4-4 駿東~相模 湯本宿
山道の行軍は久々だった。移動距離としてはそれほどでもないが、峠道は徒歩になる。
三島を出立し、中山の砦までは白桜丸に揺られていたが、以降は自力で歩くしかないのだ。
成長期にはいり、以前ほど体力がないというわけでもなかったが、それでも大人よりも歩幅が狭く、すぐに息も上がる。
小柄な谷が平気な顔をしているが、アレは別格だ。
小さくとも鍛え上げられている武人の谷と違い、孫九郎は刀よりも筆を持つことが多いのだ。
……いや、言い訳だな。
こまめに取られた休憩中、竹筒の水を飲みながら呼吸を整える。
あと少し。もう日も随分高いから、そろそろ下りに差し掛かるはずだ。
「湯本といえば、いい湯が沸いているそうですぞ」
孫九郎とは違い、駕籠移動の勘助が、平気な顔をしてそんな事を言う。
わき腹をさすりながら睨むと、勘助はひょいと肩をすくめた。
久々の戦とあって、珍しく饒舌だ。
韮山に置いていくつもりだったのに、当たり前のような顔をして同行している。
承菊が、小田原を落としたあかつきには誰かが長逗留しなければならないと言い出し、勘助が名乗りをあげたからだ。
取らぬ狸ではないが、誰もが勝利を確信していた。
不測の事態など考慮せず、その後のことまで話を詰めている。
小田原を落としたとて、相模が落ち着くわけがない。
左馬之助殿の統治が軌道に乗るまでは、今川家の後見を強く押し出すべきだった。その役割を勘助が担うことになる。
承菊? 承菊はまあ……相模よりも甲斐のほうが気になるようだから。
孫九郎よりずっと先を読む二人が、そろって楽観的なので、峠道を歩く苦労も多少は気が楽だった。
休憩を終え、更に歩く。
「見えてきました!」
しばらくして、土井が声を上げる。
孫九郎がどんなに目を凝らしても、ただうっそうとした山が続くだけだが、土井の目には何かが見えているようだ。
「湯気が立っています!」
どうやら、箱根越えを無事乗り切ったようだ。
先行していた庵原家をはじめとする部隊は、たいした抵抗を受けることなく湯本宿を制圧していた。
今川との国境とはいえ、小田原城に防衛を振り切っているせいか、そこは形だけの、見張りの兵をいくらか置いているだけだった。
だが、湯本を押さえてしまえば小田原は目と鼻の先だ。早川の西にある湊をつかえるようになるので、補給の心配もない。
「御屋形様!」
湯本に先行していた庵原松之助が、孫九郎の姿を見つけて大きな声を上げた。
「宿を取っております故、どうぞこちらへ!」
正直、温泉に入る機会を逃す気はない。たった四半刻でいいのだ。
周囲はウキウキと足を速めた孫九郎を見て、呆れた表情を隠さないが、お小言はない。
峠道を頑張って歩いたご褒美だ、お前らも入っていいんだぞ。
「孫九郎殿」
呼ばれて顔を上げる。
この場でそう呼ぶ相手はひとりしかいない。
鎧を身にまとい、刀を腰に差した左馬之助殿は、見たことないほど真剣な表情をしていた。
大事な戦の前だ。左馬之助殿にとっては、生涯をかけての大一番になるだろう。
「……温泉」
孫九郎は誰にも聞こえないように小声でつぶやいてから、仕方なく左馬之助殿の後に続いた。
宿場町の端の、見晴らしのいいところまで歩いた。
この先は街道が下り坂になり、早川に沿って小田原まで続いている。
左馬之助殿は随分と深刻な表情でそちらを見ていた。
わかりやすく覚悟の決まった顔だ。
「戦の前に、話しておきたいことがあるのだ」
駄目だ。そういうのはフラグというんだぞ。
孫九郎は反射的に首を横に振りそうになった。
幸いにも左馬之助殿は遠くに目をやっていたので、気づかなかったが。
「ワシに万が一のことがあった時のことだ」
「縁起でもない」
「大事なことだ」
孫九郎は、こちらを振り返った左馬之助殿の表情に、仕方がないと真顔を返した。
盛大に立ててくれたフラグは、必然的に回収の方向に向かうのかもしれない。
それがわかっただけでも、回避しようがある。
「左馬之助殿に万が一のことがあったら、北条は残りません」
すう、と大きく息を吸う音がした。
孫九郎は左馬之助殿の凝視に怯まず、静かに笑った。
思えば、北条は常に今川家を食おうとしていた。
表立ってはそうではないように見えても、柱に巣食う白アリのように、内部から家を崩そうとしていたのだ。
こういう時代だから、生き残るためには必要なことだったのかもしれない。
だからといって、やられる立場を受け入れるわけにはいかない。
「……残らなくてもいいのだ」
ふと、左馬之助殿の声が泣きそうに歪んだ。
「ワシが死んだ後のことなど、知った事か」
普段から感情の起伏の大きな男だが、こんなふうに子供のように、駄々をこねるように顔を歪めるのは初めて見た。
「ただひとつだけ、頼みたいことがある」
真っ赤に充血した目に、孫九郎の姿が映っている。
見開き瞬きをしないでいるうちに、その目に涙がにじむ。
左馬之助殿の望みは、子供たちの助命だった。
もとより、女子供にまで手を掛けるつもりはない。そんな孫九郎の気質をわかっているだろうに、左馬之助殿はあえて言質を欲しがった。
「……わかりました」
孫九郎はため息と同時に、情の深い男の覚悟を受け入れた。
「奥方と姫君たちのことは、お任せください」
おそらく長綱殿と刺し違えるつもりだ。
あるいは、北条家とともに滅びる気なのかもしれない。
「ですが死なせはしませぬ」
孫九郎はニッと唇を引き上げた。
「討ち死にするまえに、奥方に詫びねばならないことがあるでしょう」
「えっ」
二年間も不在だったこととか。
今川家で羽根と鼻の下を伸ばしすぎたこととか。
左馬之助殿は急に慌てだし、「いやその」だとか「待てそれは」とかもごもご言っていたが、やがて諦めたように肩を落とした。
そうだ、気負って胸を張る左馬之助殿よりも、少しへこんでいる方がいい。
孫九郎はポンとその腕を叩いた。




