5-6 相模 小田原城6
小田原城の櫓から見える位置まで近づいていた大軍は、承菊らと衝突することもなく、睨み合っただけで撤退した。
随分長くかかったのは、戦が長引いたからではなく、その睨み合う時間が長かったからだ。
承菊は、夜遅くになって小田原城に帰還した。
早速報告を聞いたのだが、相手は山内上杉家ではなく、関東の連合軍だと言うのは間違いないそうだ。
少し残念そうに見えるのは、軍略を生かす機会がなかったからか。
……松之助殿らが無傷だということに舌打ちしたいわけではないよな?
庵原の軍が戻ってきたのはそれから四日後。
援軍が撤退するのを追尾して、多摩川の南岸まで行ったそうだ。
結果わかったことは、鎌倉より向こうは特に、今川家に反抗的な勢力が多いということだ。
直接の衝突はなかったが、援軍側に立っているとわかる動きはあったようで、戻ってきた時、大将の松之助殿はくたびれ切っていた。ボロボロなのは身体ではなく精神状態なのはひと目でわかったので、すぐに休ませた。
この何日かでわかった結論を言う。
新井城は実際に挙兵していた。
江戸城には北条家の旗がかかっていた。
これで今川軍は、取り急ぎ三浦半島の制圧に動かなければならず、長綱殿らを追うことはできなくなった。
「……やられたな」
孫九郎がそう言うと、承菊と勘助がそろってムッと視線を険しくしたのがわかった。
いや、お前らが悪いと言っているわけじゃない。
長綱殿が周到に動いただけだ。
「まあよい。どうやら北条衆の中にも仕込みがあるようだから、おいそれと動くわけにもいかぬ」
小田原から江戸まで兵を動かすのは尚早だ。
まずは足場を固める。それからでいい。
「急いでもいいことはない」
「……ですが」
勘助の不服そうな声に、軽く首を横に振る。
言いたいことはわかる。
敵が力をつける前に、片を付けておきたいのは確かだ。
だが、手に入れてしまった相模の西、小田原城周辺は、これから今川家の最前線になる。
せめて鎌倉、三浦半島まで勢力圏に納めなければ、いつまた取り返されないとも限らない。
「江戸の軍勢はおおよそ千だそうだ。兵の多くが雑兵だ。まずは食い扶持に苦労するだろう」
孫九郎の寸評に、承菊が頷く。
「多くが本願寺派の農民だそうですね」
「本願寺が北条と組むなどあり得ませぬ」
勘助の唸るような返しに、承菊が上品な笑みを唇に浮かべる。
「御仏のお導きと言われれば、どんなことでも受け入れるのが門徒です」
「だが、韮山城で」
「御仏による試練です」
勘助は、むっつりと承菊を睨んだ。
両手を合わせて軽く坊主頭を下げた承菊曰く、門徒は、旗振り役が右に行けといえば右に行き、左に行けと行けば左に行くのだそうだ。しかも喜んで。信仰心で都合がいいように操られている。
「……これを本願寺の本山は把握していると思うか?」
孫九郎の問いに、承菊は「さて」と首を傾ける。
「昨年ごろまで、証如さまは伊豆と相模をうろついておられましたが、今年の初めに京にお戻りになり、何でも嫁取りをせねばならぬとのことで」
まさかと思うが、邪魔だから遠ざけたとは言わないよな?
承菊は、孫九郎と勘助の顔を見て、「とんでもない」と言いたげに首を横に振った。
「宗派は違えど、その熱意はご立派です。門徒を京へ連れていきたいと仰られるので、多少の援助は致しましたが……」
「いくらかを連れて行かせて、満足させたということか?」
孫九郎が恐る恐る問うと、承菊は「ははは」と声を出して笑った。
勘助が、自由の利く方の手でグリグリと眉間を揉んだ。
「では、知っておったのか」
「何をでしょうか」
「長綱が小田原城にいないことをだ!」
「死に役の門徒を引き連れ、江戸攻めに出払っていることは」
勘助はくぐもった声で呻き、苛立たし気に義足を鳴らした。
その床にぶつかるガンという音で、廊下に控えていた者がビクリとする。
承菊が言いたいのはつまり、亡き北条殿のご嫡男含め、一門衆の多くが小田原城を落ち延びたことと、長綱殿が江戸城を落としたこととは別問題だということだ。
おそらく、援軍の動きを利用しての攻略だったのだろうとは思う。
それを含めて考えても、うまくやった。
小田原を捨てる代わりに、江戸を取ったのだ。
孫九郎はしばらく宙に目をやって思案した。
江戸城に入った千の雑兵が、食っていくために必要な米はどうするつもりだろう。
扇谷上杉が城から退いたとはいえ、周辺の土地からの年貢がいますぐ江戸城の食い扶持に化けるわけではない。
「勘助」
ガタガタと、孫九郎の思案の邪魔をするかのように義足を鳴らしていた勘助が、「あ?」と非常にガラの悪い応えをする。
「各国人らの備蓄の兵糧はどうなっている?」
その問いに、ガタガタという音が不意に止まった。
勘助の頭の中が高速で回転しているのがわかる。
しばらくして、はっとしたように立ち上がりかけて、バランスを崩した。
さっと手を出したのは、意外なことに承菊だ。
勘助は転びはせず、義足だけを立たせた状態で孫九郎を見据えた。
「……つまり、それらが江戸城に運ばれると?」
「ああ、いいですね。丁度重臣どもは城におりますし、動きを見張らせましょう。よい試金石となります」
承菊が、するりと顎を撫でた。頭の毛もなければ髭もない。勘助とは違い、きれいさっぱり清潔な面だ。……言うことは、相変わらず黒いが。
孫九郎は小さく息を吐き、「そうではない」と呟いた。
仮に、今の段階でそれを命じられたとして、今川に逆らってまで北条家に義理立てする者がどれぐらいいるだろう。
「長綱殿が、あらかじめこの状況を予期して、備えていたかもしれないということだ」
たとえばだが、江戸までの道中のどこかに兵糧をためていたとすれば、当面の食糧問題はクリアされる。
いや、もっと勘ぐれば、恐ろしい憶測もできる。
「北条殿をここに残したのも……」
そんな事はないと信じたい。
だが、今川軍が小田原で止まった一番の大きな要因は、北条殿の死であったのは間違いない。
小田原城が落とされること前提で、兵糧を隠しておくほど用意周到なら、北条殿の死も利用したと考える方が自然だ。
二人は孫九郎をまじまじと見て、その言葉を吟味するかのように黙った。
どちらからも、否定の言葉は出なかった。




