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夏颯記  作者:


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34/63

4-5 相模 早川1

 今川軍は、予定通りに夕刻には早川西岸に布陣した。

 その日はそこで陣を張り、煌々と篝火を焚く。

 いくつもの炎の揺らめぎは、小田原まで届くだろう。

 そこにいる人々は、どういう思いでそれを見ているだろうか。

 孫九郎は闇夜の向こう側をじっと見つめ、これから己が刃を突き立てようとしている者たちを思った。

 小田原には女子供もいる。個々には善良な者も大勢いるだろう。

 だが北条家は、孫九郎と敵対することを選んだ。

 生き残るために、互いの命を削る。

 それはきれいごとではなく、否応もなくそこに住んでいる人々をも巻き込む。

 戦国時代とは、かくも凄惨なものなのだ。


 翌朝未明。明るくなる前から軍は動き始めた。

 開戦に備えて腹ごしらえをし、武具の確認をする。

 夜のうちの奇襲に備え、見張りに立っていた者たちが後方に下がる。

 かわりに、腹を満たした兵たちが前に。先頭に立つのは庵原家だ。

 周囲が急激に白み始める。

 やがて太陽が、一閃の輝きとともに空を染めた。

 まばゆい光の向こうに、たしかに櫓のような建築物が見える。

 本陣があるのは、広く視界が開けた河原だが、背の高い葦や柳が邪魔で、その全容ははっきりとわからなかった。

 早川は、川というより砕けた石の原だ。

 白っぽい礫のあいだを、細い水の筋が何本も走り、初夏の霧がその上を低く這っている。

 日差しが強くなってくる季節、その白さは目に眩しいぐらいで、黒々とした一団が河原に陣取るとやけに目立った。

 幸いにも水かさは低く、水深がくるぶしぐらいのところもあり、渡河に難はなさそうだ。

 先陣を切る部隊が、ざぶざぶと川を渡っていく。

 その中に交じる左馬之助殿は、遠目にもはっきりそれとわかる偉丈夫ぶりだ。

 ―――大丈夫。大丈夫だ。

 不意に込み上げてきた強い不安を飲み込み、自身に言い聞かせる。

 兵は十分。兵糧も足りている。必要なら追加の物資を運んでくることもできる。

 勝つ要素しかないと自信を持って言えるのに、この不安は何だろう。

「伏兵!」

 その他ならぬ左馬之助殿の怒声が、広い空間を貫いて届いた。

 床几に腰を下ろしていた孫九郎のところまで聞こえるぐらいだから、相当な声だ。

 早川の河原は幅が広い。本陣を敷いているのは西岸の、一段高くなった場所。

「勘助」

 孫九郎が口を開くと、浮足立っていた側付きたちがはっとこちらを向いた。

「小田原の兵は多く見積もっても三千だ。籠城せず打って出る理由は」

 伏兵と聞いても、まだ眠そうな表情の勘助が大きく息を吐いた。

 ジャリ、と義足の下で石が擦れる音がした。

「わかり切ったことです」

 どうでもよさそうに言って、設置した足置きに義足を持ち上げて乗せる。

「左様。あと時間稼ぎかと」

 承菊までもが、ゆったりとくつろいだ様子で白湯を飲んでいる。

 わかり切ったこと言われても、頭のいい奴らの考えには追い付けない。

 せめてその先、何がわかり切っているのか言えよ。

「そう心配なさらずともよろしいかと存じます」

 孫九郎はもう一度、左馬之助殿らのほうを見てから、浮かせていた尻を床几に戻した。


 伏兵は、思いのほか数が多そうだった。

 まだその姿が見える位置でもみ合っているが、もともとは先鋒を茂みに誘導してから仕掛けるはずだったのではないか。

「あれは武士ではないです」

 ふと、側にいた谷が言った。

 武士ではない? 遠目にだが、武装して槍を持っているのが見えるが。

 だが思いなおした。この時代、武装しているからといって武士だとは言い切れない。戦で戦う九割の兵が農民なのだ。

 そう聞いてから見ると、左馬之助殿を囲む男たちの腰は引けているようだ。

 いや、そもそも伏兵か?

 左馬之助殿が、構えていた槍を下げるのが見えた。

 待て。雰囲気がおかしい。何かを話している。

 その最中、庵原松之助が勢いよく刀を振った。

 この距離からでも、複数人が切られて崩れ落ちたのがわかった。

 左馬之助殿が、慌てたように両手を前に出して松之助に何かを言う。

 さながらそれは、取り囲む兵たちを守ろうとするかのような動きだった。

「ああ、わかりました」

 湯呑を小姓に渡しながら承菊は言った。

「本願寺です」

 ぞわり……と、孫九郎の全身に鳥肌がたった。

 忘れていたわけではない。

 左馬之助殿の側室と娘がひとり、門徒だという疑いを持たれて切り捨てられた。

 その因縁は、通常であれば憎しみや恨みを呼ぶだろう。

 だが遠目に見る左馬之助殿にそんな様子はない。

 逆に、刀をぬいた松之助を止めようとしている?

 もしかすると知り合いだったのかもしれない。

 五十人ほどの、承菊曰く、門徒だという者たちは、松之助の剣幕に蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

 孫九郎は、平和な顔をして朝日を浴びている承菊に、胡乱な目を向けた。

 まさかこいつ、本願寺の門徒まで操って、何かしているわけじゃないだろうな。

 通常ならば思いつきもしないような疑いを持ってしまうのは、承菊だから仕方がない。


 先鋒部隊は、そのまま小田原への行軍を続けた。

 早川の対岸でみた伏兵騒ぎの真相については、左馬之助殿にたいする恫喝だったようだ。

 投降しなければ、小田原城にいる妻子をひとりずつ血祭りにあげる。

 助かる道は、孫九郎の首をもって帰参すること。

 ……長綱殿だな。

 わざわざ門徒を使って伝言してきたことに、いやらしさを感じる。

 左馬之助殿は、本陣には戻ってこなかった。

 先鋒としての役割を果たすつもりのようだ。

「弥太郎」

「はい」

 考えながら口を開くと、即座に斜め後ろから返答がある。

「佐吉に、可能な限り早急に脱出するよう告げよ」

 孫九郎は振り返らず、小田原に深く入り込んでいる男への伝言を命じた。


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― 新着の感想 ―
相模に向かった証如は相模の門徒を救えなかったのか
佐吉〜〜〜頑張れ超頑張れ頼む あ,あと松永も頑張れ ここで頑張れば将来の幕府重役は間違いなし!?
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