3-5 駿河 吉原宿1
雨が上がり、軍は再び動き始めた。とはいえ長い行列の先頭からなので、孫九郎の番がくるのはまだまだ先だ。
ぶるるんと鼻を鳴らした白桜丸が顔を寄せてくる。孫九郎は手で数回その首元を撫でて、きゅっと唇を噛んだ。
苛々している。自分でもわかっている。
それは草履に石が食い込んだからでも、白桜丸に髪を齧られたからでもない。
孫九郎は努めてゆっくりと息を吸い、しばらくして吐いた。
京からこの場所まで、忍びの足でも数日かかる。実際に御所で火が出た日が、八雲が噂を聞いたよりも前の可能性もある。
今から孫九郎ができることはない。どんなに気を揉んでも、京は遠いのだ。
……そう、わかっているのに。
「随分と重い溜息ですね」
普段通りの口調で声を掛けてきたのは次郎三郎だ。
土井にわき腹を肘で突かれ、不思議そうな顔をして首を傾げている。
「……一条家の方々には世話になっている。ご無事だといいが」
返答するまで一呼吸おいてから、あえて平静を保って言った。
雲の切れ間からのぞいた陽光が、まっすぐに孫九郎の視界を刺す。
今は目の前のことに集中だ。どうしようもない事を思い悩んでも仕方がない。
自身にそう言い聞かせながら、じわりと目の奥が痛むまで瞬きをせず前を見た。
気を逸らせている場合ではない。これから大勢の命がかかった決断をしなければならないのだ。
ぐっと奥歯を食いしばり、腹に力を籠める。
ようやく前の組の足軽たちが動き出し、孫九郎たちも馬に乗った。
黙って思案にふけっている孫九郎を、周囲はそっとしておいてくれた。
そのことに気づいたのは、美しく夕日が差し始め、吉原宿が見えてきてからだ。
渡河に備えた待ち時間の最中も、誰にも話しかけられなかった。確かに、八雲はいつ頃京につくのだろうと考えこんでいたが……。
大所帯なので、吉原宿の周辺に陣を構えた。
いくら人の行き来が多い宿場町だからといっても、三千人を収容できるキャパシティはない。
孫九郎や本陣の者は近くの寺に世話になることになったが、足軽たちは野宿だ。
もう慣れたが、申し訳ないと感じるのも正直なところで、こういう時には皆に差し入れをすることにしている。……普通に米だけれども。
「お疲れでしょう」
寺に入る前に足をすすいでくれたのは弥太郎だ。
舗装された道などない時代なので、革足袋を履いていても足はすぐに汚れる。
汗ばむ季節だし、清潔を心掛けたい。
桶に入った水で足を洗ってもらい、ほっと息を吐くと、にこりと笑顔を返された。
「……なんだ?」
「いえ、御足が随分と大きくなられました。新しいものを誂えねばなりませぬ」
ギュッギュとマッサージをするように握られて、少し口を開ける。
俯いた弥太郎の口がかすかに動いた。
――く・さ。
声にならない二つの音。「えっ、臭い?」そんな衝撃が過ったのは一瞬だ。
草とはつまり、忍びの事だ。素性を隠し、その土地に入り込み、五年十年……中には死ぬまで潜んでいる者もいるらしい。
とっさに顔をあげようとしたが、またも足を握られた。痛い。そこ痛いって!
「精進料理をご用意してくださるそうですよ。楽しみですね」
ニコニコと笑いながら、ギュギュっと強めに土踏まずと甲の部分を揉む。的確にツボの位置だ。
痛い、痛い!
なんとか手を振り払おうとしたのだが、力を込めて握られているわけでもないのに動けない。
「……食欲がない」
わかった、わかったって。ボーっとしている場合ではないと言いたいのだろう。
「すまぬが、明日の朝に頂こう。馬に酔い、船にも酔った」
つまり、そうしろということだ。
「それはいけませぬ」
弥太郎は大げさに驚いた表情をして、手を離した。
その後はいつものように丁寧に足を拭いてくれて、無事寺に上がることが出来た。
まだジンジンと痛むので、ひょこひょこと足を庇いながら歩いていると、側付きや小姓たちまで大げさに心配してくる。
そこまできてやっと気づいた。
周囲が放っておいてくれたわけではない。
孫九郎が、心ここにあらずの状態だったのだ。
深夜。
大量の握り飯と共に現れた弥太郎に、「すまぬ」と素直に詫びた。
まだ起きていた側付きたちを手招いて、山積み握り飯を皆で食べる。
「間違いないです」
もごもごと味噌のついた握り飯を頬張って、それをごくりと音を立てて飲み込んだ土井が、もうひとつ欲し気な顔をしながら言った。
山積みといっても、大食漢の大人たちの腹を満たす量ではない。
土井は目をきらりと光らせて続けた。
「とんだ精進料理ですよ」
草の者たちに気づいたのは弥太郎だが、その不審な動きを目で確認できたのは土井だった。
なんでも、ここで孫九郎たちに供されようとした食事や飲み物に、ことごとく毒が入っていたというのだ。
毒といっても、腹を下す程度のようだが、孫九郎ら本陣の者たちがダウンしたら行軍はしばらくとまる。
間違いなく足止めだった。
「北条ではないな」
孫九郎の呟きに、首を傾げたのが半数。残りの者たちは難しい顔をする。
頷いたのは藤次郎と次郎三郎と、そのほか数名だ。
「致死毒ではない。つまり死なれては困る。食あたりぐらいに思ってもらいたい……そんなところだろう」
「それでいうなら、甲斐衆でもありませぬ」
次郎三郎は、純朴そうな顔で「うーむ」と顎に手をあてて、しばらく考えた末にパッと表情を明るくした。
「庵原じゃないですか? きっとそうですよ」
「そういうことにしたいだけだろう」
こいつ、ますます承菊に似てきやがった。
孫九郎はうんざりしながら溜息をついた。




