5-2 相模 小田原城2
小田原城は落ちた。
多少の抵抗はあったものの、予想していたよりずっと簡単だった。
本丸に足を踏み入れた孫九郎が見たのは、捕縛されその場に膝をつく北条軍の将兵たち。
彼らが真っ青になっているのは、よもや自分たちが城ごと捨てられるとは思っていなかったからだろう。
そう、長綱殿をはじめとする主要な一門衆とその家臣たちは、今日のこの状況になる前に、すでにもう城にはいなかったのだ。
……ふざけた事をしてくれる。
本丸の最奥、主殿には一人の男性が横たわっている。
その枕元には左馬之助殿。
こわばった背中と、何かに耐えるように俯くその姿に、そこにいるのが当代の北条家当主だとわかる。
息絶えて少し日が経っているのか、腐臭がした。
士気を保つために、当主の死を伏せるという事情なら分からなくもない。
だがおそらくこれは違う。
死の淵にいる兄を主城に残し、北条家の核の部分だけを落ち延びさせたのだ。
左馬之助殿の肩がぶるぶると震えている。
涙をこらえるように、両手を床についている。
孫九郎は小さく息をついて、目を逸らせた。
「菩提寺はわかるか?」
藤次郎が少し考えて答える。
「先代の墓が湯本にあると言うのは聞いたことがあります」
先代、というと桃源院様の弟だな。
孫九郎は頷き、住職をよぶようにと命じた。
長綱殿が北条殿の遺体を置いていったのには、もう一つ理由があると思う。
見捨てたのではなく、華々しい討ち死にをしたということにしたかったのではないか。
今川軍、あるいは左馬之助殿の手にかかったことにしたかったのかもしれない。
だが、どんなに美辞麗句をならべようとも、実兄であり主君でもある北条殿を、弔いもせず置き去りにした事実は変わらない。
孫九郎はもう一度振り返り、左馬之助殿のうなだれた背中を見つめた。
卒中で倒れたと聞いていた。
もしかすると、ひとりで逝ったのだろうか。
「……通夜の支度を手伝ってやれ」
「他の者たちはどうされますか」
孫九郎は、本丸の外で膝をつく敵将たちをちらりと見た。
「監視は怠るな。……おとなしくしているのなら、通夜に参加させてやってもいいだろう」
一人、また一人と、孫九郎に向かって頭が下げられる。
どこからか、嗚咽を堪える声が聞こえた。
小田原城の制圧があらかた済み、勘助と並んで縄張り図を確認している最中のことだ。
「……なんだと?」
孫九郎は思わず聞き返した。
本丸北殿の奥。こちらは北条殿が眠っていた場所ではなく、城主の家族が住む区域のことだが、そこでひと騒ぎがあった。
若い女が暴れていると聞いて、気概のある女房でもいたのかと思ったのだが、違った。
奥まった棟に座敷牢があって、そこに一組の男女が閉じ込められていたそうだ。
片方が負傷していて、それなのにまともな手当てもされていなかったようで、意識がなく、女のほうも数日そんな男とともにいたことで精神的に限界を迎えていたらしい。
そう、左馬之助殿の家族のうち、救助できなかったひとり、一姫の葵殿だ。
男は譜代衆の若武者で、姫の護衛を務めている男だった。
会いに行ってみるかと呟くと、全力で止められた。
なんでも今川家に対する罵詈雑言がひどく、武器も持たないのに容赦ない暴れっぷりで、助けに入った者が殴られて昏倒したそうだ。
「それはすごい」
さすがは左馬之助殿の娘だと感心していると、暴れている女、と聞いた渋沢が、「他の者に任せましょう」と言って身震いした。
そういうわけにもいかない。
父親のいる本丸御殿に連れてくるように命じると、渋沢はそっと孫九郎から離れようとした。
谷ら馬廻りの護衛がいるから構わないが、理由が苦手なタイプの女から逃げるためだとなれば話は別だ。
「渋沢」
「……はい」
「本丸曲輪の女衆を落ち着かせる必要がある」
その頬あてと兜を取るか? と言外に問うと、あっさり「姫君を迎えに行きましょう」と前言を翻した。
左馬之助殿の一姫は、うちの幸と同じぐらいの背丈の大柄な娘だった。年のころは、孫九郎よりも三つ四つ上だと思う。
広間に連れてこられて、毛を逆立てた猫のように警戒していたが、孫九郎がスタスタと部屋に踏み込むと、振り返ってぽかんと口を開けた。
それは、左馬之助殿との初対面とまったく同じ表情に見えた。
「今川治部だ。……葵殿で間違いないか?」
仰々しい挨拶は飛ばした。そういうのは、今は不要だ。
葵殿はパクパクと唇を開閉して、すぐには言葉が出ない様子だった。
「何故、座敷牢に閉じ込められていた?」
単純な好奇心からの質問に、困惑したように視線が揺れる。
敗戦国の女衆がどういう扱いを受けるか、聞きかじって心配していたのだろう。
左馬之助殿もここにきていると知ると、その表情が一気に緩み、父親によく似たものに変わった。「いや! 騙されないぞ」と慌てて表情を引き締めるあたりも、好感が持てる。
本丸に閉じ込められていた事情が何であれ、それは長綱殿たちが城から落ちる前のことだろう。
ならばその時、何があったのか……知っているに違いない。
孫九郎は脇息に肘を預け、葵殿の返答を待った。
一姫ならば、例の同盟婚に使われる予定だった可能性が高い。
長女だから古河公方のほうか……拳で語るタイプが嫁ぐのは、ちょっと似合わない気もするが。
そんな彼女が口を開いたのは、たっぷり時間を置いてからだった。




