1-3 駿河 賎機城2
孫九郎が近づくと、白桜丸がブルリと鼻を鳴らした。
美しいたてがみに映えるはっきりとした色合いの組紐が、風に揺れている。
こいつを見るたびに、踏み台がないと乗れなかった頃を思い出す。
今でも、乗る前に撫でなければ不満そうにされるが、さすがに台は不要になった。
「待たせたな」
そう声を掛けてポンポンと首筋をさすると、ふんふんと荒い鼻息が頬に当たる。
相変わらず気性は荒めだが、孫九郎の指示には忠実に従ってくれる。可愛い奴だ。
轡を握っていたのは逢坂家の少年だ。まだ若く、この一族にしては背が高い。
緊張気味の表情なのは、孫九郎と初対面だからだろう。孫九郎目線そう感じないのは、強い血族色を感じる顔立ちのせいだ。
「御屋形様」
白桜丸の耳がぴくぴくと動いた。せかせかと男が近づいてきたからだ。
気性の荒さを知っているから、尻側からではなく視界に入る位置から近づく。この馬には必須の気遣いだ。
「申し訳ございませぬ。しばらくお待ちいただけますか」
すでにあぶみに足を掛けようとしていたのだが、護衛の統括をしている谷の表情を見て黙って足を下ろした。
身体は成長してきたが、武士としての資質は熟練者に劣る。そういう自覚があるので、プロの指示には素直に従うことにしている。
小柄な谷の背後から、同じ装束を見にまとった馬周り衆が整然と現れ、孫九郎の周囲を固めた。
彼らの目が外側に向いているのは、用心するべき何者かがいるのだろう。
かつてはそういうことを大げさだと思っていたが、最近は考えを改めている。
それほどしょっちゅう、招かれざる客がくるからだ。
刺客の場合も多いが、それはまだ可愛いもの。それよりも厄介なのは……
「治部大輔様!」
にこにこと、無害をアピールしながら近寄ってくる男。……名前は何だったかな。
ここで気づかなかったふりをして馬に乗ればいいのだ。そう思いはするが、常識が邪魔をする。
「このようなところでお目にかかるとは、偶然にございますな!」
わざとらしい笑顔だ。
ああ、思い出した。武田太郎殿に頻繁に会いに来る男だ。
名前が出てこないのは、当の太郎殿が「会いたくない」と拒絶しているからで、まだ問題が多い甲斐衆の「良くない」ほうの一派だと記憶している。
わらわらと、その背後から旅装の武士たちが現れる。孫九郎の護衛の数よりも多い。それに体格が良い連中かりで、長物の武器を持っている事にもわざとらしさを感じる。
間違いなく挑発行為だが、そう指摘しても無意味だ。
小心者だとか、器量が小さいとか、そんな陰口を叩かれるのはわかり切っている。
こいつらがこんな無礼な真似をできるのには理由があって、甲斐武田家の本家筋が、今川家の一門衆の派閥に組み込まれたせいだ。
それは本来、孫九郎が意図した融合政策の一環ではあるが、正直失敗だったかもしれないと思っている。
そもそも、孫九郎と今川一門衆の多くが、感情的に近くはないのだ。
ちなみに一門衆には、先代の庶子が養子に入った家を含む。
多くはないし、たいして勢力もないから好きにさせているが、最近目に余ることが増えてきた。
「何用か」
問うたのは、三浦藤次郎。最近今川館で、渋沢と人気を二分する優男だ。
その明らかな塩対応に、相手はムッとした表情を隠さず、鋭い目つきで藤次郎を睨んだ。
甲斐衆はまとまりがないが、気性の荒さは共通していて、扱いにくいことこの上ない。
はやく太郎殿に成長してもらって、しっかり手綱を握ってほしいものだ。
「先触れもなく会いに来るなど、非礼であろう」
そんなんだから、本来の主君である太郎殿に避けられるんだよ。
空気が読めなくともわかる副音声に、男はたちまち顔を赤黒くしたが、ここで事を荒立てるのはまずいという自覚はあるのだろう、わざとらしく咳ばらいをしている。
「い、いや偶然近くを通りかかりまして」
苦しい言い訳だ。
ここは賎機山城。駿府の町から徒歩圏内ではあるが、偶然通りかかるような場所ではない。
孫九郎を怖がらせようとしたのか? 威嚇しようとしたのか?
何をしたいかよくわからないが、こちらの護衛よりも数を集めたのは意図的だろう。
「最近、よからぬ噂を聞きました」
ほうほう、噂か。
「桃源院様がご隠棲する庵に、甲斐武士が出入りしていると」
藤次郎の声は平坦で、むしろ穏やかと言ってもいいのに、うっすらと笑う表情は冷たかった。
「そっ、それは」
露骨に動揺した男をちらりと横目で見て、孫九郎は小さく首を振った。たとえ図星だったにせよ、顔に出すのは下手だ。明らかに謀には向いていない。
わざわざ藤次郎が指摘したのは釘を刺すためだろうが、その必要もなさそうだった。
「やりたいようにやらせてやれ」
孫九郎は、少し離れた位置にいる男たちに聞こえるように声を張った。
「桃源院様も気が紛れて丁度よいだろう」
だがわかっているのだろうか。行動には責任が伴う。問題が起こったら、それを背負うのは甲斐衆全体だ。
今の甲斐は、今川家の支配も緩やかなものだが、今後もそうだとは限らない。
孫九郎は、構わず白桜丸のあぶみに足を掛けた。
「お、お待ちくだされ!」
話をする価値無しと態度で示したのに、それをわかっていても食いついてくる。
甲斐衆のそのガッツを不作法ととるか、熱心ととるかは個々の受け取り方次第だろう。
少なくとも孫九郎はうんざりしていた。これ以上時間を割く気はない。
引きも切らずやってくるこの手の奴らが言いたいことは、「自分たちをもっと重用しろ」「権力を寄越せ」。そのどちらかに尽きる。
桃源院様関係の厄介なところは、先代の庶子、最年長だと三十歳を越える連中が、今更血の正当性を掲げて世に出てようとしていることだ。
だが、それらの相手はしないことにしている。
今川家が攻め込まれ、苦しい状況にあるときには黙っていて、今更何を言っているのか。
来るなら堂々と、正当な手段でくればいい。
刺客を送ってくるなどの手段をとるのであれば、こちらも相応の態度で応じるだけだ。
「伊田」
ようやく思い出した名を呼ぶと、甲斐衆の男はギクリと身をこわばらせた。
「山内上杉と組むのはやめておけ」
「……えっ」
孫九郎が馬上から掛けた言葉は、伊田の表情を困惑に染めた。
なんだ違うのか、とは思わない。
最近武田家がそちらとつながりつつあるのはわかっている。
伊田が知らないのは下っ端だからか。あるいは、対孫九郎役なだけかもしれない。
「次はない」
言い置いて、馬の腹を蹴った。
引き留める声はなかった。




