3-4 駿河 富士川近辺
時を置かず、行軍を再開した。
庵から離れたいという思いも多少はあったが、それだけではない。
この干潮を逃せば、半日は足止めだと聞かされたからだ。
あれほど晴れ上がっていた空から、ぽつりぽつりと雨が降ってくる。
西のほうの空が暗いので、本格的な雨になるのかもしれない。
その予感は的中して、富士川までたどり着かないうちに、強い雨が降ってきた。
人よりも馬の怪我を危惧して、川のかなり手前で休みを入れることになった。
旅人たちが大勢、街道沿いの軒先で雨宿りをしている。
こちらもそうしたいところだが、三千人分の軒などこの辺りにはない。
仕方がないので街道を離れ、山際の手ごろな木の下で雨が止むのを待った。
早めに難所を越える判断をして正解だった。
雨と風が次第に強くなっていく。
孫九郎は大木の根本から、遠くの空を見つめた。
東はまだ明るい。背にした山側から雲が流れてきて、徐々にその明るい空を埋め尽くしていく。
雨は木々の葉を打ち付けながら空気を湿らせ、濃い大地の匂いが立ち上った。
その生臭いような、青臭いような匂いが、四年前の京を思い出させた。
――嫌な予感がする。
何もかもが制御下にあるはずだ。
桃源院様の動きは、結局のところ何年も前から予想していたことだし、北条を討つときが来るのもわかっていた。
今のところは、大きな問題はなく上手く対処できている。
だが……上手く行っているからこそ、何かを忘れているような気がするのかもしれない。
「御屋形様」
雨音に交じって、声が掛けられた。
じっと無心で雨のカーテンを見上げていた孫九郎は、油断していたわけではないがギクリとした。
足音を立てない弥太郎に気づけないのはいつものことだ。
孫九郎ならどう頑張っても、落ち葉や枯れ枝を踏んで音を出してしまうだろう。
相変わらずの忍びの技に感心しながら顔をあげて、弥太郎の肩越しにひょろりと長身の男を見つけた。
「八雲か。久しいな」
手足がアンバランスに長い風魔忍びは、首を前に突き出すようにしてひょっこりと頭を下げた。
孫九郎の目には見えなかったのだが、弥太郎に脛を蹴飛ばされたようで、大げさによろめいて改めてその場に片膝をく。
地面は濡れているからいいのに……思いはしても、口にはしない。
「戻っていたのか」
孫九郎がそう言うと、八雲はもう一度不格好に頭を下げた。
「小笠原家が戦支度をはじめました」
「小笠原? ……そのほう京に行っていたのではないのか」
単純な疑問がこぼれた直後、思い出した。土岐の姫が何かそれらしきことを言っていたな。
義務的に書かれた文面にあったのは、もちろん戦支度云々ではないが、信濃を東西に分ける情勢下においては、大きな意味を持つ。
逼迫した状況下にもかかわらず、小笠原家が京にいたのは、もちろん重要な要件があったからだろう。それが、対村上の策だったとしてもおかしくはない。
違和感をそのままにしていたことに顔をしかめた。
何もかもに気づくのは無理だとわかっていても、取れたはずの対策をしなかったのは悔やまれる。大きな失点にならなければいいが。
「村上勢と本格的にやり合う気だな」
「おそらくは」
「……京へは増援を頼みに行ったのか」
ざあざあと木の葉に打ち付けられる雨が、ひと際おおきくなった。湿った風が、山から吹き降りてくる。
孫九郎は軽く顎に手を当てた。
村上殿が下手を討つとは思わないが、巨象でも大軍に囲まれれば傷を負う。取り返しのつかないことになる可能性は少なからずあるだろう。
あの村上殿に助けが必要かどうかは甚だ疑問だが……ちょっと流れを変えるぐらいなら構わないのではないか。
もう少し考えてから、うんとひとつ頷いた。
「とんぼ返りをさせてすまぬが、京まで使いを頼みたい」
一番知りたいのは、幕府が小笠原にどれぐらい増援の兵を出すのかということだ。さすがに幕府としては動かないだろうが、『個人的に』ならあり得なくない。面子もあるからそこそこの数だろうし、今の信濃の均衡を破るきっかけになってしまいかねない。
書簡を書こう。
相手は三好筑前守殿。二年前に一度失脚なさったが、阿波でひそかにかくまっていた細川京兆家の若君を担ぎ、見事畿内に復権した。
あれだけすったもんだと揉めたのに、しれっと幕府に返り咲くなど、三好殿も意地が悪い。
将軍はさぞかし、切り捨てたはずの男の存在に怯えている事だろう。
……ともあれ、三好殿に聞けば、小笠原の事はすぐにわかるはずだ。
雨がやみ、雲の切れ間から陽光が差し込んだ。
雨粒が反射するキラキラとした光。吹く風は変わらないのに、すがすがしく感じる。
人の世の無常さなど些事とばかりに、地球は変わらず生きている。
あるいは今この時に大勢が死んだとしても、その営みは変わらない。
それは慈悲のようであり、容赦のない厳しさのようでもあった。
「……あの」
遠くを見ながら、桃源院様の生きざまを考えていると、報告が済んだはずの八雲のほうから珍しく声を掛けてきた。
「確かめたわけではないのですが」
言おうか言うまいか迷うその様子に首を傾げ、先を促すと、八雲はためらいながら口を開いた。
「一条家の方々が御所内で火事に巻き込まれたとか」
「なんだと」
孫九郎はぎゅっと眉を寄せた。
京では相変わらず火事が頻発していると聞いてはいた。
四年前の、京のすべてが消し炭のようになった大火のことは、忘れようにも忘れられない。
「お怪我は? いや、確かめてはいないのだったな」
「……はい」
八雲が非常に言いにくそうに口ごもった。多弁な男ではないが、こんなふうに発言を躊躇っているのは初めて見た。
何故か、愛姫の顔が脳裏に過った。




