべてを捕えるか討つかすることだ。
だが本音で問うたのは、それとは少し意味合いが違うことだった。
承菊はしばらく黙り、こちらをじっと見ている気配がした。
「群雄割拠の関東は、いずれ誰かが制するでしょう」
有力な国人が領地領域を広げていくのが順当。それはもしかすると江戸を手に入れた北条かもしれないし、山内上杉家かもしれない。
承菊が言っているのは、それを孫九郎にやれということだ。
「……簡単に言う」
「敵が大きくなるのを、指をくわえて見ているわけにはまいりませぬ」
どこが関東を押さえたとしても、小田原に兵力を置く今川を放置したりはしないだろう。
特にそれが北条だった場合、遺恨をはらそうとするに違いない。
孫九郎は、吹き上げてくる海風に紛れて、ため息をこぼした。
小さければ踏みつぶされ、大きければ叩かれる。
敵はどんどん湯水のように湧いて出て、尽きることがない。
戦がない共存など、夢のまた夢。
これが戦国時代だ。
相模は左馬之助殿に任せる。
本気でそのつもりでいたし、できるなら今でもそうしたいが、今川の勢力圏でもっとも危ういのは小田原城だった。
当初考えていたより長居することになりそうだ。
そんな事を思いながら、承菊と並んで本丸へ続く道を進む。
普請が始まった城内からは、あちこちから威勢のいい掛け声が聞こえる。
「随分大きな縄張りになりそうだな」
何の気なしに呟いたその一言に、承菊は小さく含み笑った。
足音に紛れて聞こえたその笑みに、ぞわりと悪寒が走る。
「ええ。北条衆には大いに腕を振るってもらわねば」
新参には戦ではなく普請をやらせる。それは合理的な考えだ。
だが承菊の含みには、違うものを感じた。
……また何か企んでいるな。
真逆な気質のようでいて、行動結果は似ている二人の軍師は、穏便という言葉をどこかに置いてきたような策ばかりを考えつく。
孫九郎の歩みに合わせて追ってくる視線の主たちは、大きな穴を自らの手で掘っていることに気づいていない。
「……ほどほどにな」
承菊は孫九郎の言葉に、ふわりと満面の笑みを浮かべた。




