5-1 相模 小田原城1
城攻めには、三倍の兵が必要だ。
可能ならもっとあってもいい。
物理的に、城への出入口が限られているので、多すぎると実際に戦う人数は減るのだろうが、相手に与える威圧という意味では大いに役に立つ。
今川軍は小田原の町を制圧し、城を包囲した。
ここで言う包囲とは、主要な門を封鎖し、その出入りを塞ぐことだ。
すでに大手門は破られている。
左馬之助殿の姿を見て、投降する者たちも増えてきた。
こなってくると、あとは時間の問題だ。
勘助は的確に攻め手を操り、虎口へ突撃するタイミングを指示する。
彼自身は微動だにせず本陣に座り込んだままだが、その手足となる兵の動きは見事の一言だ。
「もう一息ですね」
藤次郎が、そわそわと落ち着かないようすで言う。
ここ本陣は、あり得ないほど最前線に違いが、孫九郎の周囲を守る者のほとんどが戦闘には参加していない。
今川家の中でも随一に腕利きが揃っているのだが、本陣が動くのは最後の最後だ。
心なしか普段よりも顔色がいい勘助が、こちらを見ながら唇を歪めた。
「戦は生き物だが、始まった時にはすでに終わりが見えている」
なんだか含蓄のあることを言いはじめたぞ。
「あとは不測のことが起こらねば、確実に勝てる」
その通りではある。
だが、槍働きをしたい者の心理とはまた別の話だ。むしろ不測の事態を起こしたい連中なのだ。
「渋沢」
置物の鎧のように床几に座っていた黒づくめを呼ぶ。
ギギギ……と、軋む音が聞こえてもおかしくない動きで、黒い頬あてをした鎧武者がこちらを見る。
「そろそろ出るか。左馬之助殿だけにいいところを取られたくないだろう」
「……いえ」
渋沢といえばの秀麗な面など全く見えないのに、注目を集めてしまういい声だ。
「背後をお守りする役目を、おろそかにはできませぬ」
孫九郎は首を傾けた。
若いころから切り込み隊長役を担ってきた男だが、ここ数年は後方だ。役が上がったと言えば聞こえはいいが、谷や渋沢のような男にとってそれがストレスになる。
行け、と言いたくなるのをぐっとこらえた。
相手は長綱殿だ。勘助が言う不測のことを必ず仕掛けてくるだろう。
このままで終わらない。それは確信だった。
「申し上げます!」
先鋒からの伝達役が走ってくる。
ズザザザッとスライディングするように孫九郎の前に滑り込み、両手を土の上に付けた。
「北条左馬之助様、本丸曲輪に突入。伏兵に囲まれております!」
周囲の視線が一斉に孫九郎に向いた。
これを最後の抵抗ととるべきか。持てるすべての力を本丸曲輪に集め待ち伏せしていたのか。
「二の丸三の丸の制圧を急げ」
勘助の指示に、数名が走って行く。
孫九郎は、荒い息をついている前線からの伝達役をじっと見下ろした。
わずかな違和感。
それが明確な形になる前に、目の前に抜き身の槍の先があった。
渋沢がいつの間にか真横にいて、槍立てに立てかけてあった長槍を孫九郎の前に突き出していた。
伝達役の兜を鷲掴みにして真後ろに引き、その首に刀を突き付けているのは馬廻り組頭の谷だ。
その口から、「……チッ」と鋭い舌打ちが聞こえた。
掴んでいた兜が地面に転がり、するりと伝達役が身を翻す。
忍びだ!
護衛が孫九郎を身を挺して庇い、その男から距離を取らせるのと、渋沢が鋭く槍を繰り出すのとはほぼ同時だった。
偽の伝達役は、それでもなお孫九郎の首を狙おうとしたが、渋沢と谷という組み合わせに阻まれそれ以上近づくことが出来ない。
ふと、肉壁の隙間から弥太郎の姿が見えた。
この男が抜き身の刀をだらりとぶら下げているのを見ると、いつも心臓がドキリとする。
西に傾いた日差しがギラリと鋼に反射して、そこに血糊がついているのが見て取れた。
人を切った刀は曇るので、すぐにそれとわかるのだ。
「捕えよ」
誰かを名指して命じたつもりはない。
だがそれに応えて、弥太郎が丁寧に頭を下げた。
結論を言えば、その伝達役を捕えることはできなかった。
逃げられたのではなく、自身で首を掻き切ったのだ。
仕方がない。
孫九郎は、目の前で人が死ぬことに動じない己に、改めて時の移ろいを感じた。
「まだ敵がどこかにいるやもしれませぬ」
周囲を警戒しながら、土井が言う。
その通りだと、孫九郎よりも幼い小姓たちも鼻息荒く頷いている。
だが、忍びに関して言えば、それほど心配する必要はないと思う。
あれは起死回生の一手だった。
孫九郎がここで傷を負えば、今川軍が退いた可能性は高い。
だが、何度も使える手ではない。
「本丸はどうなった」
「見てまいります!」
勘助の問いに、前線に向けて兵が駆け出す。
孫九郎は、地面に転がっている床几を拾い上げ、軽くはたいた。
藤次郎がさっと横から奪い取り、丁寧に広げる。
「勘助」
すすめられるままに座りながら、襲撃を受けても座ったままだった勘助に問いかけた。
「そのほうならどうする」
「どうするですと? 決まっております」
勘助は小田原城を睨み据えたまま、低く唸り声をあげた。
「御屋形様の首を狙います。それですべて解決です」
「他には」
苛々と義足の位置を変えて、なおもブツブツと悪態をついていたのだが、しばらくしてそれがフッと途切れた。
孫九郎は、動きをとめた勘助にちらりと目をやってから、同じように小田原城を見つめた。
そう、援軍がすぐ近くまで来ていることは、北条軍も察知していたはずだから、門を閉ざし、籠城するべきだった。
孫九郎の視線の先で、大手門が大きく開かれ、今川軍の旗指物をした兵らがその周りをうろついている。
すでに城の守りは破られた。大手門が落ちれば、三の丸二の丸を制圧するのは難しいことではない。本丸もそうだ。
わざと城に誘い込もうとしている可能性は依然としてある。
だがもう一つ、見落としていたことがある。
「……江戸城から兵が帰還したのは、一昨日でしたな」
「そう聞いたな」
ふたりして黙って城を見つめ、次いで空を見上げた。
天気はいい。視界が悪いということはないので、兵の動きは把握しやすい。
だが、何もかもわかるわけではない。
たとえば……戻ってきたと言う兵は、実際はごく少数だったのではないか。
「本拠地を移すつもりか」
やがて勘助は、孫九郎と同じ結論に達した。




