3-2 駿河 由比 桃源院庵2
ふと感じた違和感を、言語化するのは難しい。
それは、命を狙われ続けた末の本能だったのか。あるいは、ついに戦場の空気を嗅ぎ取る才覚に目覚めたのか。
勘助に鼻で笑われそうなことを考えながら、首を巡らせた。
目が合った。
二十代後半の、青白い顔の男だ。
孫九郎がなにがしかの特殊能力に目覚めていなくとも、その目にあるギラギラとした光が何を表しているのかはわかった。
憎悪。野心。それから……嫉妬。
男の口角は鋭角に上がり、抑えきれない愉悦に歪んでいる。
見覚えのある表情。見覚えのある感情。
男の顔に覚えがなくとも、素性に想像はつく。
孫九郎はその昏い視線に、「またか」と達観の目を返した。
扇子の先を男に向ける。
「若君!」
はっとそのことに気づいた富樫が、焦った声を上げた。
孫九郎はやはりなと思いながら、扇子の先を小さく跳ねさせた。
「あの者を捕えよ。話を聞かねばならぬ」
「承知!」
食い気味に返答し、凄まじい速度で実行に移したのは左馬之助殿だった。
ぎょっとしたのは、孫九郎とその配下の者たちだ。
暴れ馬のように突進した左馬之助殿は、孫九郎の警備の関係上、無手だった。
だが、敵も味方も何らかの反応をするより先に、左馬之助殿は目の前の敵から槍を奪っていた。
最近父(福島正成)と仲がいいなとは思っていた。親しく酒を酌み交わすほどではないが、たまに鍛錬で手合わせをしていたのは知っている。
孫九郎の頭に、父の顔と、幸松の顔と、ニマニマ笑っている左馬之助殿の顔が同時に浮かぶ。
そこに渋沢や谷まで交じれば……想像しただけで鈍い痛みが頭に走る。
……首輪だ。首輪がいるぞ。
孫九郎は痛み始めたこめかみに手をやりながら、生き生きと槍を振り回す男から目を背けた。
満足そうなほくほく笑顔の左馬之助殿をスルーした。
その手にぶら下がっている『戦果』からもまた、視線が素通りした。
「御屋形様」
近づいてきた渋沢は、いつものように全身を物々しい武装で覆っている。異様な雰囲気の頬あてと、その黒づくめに過ぎる装束が、まるで戦場に降り立った死神のようだ。
ちらりと見た庵の門は大きく開かれ、そこでの争いも終結していた。
そう、富樫らは孫九郎をうまくおびき寄せたと思っていたに違いないが、とっくに気づいていた。
敵が何をするつもりかわかっていれば、待ち伏せは罠でもなんでもない。
「終わりました」
孫九郎は、谷に踏みつけられている富樫に視線を落とした。
さて、これからどうする?
庵のほうから、強い視線。
あえてそちらに目を向けることなく、『戦果』を本陣に連行するよう指示した。
「桃源院さまにおかれましては、変わらずご壮健のようで何よりに存じます」
庵の中は、何事もなかったかのように静かだった。
前回訪れた時よりも広く、真新しい畳と新築の木の香りがしている。
調度品も、隠棲している尼の住まいというには華美で、かつての今川館の北奥がこのお方の趣味で整えられていたのだとわかる。
姿かたちは誰もが想像する尼僧だ。
だがしかし、くつろいだ姿勢で脇息に身を預け、華やかな扇子を弄ぶ様子は、つつましさや清貧さとは真逆だった。
もとより、先代が生きておられたころから尼僧ではあったのだ。
権力を掌握し、当たり前のようにそれを操る尼僧だ。はた迷惑この上ない。
孫九郎は下げていた頭を上げて、つまらなさそうにしている桃源院様を観察した。
かつては、先代が病床についたので、次代に引き継ぐまでのつなぎとしての権力だったはずだ。
それがなんとか機能していたのは、先代が病の床から睨みを利かせていたからなのだろう。
つなぎの権力を己のものだと錯覚し、いずれ龍王丸君が跡をついでからもそれを手放す気はなかったのだとすれば……先代が孫九郎を選んだのもわかる気がする。
渋々と、桃源院様の顔がこちらを向く。
視線が合って、ああこの方は、わかっていないのだと察した。
たとえば富樫がどんな思いで孫九郎に刃を向けたかなど、頭の片隅にもないのだろう。
ただ盤面を見下ろして駒を動かすだけ。失敗してもやり直せばいいと思っている。
命が紙のように軽い時代だとしても、人を人とも思わないこの感覚は理解できない。
「……簡単な方法があります」
孫九郎の唐突な言葉に、桃源院様は不快そうに眉間にしわを寄せた。
先代の生母なので、七十近いかすでにその年を越えているはずだ。にもかかわらず、相変わらずの若々しさだ。
「舌を抜きましょうか。手足を潰しましょうか。息の根を止めましょうか」
「誰に向かって言うておるのだ?」
脅しのつもりで口にしたのに、桃源院様は鼻で笑った。
「お元気になれば、悪い癖も戻ってくるようですね」
孫九郎は、血縁上の祖母の不愉快そうな表情を見ても、これまでのように流さなかった。
「それほど死にたいのなら、お手伝いいたしましょう」
じっと、こちらを見ている老女の目。読み取りにくく、蛇のように冷ややかだ。
彼女は、血のつながった孫である孫九郎を、まだ赤ん坊の頃から殺そうとしていた。
祖母だと思ったことはない。同じ血が流れている実感もない。
「吾を手に掛けようと? やれるものならやってみればよい」
できないと思っているからか、気だるげなそぶりは変わらず、孫九郎を見る目は冷淡だ。
室内は、針が落ちる音も聞こえそうなほど静まり返っていた。
孫九郎は静かに息を吸った。吐きながら、まっすぐに桃源院様を見返して、心を決めた。
「わかりました」
息を飲んだのは、桃源院様の周囲の者たちだ。
腰を浮かせて動こうとしたが、部屋の左右を固めている兵たちが身構えたのでそのままの姿勢で固まる。
「御名を系譜から削除いたします」
孫九郎は、ずっと考えていたひと言を口に上らせた。
「今川家からの縁を切らせていただく」
名を削り、金銭的な援助も面倒もみない。将来的に、今川家の者として弔われることもない。
孫九郎は桃源院様の派閥を切り捨てる決意をした。
彼女は敵だ。明確にそれがわかっていたのに、時間をかけすぎた。
年寄りが臥せっているならこのままで……などと、温情を掛けるべきではなかったのだ。
「ほほほほ」
不意に、ひどく場違いな哄笑が響き渡った。
派手な扇子を口元に寄せ、喉をむき出しにして笑う様は、さながら腹の白い蛇のように見えた。
「……ああおかしい」
ひとしきり笑って、ぞっとするような目で孫九郎を一瞥した。
それは、己の息子に瓜二つの孫を見る目つきではなかった。




