1-4 駿河 今川館2
この二年で、失敗したことは他にもある。
信濃方面だ。
あそこは群雄割拠、まとまりがないという認識だったのだが、間違ってはいないが正しくもなかった。
もともと、互いに食い合うのでさえ周囲との勢力バランスを見ながら……つまり、どこかが突出したら一斉にそこを攻めると言う風潮が強かったのだ。
現在の信濃は東西に二分する形になっていて、西側の、かつては守護と呼ばれていた小笠原を中心にして、親今川と反今川とで対立している。
今思えば、諏訪にも勢力を伸ばしておくべきだった。あそこが西側に組しているので、村上殿らが若干不利な状況にある。
おそらく本腰をいれて攻め込めば、東側の勢力が信濃全域を押さえることは可能だと思う。
だが弱兵を蹴散らすのは簡単でも、反対側の国境で対峙している強兵から目を離すことができない。
西信濃が反今川になったことで、必然的に、遠江との国境もきな臭くなってきた。
山が深く、大量の派兵が難しい地形だが、信濃衆にとってはそれこそが慣れた戦場だ。今はまだ直接戦火は立っていないが、そうなる可能性はなきにしもあらず。
今川に矛先を向ける度胸はないと思いたいが、信濃という土地柄、天然の要塞にまもられたあの地理的優位性を、うまく使ってくるかもしれない。
そんな風に、国が大きくなればなるほど、万が一の敵になり得る対象は増えていく。
ほんの些細な状況の読み違いが、何年も経ってボディブローのように効いてくる。
確かに今川家は大国で、大軍を擁する国ではあるが、領地が広い分複数個所で戦火が起これば、すべてをカバーできるとは限らないのだ。
「ええはい。だからこその婚姻です」
そう言って、ずずずと重そうな書簡の山を差し出してくるのは奥平だ。
今川館の正式な家宰であり、文官の束ね、もっと偉そうな役職についても良さげな風貌の男。
恰幅と同時に気難しそうな雰囲気が増し、左馬之助殿とは真逆の意味でストレスを乗り越え、今や今川館の重鎮だ。
「御屋形様」
聞こえなかった振りをして視線を逸らせた孫九郎に、今にもお小言を言いますとわかる険しい表情をする。
わかっている。奥平をはじめ、家臣の多くが今もっとも気にかけているのは、孫九郎の正室が誰になるかだ。
今川の弱点は周辺の敵国でも、国内の不穏分子でもない。孫九郎に後継者たる子がない事なのだ。
子がない。
そのワードは、孫九郎にとってセンシティブな内容だ。
医学が発達していたあの時代でも、乗り越えることが出来なかった。
もちろん今はまだ十代前半なので、心配をするのは早すぎるし、朝比奈殿のように一族から養子をとってもいいと本気で思っているが、そういうことが話題になることそのものに苦手意識がある。
「どこぞに気に入った娘はおられぬのですか?」
「……正室もまだなのに」
「そうお思いになるのであれば、はようにお決めくださいませ」
ため息がこぼれる。
同時に、筆先からぽたりと墨が落ち、ほぼ最後まで書き終えていた書簡を汚してしまった。
もう一度、ため息がこぼれる。
孫九郎が聞く態勢になったと思ったのだろう、奥平はすっと背筋を伸ばした。
「以前にも申し上げましたが、無理にどこぞと組まねばならぬという状況ではございませぬ。ですが……」
わかっている。わかっているとも。
政略なのだから、今川家にとって有利となる婚姻をするべきだ。
候補はいくつかある。
まずは公家。次に国境を接している国。最後は重用するべき重臣だ。
そのいずれかの、年齢が近い姫の中から、器量が良い姫を選ぶ。
ここでいう器量とは容姿のことではなく、武家の正室として必要とされる資質のことだ。
毎回、ここまで考えたところで思考が止まる。
そもそも、夫婦として手を取り合っていくビジョンが湧かないのだ。
だって考えてもみろよ。お相手は孫九郎と同年代、つまり親の庇護下に置かれるべき子供なんだぞ。もちろんずっとこのままでいいとは思っていないが……
「御屋形様」
三度の溜息を飲み込んだ孫九郎に向かって、奥平がひとつ咳ばらいをした。
「こちらを」
やけに改まった表情で、懐に丁寧にしまってあった書簡を取り出す。
なんだなんだ、もったいぶって。
孫九郎はそう問いかけようとして、奥平が持つ書簡にある流麗な文字に気づいた。
ひと目で誰の手かわかった。
思わず眉間に力がこもる。
「そのようなお顔をなさらず、お可愛らしいものではありませぬか」
それは、二年前に積んだ桔梗を渡してくれた女児からの文だった。
何故かわからないが頻繁に送り付けてくる。
「……文を交わすような仲ではないのだが」
「十日とあけずに届いているではありませぬか。熱心で、けなげな姫君です」
健気? 内容を見たことがあるのか?
書式は公家様、内容は当たり障りのない近況報告……に見せかけた、きわめて愛想のないものだ。
「誰かに書かされているのだろう」
これでも当初はしっかり目を通していたのだ。だが月に二度三度と届くようになって、透けて見えるのは「そちらから断ってくれ」と言わんばかりのそっけなさ。
最近は、やはり誰かに言われたのだろう、まるで日記のように日々の出来事を書いて寄越すようになった。
書きたくないなら書かないと言う選択はないのか。
おかげで、今川家の期待の目は土岐家の姫君に向いている。
奥平があまりにも念のこもった眼差しで見てくるので、抵抗する気も失せた。
黙って見慣れた手の書簡を受け取り、さっと開く。
案の定、そっけない出だしだ。
「近く京をはなれるそうだ」
「おお、随分と親しいご様子」
最後まで読むのは面倒だったが、奥平だけではなく、家臣の多くが期待のこもった目で見てくるので途中で投げ出すのも気が引けた。
ああきっと、土岐の姫も同じ感じなのかもしれない。
そんな事を思いながら読み進み……ふと、一か所で目が止まった。
京の町の様子を、まるで実況中継のように細かく書き記した一文。
細い文字が、京で見かけた武士への不満をつづっている。
――三つの菱を三段に重ねた黒き紋
さっと、冷たいもので首筋を撫でられたような気がした。
ひし形を使う家紋は多いが、三段に、となれば心当たりはひとつしかない。
……信濃小笠原家が、京に何の用だ?




