3-6 駿河 吉原宿2
孫九郎の握り飯は確保され、残りはあっという間に消費された。
この寺で出されたものを食べるわけにはいかないのだ、足りないのは仕方がない。
最後のひとつを、全員にジーッと見られながら飲み込み、孫九郎はため息をついた。
食後の白湯を受け取った。周囲を見回し、この場にいるのが側近たちだけだと目で確認する。
「庵原は甲斐だ」
「こそこそと兵を集めていましたからね」
藤次郎が頷き、続いて次郎三郎やそのほかの者たちも同意する。
毒の事は、駿府でとらえていた先代の庵原が画策したのではない。計画を立てたのはおそらく桃源院様。ほかにも庵原分家の一部が伊豆から離脱して、反孫九郎派として立とうとしている。
旗印は先代の庶子のひとりで、おそらく上から二番目の庵原上総介。昨年までは僧籍にあったのだが、いつのまにか還俗して母方の姓を名乗っているのだそうだ。
実際に庵原上総介が庵原の血統なのかどうかはわからない。だがそう名乗れば、今川家中での立場は強まる。孫九郎に万が一のことが起こり、桃源院様の後ろ盾があれば、十分に今川家の当主になる目はあった。
そんな彼らが甲斐で何をしているのかというと……最終的には父と朝比奈殿を排除して、甲斐で勢力を持ちたいようだ。
実際はまだ弱小で、羽虫程度の脅威に過ぎないが、監視しておくべき対象ではあった。
「こちらの警戒を煽るだけなのに、庵原様はよく逃げましたね」
土井がそんなことを呟くと、次郎三郎が軽く首を振った。
「あるいはそれも、目くらましかもしれませんよ」
「怖いことをいう」
「敵の目を囮となって逸らすのは、兵法の定石です」
「では真の敵がまだどこかにいるわけか?」
「今川家の敵は多いですから」
配下の者たちの議論を聞きながら、孫九郎は白湯をごくりと飲み込んだ。
桃源院様は何を思って庶子らに手を貸していたのだろう。彼らでよいのなら、同じ庶子の孫九郎でもよかったはずだ。
先代の嫡出男子に助力して、対抗勢力として立てるならまだわかるが……ああそうか、梅岳承芳殿は京だ。煩わしい騒動とは触れさせないように遠ざけた。そのせいで、盤面の駒にすることができなかったのかもしれない。
「興国寺城に入り、兵糧など整えてから伊豆入りです。気を引き締めて参りましょう」
藤次郎の激に、孫九郎を含む全員が首を上下させて頷く。
桃源院様は亡くなられたが、家中はまだまだ落ち着くとは程遠い。
……確かに、心ここにあらずではいけないな。
孫九郎は白湯を飲み干してから口を開いた。
「ここで毒を盛ろうとした理由が足止めなら、我らに遅れて到着してほしいと思うておる者たちがいるということだ」
「あるいは、御屋形様の大失態を作り上げたかったのやもしれませぬ」
「失態?」
薄暗い夜の室内で、険の混じった藤次郎の顔が不穏な影になる。
幾日か遅れる程度のことで、現当主たる孫九郎を責める者などいるはずはない。そもそも攻め入る指示を出すのは孫九郎が率いる援軍が到着してからだ。
「……そうか、遅れることで大敗を喫すということか」
だがしかし、それによって小田原攻めが失敗に終わるという見立てがあるのならば、話は変わってくる。
やはり北条が企んだのか? 風魔を外しても、他の忍びを雇ったようだし。
「このような手立てをとるとは、卑劣な」
「お待ちください」
憤然と言った藤次郎を制したのは、次郎三郎だった。
「北条家であれば、回りくどいことはせず致死毒を用いたはずです。わざと足を止めさせるなど、家中の誰かとしか思えませぬ」
――言い切りやがった。
誰もがそう思ったに違いない。
ふと、その若い正義感あふれる顔を見ているうちに、つるりと整った目力の強い承菊の顔を思い出した。
いや、まさか。あれが援軍を足止めするようなことはないはずだ。
「……庵原様を逃がした事が知れたとか」
皆が必死で「そんなことはない」と思おうとしているのに、察することができない者がひとり。
「土井!」
左右から肘で突かれて、「ぐほっ」と蛙が潰れたような声が上がる。
「いや、それはない」
皆が疑っているようなので、孫九郎はあえて真逆の意見を言った。
その時は希望的観測で否定しただけで、完全に信じていたとはいえない。
周囲の男たちは素直に頷いたが、内心では疑心が芽生えていただろう。
これはいけない。軍師への疑いは、そのまま軍の士気に通じる。肝心な時に動けなくなっては困る。
「失態狙いなら庶子兄らの誰かであろうよ。今川軍の隙をつく、あるいは恩に着せるなどの目的があるのなら、いずれそれもわかるはずだ」
取り急ぎ、僧侶たちへの尋問だな。
田所家は今出払っている。誰に任せよう。……弥太郎か?
田所家も怖いが、忍びの調べも恐ろしいぞ。知っていることがあるなら口を開くに違いない。
そんな事を考えながら言葉少なく指示を出していて、ふと思い出した。
京にいる承芳殿と伊豆の承菊とが同門だということを。
そんなことは誰もが知っている。臨済宗は非常に大きな宗派だし、なんなら今川家代々の菩提寺も臨済宗だ。承芳殿がそこで得度をうけても何らおかしくはない。おかしくはないが……いや、疑ってはいけない。少なくとも、承菊にこの疑心を気づかせてはいけない。
あの男が敵に回るなど、長綱殿を相手にするより恐ろしいぞ。
想像して身震いしていると、同じように藤次郎も腕をさすっていた。
目が合って、さりげなく互いに逸らす。
……家臣を信じずにどうする。
孫九郎は改めてそう自身に言い聞かせたが、鳥肌は一向に収まらなかった。




