4-1 伊豆 韮山城1
風の強い日だった。
孫九郎は、バタバタと翻る幟を見上げ、口を半分ほど開けた。
前回ここに来てから二年。たった二年の間に、韮山城はすさまじい規模の城に発展していた。
いや、聞いてはいた。
縄張りを「少しだけ」広げたいとか、城下の町を「部分的に」囲うように土塁を築きたいとか。
手紙魔の嘆願に、最前線なのだしと少なくはない予算を組んだし、伊豆からの上りを流用する許可も出した。
とはいえ、広い国境線の一か所だけを優遇していたわけではなく、限られたリソースの範囲内だから限度はある。
それがこんな……目が飛び出るほど大きな城になっているとは。
これ絶対、予算の範疇におさまっていないだろう。
なんなら、孫九郎自身が主城にと計画中のものよりも堅牢そうだ。
もちろん山城と平山城との違いはあるし、何よりここはいつ戦場になるかわからない前線なのだから、防備を厚くするのは当たり前ではあるのだが……。
主家の主城よりも大きな城など、穿った目で見る者なら叛意と取るだろう。
「……すごい」
皆が唖然と黙り込んでいる中、素直にそう口にしたのは次郎三郎だった。
その目はきらきらと光り、忙しなく四方を見回している。
駄目だぞ。これは悪い例だ。良くない大人に毒されるなよ。
そういってやりたいのは山々だが、ニコニコと満面の笑顔の承菊を前にして堪えた。
「遠路はるばる、ようおいでくださりました」
「見事な城だな」
勘助の、皮肉なのか本心なのかわからない口調に、承菊はますます笑みを深める。
頼むから、駿府に築城予定の城より大きいとかで揉めるなよ。
大勢の耳目がある場所で、この二人が諍うのを見せるわけにはいかない。
孫九郎は片方の手を上げて、なおもなにか不穏な台詞を吐こうとした勘助を黙らせた。
近づくと、承菊からほのかに墨か線香の匂いがした。
黒目が大きな、相変わらずの強い目力で見つめられ、頬が引きつりそうになる。
孫九郎は、頭の片隅に過った疑惑を即座に切って捨てた。
仮にこの男が敵にまわったのだとすれば、すでにもう虎の口の中に手を突っ込んでいるようなものだ。
心配するのは周囲に任せて、孫九郎は改めて承菊と真正面から視線を合わせた。
「聞いているな」
ストレートな問いかけに、承菊の薄い唇がきゅっと弧を描いた。
……こいつ。父庵原の逃亡を知っていやがったな。
「父がお手を煩わせ申し訳ございませぬ」
口だけは殊勝だが、その目が昏く笑っている。
まさか、何年も続く変わり映えがしない状況に飽きてきて、スパイスをひと匙……だなんて考えたんじゃないだろうな。
「申し訳ございませぬ!」
山城ではあるが、ゆったりと広めのつくりの本丸には広間があって、そこには白装束の男たちが待ち構えていた。
大声で悲壮な声を上げたのは、現庵原家当主、松之助。承菊の異母弟にあたる男だ。
孫九郎がその場に足を止めると、ゴツンと盛大な音がした。
平伏した松之助殿が、床に額を押し付けた音だ。
続いて、その背後に控える庵原家の若手が、顔色の悪いまま同様に頭を下げる。
ざっとみたところ、その数は二十名。現在の庵原衆は年齢層が大きく二分していて、白装束を身にまとっているのは、まだ二十代になるかならないかの若者たちだ。
同じように平伏している父親世代は、白装束ではなく地味な直垂姿。
その対比が、孫九郎に対する感情の表れだった。
「おやめなされ。謝罪すればよいというものではない」
きわめて穏やかな口調でそう言ったのは、承菊だ。
「ですがっ!」
「武士ならば、汚名を雪ぐ方法はほかにあろう」
それ、孫九郎が言うべき台詞なんじゃないか?
マッチポンプの権化のような男は、しれっといいところをかすめ取って、涙する弟の背中を優しく擦っている。
「御屋形様に申し訳なく……」
「ああ、どこまでもあの人は庵原に泥を塗る」
繰り広げられる承菊劇場に、呆れの表情をしているのは孫九郎だけだった。
韮山城の者たちは神妙な、あるいは感情を伺わせない暗い顔をしていて、逆に今川館から来た者たちは、苛立ちを多く含んだ表情だ。
わかりやすく舌打ちをしたのは勘助で、ドシンとわざとらしく義足を鳴らした。
「庵原の先代が脱獄し、甲斐で兵を起こそうとしておる。この中に聞いておった者はおらぬか」
「申し訳ございませぬ」
「武田と北条が婚姻で同盟を結ぶやもしれぬ。その話を知っておった者もおるのではないか?」
「申し訳ございませぬ!」
松之助殿が、悲壮な声をあげて再び平伏した。
勘助の追及があるたびに、ゴツンゴツンと床に額を叩きつけている。
見ていて楽しい光景ではない。……たいていの者にとっては。
孫九郎はげんなりして、承菊の顔から視線を逸らした。
この男の隙の無い良僧ぶりをみて落ち着かない気持ちになるのは、その内心がドロリとした憎悪で染まっていると知っているからだ。
「御屋形様にご相談が」
あまりの愁嘆場に目をそらしていた孫九郎に向かって、承菊が口を開く。
聞きたくない。表情からそう読み取ったのだろう、逃がさぬとばかりに目をきらめかせた。
「小田原攻めの先鋒は、どうか庵原にお任せください。決して無様な真似は致しませぬ。必ずや小田原を攻め落としてみせます」
実際に血と汗を流すのは、気の毒な松之助殿率いる庵原家の面々なんだろう。
孫九郎は、殊勝な顔をした承菊を横目で見て、こんな奴が僧形をとってもいいのかと改めて思った。




