4-2 伊豆 韮山城2
弥太郎の背後から、するりと居室に入ってきたのは、若い方の風魔小太郎だ。
気のせいでなければ小太郎はさりげなく弥太郎から距離を取っているし、弥太郎も小太郎を直視しない。
二人の間にある微妙な緊張感に気づいている者は多くはないだろう。
孫九郎は頷き、障子を閉めるように目で指示した。
藤次郎が静かに立ち上がり、障子を滑らせる。
四方からの視界がふさがれて、ほっと息がこぼれた。
今や韮山城は、堅牢さにおいては指折りだ。
にもかかわらず、座りが悪い。非常に悪い。
味方の城のはずなのに、何故こんなにも重苦しい空気感なのか。
常に見張られているような視線を感じるのは、気のせいではないだろう。
「すぐに承菊が来る」
どうしても身構えてしまう気持ちが抜けないままに、孫九郎は小声で促した。
話があるなら早くしろと言いたかったのだが、小太郎は少し眉を上げ、興味深げにこちらを見た。
「……違うぞ」
小太郎が想像したに違いないことを、渋い表情へ否定した。
そんな孫九郎を見て、小太郎はわかったという風に頷く。
本当にわかっているのか? 承菊を敵に回すつもりはないし、少なくとも今の庵原家当主が敵だとも思っていない。
ただ、この城には、孫九郎に対する根強い不満を持つ者が多いのだ。
承菊がそれを抑え込まなかったのは、おそらく意図的だ。
じわじわと真綿で首を締めるように庵原家の足場を崩している男が、こんなおいしい話を利用しないわけがない。
まるでスルメの足をしゃぶりつくすように、梅干しの種を味がしなくなるまで口で転がすように、承菊はこの状況を楽しんでいる。
「伊豆を任せたのは、信頼しているからだ」
承菊は、庵原家を好きにさせている間はおとなしくしている。信頼といってもそういう面でなのだが、小太郎はどう受け取ったのか、小さく頷いた。
「内々の話があるのではないのか」
「はい」
「ならば話せ。次にいつ時間を取ることが出来るかわからぬ」
小太郎は部屋の隅で居住まいを正し、丁寧に頭を下げた。
「船を、小田原に送ったとか」
孫九郎はちらりと視線を動かした。
返答をしたわけではないが、小太郎はまたも納得したように頷いた。
「小耳にはさんだ話をお伝えせねばと参りました」
「聞こう」
果たして風魔小太郎の耳が「小耳」と呼べるのか。そんなことを考えながら促す。
「北条家は、婚姻同盟を推し進めています」
「甲斐分家のことか」
「古河公方、山内上杉にも姫君を嫁がせる約定をしたようにございます」
孫九郎は頭の中で地図を広げた。
どれも、この先今川家が対峙するであろう「厄介な」勢力だ。
いや公方様については、権威はあれどもさほど心配することはないだろうが、そこと縁づいたということは単純な武力だけではない意味を持つ。
「それは、小田原攻めには山内上杉家から援軍がくるということか?」
あるいは、古河公方が号令をかけ、房総や武蔵の独立勢力も駆けつけてくるのかもしれない。
ふと、頭に吉原宿で毒を盛られた件が過った。
もしかするとあの足止めは、援軍を間に合わせるためか?
「今川家が相模を取るのが嫌なのだろう」
孫九郎はつぶやき、するりと顎をさすった。
「そんなつもりはないと言うても、信じはせぬのだろうな」
小太郎が、そうなのか? と問う雰囲気で首を傾けた。
そうだとも。傍目にどう思われているのか想像するだけで怖いが、今なお孫九郎は穏健派だ。好んで戦を仕掛けたことなど一度としてない。
もちろん、飛んできた火の粉は払わせてもらうが。
「ひとつ気がかりなことがございます」
小太郎の声が、ひと際平淡になった。
「北条家におられる未婚の姫君は三人です。三人ともが、左馬之助様の姫君です」
安全とは言えないところへ嫁にやる……それは実質、人質に出すのと同じ。
小田原でもそれに近い扱いだったはずだが、生まれ育った地にいるのと、見知らぬ国にひとり嫁がされるのとではまるで違う。
北条家の役に立てと言われて嫁ぐのだろうか。父左馬之助殿のことを引き合いに出されただろうか。……実に長綱殿らしいやり口だ。
「……左馬之助殿には伝えたか?」
「いいえ。いま先代が詳しいことを調べに向かっております。真実がわかってからお伝えした方がよいだろうとのことです」
それを知った時、あの男はどういう反応をするだろう。
長綱殿への怒りを爆発させるだろうか。己のせいだと、この二年を悔やむだろうか。
孫九郎は「そうか」と返し、唇を噛んだ。
小田原攻めを急ぐ理由が、また一つ増えた。
ドスンドスンと特徴的な足音が響いた。
勘助が来たことはすぐに分かった。足音だけではなく、声もする。
怒声でもこき下ろしでもなく、普通に話をしているようだった。
藤次郎が黙って障子を開けた先から、勘助と承菊が並んで歩いてくるのが見えた。
こいつら、意外と仲がいいんだよな。……ぞっとするような組み合わせだけど。
孫九郎のそんな内心に勘づいたのか、二人してこちらを真正面から見た。
勘助は睨みつけるような目で、承菊は相変わらずの朗らかな表情だ。
「なにかございましたか?」
承菊の問いかけに、孫九郎は素早く首を横に振った。
「忍びからの報告があっただけだ」
「ほう」
勘助の隻眼が、底冷えがする冷たさできらめいた。
小太郎の報告は伏せておく必要もないので、二人に伝えることにする。
報連相は大切だ、うん。
せっかくだから本人に伝えさせようとしたのだが、先ほどまで小太郎がいた場所はいつの間にか無人だった。
……逃げやがったな。




