3-3 駿河 由比 桃源院庵3
桃源院様の哄笑に、追従する者はいなかった。
だが気にすることなくひとしきり笑い、扇子の先を孫九郎に向けた。
「いつまで大きい顔をしとれるやろなぁ」
桃源院様はなおもクツクツと喉を鳴らし、ようやく脇息から身体を起こした。
「吾の名を系譜から消すか。そのようなことができようはずもない」
その、自信たっぷりの堂々とした態度に、孫九郎は首を傾けた。
正式に今川家の当主となったのは、四年も前だ。不服を覚えた者は多かったに違いないが、それが表沙汰になることはほとんどなく、あったとしてもたいしたものではなかった。
系譜に筆をいれるぐらい簡単なことだし、実際やろうと思えば目の前の老尼僧を今すぐ細切れにすることすら容易い。
だが桃源院様は、そんな孫九郎の考えこそが間違っていると言いたげに笑う。
「……今頃、今川館はどうなっているやろうなぁ?」
まるで、自慢の盤面を披露するかのような口ぶりだった。
孫九郎は表情を変えることなく、わかり切っていた結論にため息をついた。
「どうともなっておりませぬ。無風です」
黙っていれば誤魔化せたこともあるのかもしれないのに……辛抱が足りない。
「庵原の動きは見張らせております。小原も、ほか頼みにしておられる者たちも、今頃は首と胴体とが離れておるやも……おや、どうされましたか」
急に顔をこわばらせた桃源院様に、孫九郎は小さく口角をあげた。
「そういえば、この庵にも『若君』と呼ばれている者がいたようですね。我が異母兄殿のおひとりでしょうか」
すべての異母兄弟の顔を知っているわけではない。だが、先ほどの『若君』は年齢的に該当者がおらず、側室腹以下の生まれか、あるいは詐称か。
いずれにせよ、桃源院様が『念のため』に持っていた駒のひとつなのだろう。
先代には庶子が多いが、そのほとんどが僧籍にあり、あるいは中小の家門に養子に入っている。
それは、目の前でようやく表情を変えた御方の方針だった。
孫九郎がしたのは、すべてに見張りをつけることで、それは警戒からというよりも、不穏分子を早めに把握するためだった。
落ち着こうと呼吸を深くする桃源院様をしばらく見つめる。
再びの沈黙は長く、そこには張り詰めた終りの気配があった。
軽く一度、手を上げる。視線は離さない。孫九郎の合図に、廊下で人が動いた。
「御免」
これまで気配など全くしていなかったのに、その張りのある声が沈黙をさらった。
桃源院様の視線が、孫九郎から男の方へ向く。
そして、カッと大きく目を見開いた。
「お久しぶりでございます」
左馬之助殿の表情は珍しくまじめで、その声からは少し前まであった迷いが消えていた。
「……そなた」
桃源院様の声は震え、手も震えている。ようやっと、秘めていた怖れの片鱗が覗いた。
孫九郎はそれをじっと観察してから、静かに口を開いた。
「近く小田原を落とします」
そうだ。あなたが頼みにする北条家は、いずれあなたが望むものではなくなる。
「次の北条家当主は左馬之助殿にお任せするつもりです」
左馬之助殿がスッと息を吸った。
腹に力を籠め、覚悟を決めたように背筋を伸ばす。
見栄えがする男だから、孫九郎よりよっぽど武家の当主としてふさわしく見えた。
「わが今川家の後ろ盾をもって国を建て直し、東の備えとなってくれるでしょう」
「そのような戯言……!」
「伯母上」
桃源院様のあきらかな虚勢を遮ったのは、左馬之助殿だった。その声は太く、低く、険しい。
「もとより、北条とは兄上が名乗り始めたものだ。我らは伊勢のままでいるべきだった」
「……なんと、なんということを」
桃源院様はなおも言いつのろうとしたが、孫九郎も左馬之助殿も無表情に見つめ返すだけだ。
先代と同じ形の、それはつまり孫九郎にもよく似た目が、縋るように室内を見回す。
その視線が一点で止まった。
どこかを見たというよりも、何かを悟ったという風に。
……そうだ。あなたの盤面は詰みだ。
「ここまでです」
孫九郎が言うと同時に、庵の外で強い風が吹いた。
風が木々を揺らし、小鳥のさえずりが聞こえる。
孫九郎は晴れ渡った青空を見上げ、暑くなりそうだと目を細めた。
息を吸うと、かすかに血の臭いが混じっている。
平和な景色とは真逆の、この時代の業の香りだ。
「……大丈夫か」
気づかわし気に問われて、振り返る。
返り血ひとつ浴びていない左馬之助殿と、その背後には見慣れた側付きたちの顔。
どれもこれも心配そうだ。
「そちらこそ」
左馬之助殿の眉間に珍しく皺が寄っているのを見て、孫九郎は小さく笑った。
「付き合わせてしまい、申し訳ありません」
「楽しいものではなかったな」
「……はい」
桃源院様は自裁した。
迷いのない最期だった。
最後に孫九郎を見た目には、恐怖も後悔もなく、恨みすらないように見えた。
「これで、家中の不穏分子のほとんどに片が付きます」
桃源院様は長年にわたる内なる敵だったが、今となっては、その敵をひとまとめにわかりやすくしてくれていた。
「今川は一枚岩になるか」
「それはまだまだですね」
「孫九郎殿の嫁とりが先だな」
こんな時にその話題を出すなよと顔をしかめると、バンバンと乱暴に背中を叩かれた。痛い。
「庵原の件だが、抜け出して向かった先には心当たりがある」
「はい」
左馬之助殿がどうして知っているのかは聞かなかった。
孫九郎も、その先を知っている理由を言わなかった。




