4-6 相模 早川~小田原城
日差しが強い一日だった。
初夏の太陽が容赦なく兜を熱す。
今の時期からこれでは、真夏は地獄だろう。
孫九郎は、手ぬぐいを兜の隙間にねじ込みながら、目を細めた。
庵原家及び左馬之助殿が鬨の声を上げて、小田原の軍勢と衝突したのはまだ朝日がさすころ。東から登った日が中天を射し、やがて西に傾く。それだけの時間が経過してようやく、事態が動いた。
「御屋形様!」
本陣を敷いた河原から小田原城までは、半里も満たない。おそらく一キロ半ほどだと思う。
だからこそ、肝心の知らせは即座に届いた。
「敵に援軍です!」
木々や茂みが遮蔽物になって、ここからでは事態の推移はわからない。
援軍の数も、どこからのものかも不明だが、それこそが孫九郎の待っていた合図だった。
勢いをつけて床几から立ち上がる。
ほんの少し動いただけで、風が鎧の間を通り、暑さが和らいだ。
「まだです」
急には立ち上がることができない勘助が、ゆっくりと足を地面に下ろしながら言った。
「すぐに次の知らせが来るはずです」
そして、勘助の言うことは今回も正しかった。
ほぼ二年ぶりに見る佐吉は、平伏していた顔を上げ、孫九郎を見て目を見開いた。
背が伸びたという驚きからならいいが……似合わない鎧兜のせいではないと信じたい。
「よう来た」
そう言うと、佐吉ははっとしたように再び頭を低くした。
相変わらずの小柄、やせぎす。小者臭漂う風貌だが、今川領では随一の商人だ。
「首尾は」
「はい。手はつくしました」
平伏というよりも、這いつくばると言ったほうがいいような体勢なので、籠った声は地面に吸われる。
「方々は」
「御一方を除く全員をうまく連れ出せました」
「……ほう」
「松永様がご協力くださいました」
久々に聞く名だった。気にかけていた男でもあった。
左馬之助殿のご家族と、家来衆を保護するというのは、二年前から試みていた課題だ。
だが北条はその隙を見せなかった。
左馬之助殿のご正室を筆頭に、保身のために逃亡するという道を拒否したというのもある。
「それから、蓮承院さまがお口利き下されたのも助かりました」
「……遠山殿の奥方か」
孫九郎がその名を知っているのは、左馬之助殿に書簡を送ってきたからで、その時には至急北条家に戻ってきてくれと懇願していた。
「あのお方がおらねば、御方様は動かれなかったでしょう」
「大義であった。長い間苦労を掛けたな」
孫九郎は、這いつくばっている男の頭頂部をじっと見降ろした。
商人らしい身なりの、誰も警戒をしなさそうな男ではあるが、実際はこの男は忍びだ。
弥太郎が警戒を緩めないぐらいだから、腕もいいのだと思う。
そんな男が二年もかけてようやく成し遂げた仕事は、それだけ価値があるものだった。
孫九郎は佐吉から目をそらし、左馬之助殿がいる小田原城の方向を見た。
これで存分に怒りをぶつけることが出来るだろう。
あの情に厚い男が、側室と娘を殺され、何も感じないわけがないのだ。
「申し上げます」
常に孫九郎の背後にいる男が、そっと耳打ちしてきた。
「援軍の数は五千です」
弥太郎が上げた旗の名は、おおむね予想していた通り。
期待を裏切らないラインナップだ。
視界の端で、墨色の法衣が動くのが見えた。
静かに立ち上がった承菊は、孫九郎を見てニコリと人好きがする笑みを浮かべた。
「よい塩梅です」
よっこらせと立ち上がった勘助と、ニコニコ笑顔の承菊が、意味ありげに視線を交わす。
ぞわりと背筋に悪寒が走ったのは、孫九郎だけではないだろう。
小田原城が見える位置まで本陣を進めた。
小高い丘のようなところに立った城は、想像していたものとは大分違う。
孫九郎の乏しい記憶では、小田原城は後北条氏の本城で、総構えの堅固な城壁を誇っていた。だがそれはずっと後の時代のことだ。
今の小田原は、少し高地になった場所に城を構え、その周囲に堀と土塁の防備を固めた、この時代の一般的な平山城だった。
掛川よりも堅固かもしれない。だが、攻めあぐねるほどではない。
朝からずっと膠着状態だったのは、左馬之助殿が人質を取られていたからだ。
そしてその人質は、今や一人きり。
一人だろうが二人だろうが人質は人質だが、救出するにも数が少ない方がやりやすい。
援軍は近くまで迫っているが、まだ到着してはいない。
さらに言えば、今川軍が城の周りを固めているので、合流にも手間取るだろう。
……なんとか間に合った。
「おお、孫九郎殿!」
左馬之助殿の顔には赤みが差し、今朝方よりも威勢が良い。
その隣に立つ庵原松之助も、一日前の不安そうな、半人前の青年の顔ではなく、いっぱしの武将の顔をしている。
「申し訳ございませぬ、攻め切れませんでした」
そう頭を下げ、悔しそうに唇を噛む。
その肩を、承菊が優しく叩く。
「五千の援軍が迫っておる。まだ機会はある」
そうささやく承菊を、周囲の誰もが奇異の目で見ている。
気づかないのは、庵原家の者たちだけだ。
孫九郎は溜息を飲み込んだ。
こうやって松之助殿をそそのかし、いやおだて上げ……要するに、うまく乗せて最前線に向かわせる。
それは到底善意からには見えないが、孫九郎はひそかに、兄として弟を「可愛がる」気持ちもあるのではないかと思っている。そうあってほしいと願っている。
「承菊」
「はい」
孫九郎が手招くと、承菊がこちらを振り返った。
弟の肩に手を置いたまま。傍目には、仲の良い兄弟に見える。
「手はず通りに」
「お任せください。今度こそご期待に沿えるよう努めます」
承菊は殊勝に頭を下げ、松之助殿もあわててそれに続いた。
軍を三つに分ける。
ひとつは本陣。もうひとつは小田原を攻撃。そして最後は、援軍の対処だ。
本陣の数は少なくていい。
援軍が小田原に到着しないうちに、決着をつける。
庵原郡が遠ざかっていくのを見送ってから、改めて小田原城を見上げた。
この時代はまだ天守閣がない。それでも、小高い場所にある城は厚く守られ、堂々たる威容を発揮している。
孫九郎は静かに腹に息をためた。
「勘助」
「……はっ」
「城攻めだ」
勘助がドンと重く土を鳴らし、同時に、孫九郎の周囲の男たちも「応」と力強い声を上げた。




