2-9 駿河 行軍初日 興津宿7
田所弟がすっと頭を下げる。
孫九郎は頷き、踵を返そうとして足を止めた。
半ばまで出かかった、お雪の名前を飲み込んで、懐に手を入れ扇子を取り出した。
「……軍配の代わりだ」
田所弟の浅黒い顔から、目だけがチロリと光った。
「全て任せる」
数秒の沈黙の末、一団の先頭に立つ男が軽い衣擦れの音を立ててその場で片膝をついた。
差し出した扇子を両手で受け取り、深く腰を折る。
田所家の次男に続いて後続の一団も、一呼吸後に同様に片膝をつき、孫九郎はそれに対しても軽く頷きを返してからくるりと踵を返した。
「恐れ入ります」
しばらくして、見送る側の兄の方が小声で言った。
それは普段通りの至極のんびりとした口調だったが、田所家の長男の口ぶりがおっとりと間延びして聞こえても、この場にいるほとんどがその通りには取らない。
華々しく語られることはなくとも、彼らが今川において重要な役割を担っていると知る者は多いのだ。
孫九郎はちらりとその色白の顔を横目で見て、予備の扇子だと内心呟いた。
いや、わかっている。あの扇子の価値が問題なのではない。
孫九郎が手ずから、「任せる」と渡した事実が重要なのだ。
耳を澄ませる。遠ざかっていく男たちの足音は聞こえない。
孫九郎は振り返りたいのを堪えて顔を正面に向けた。
己の命令に従って、『対処』をする者たちだ。
彼らが手に掛ける命も、彼ら自身の命も、すべて孫九郎自身が背負う。
今更ながらに、それに対するハードルが随分と低くなったと自嘲した。
だがそれこそが、今川家の当主として戦国に生きるということだった。
見送りを済ませて宿に戻ると、左馬之助殿が、まるで主でございという顔をして待っていた。
お前の部屋じゃないだろう。
そう言ってやりたがったが、離れた下座に興津家の叔父甥がいるのを見て黙る。
部屋の空気はひりついていて、穏やかなものではない。
理由ははっきりしているから、孫九郎は気にせず足を踏み入れた。
護衛達が念入りに室内を見回し、小姓たちが改めて部屋を整える。
孫九郎が上座に到達したときには、そこに敷物と脇息が置かれ、傍らには弥太郎が控えめな態度で頭を下げていた。
「待たせました」
「いや」
左馬之助殿はわかりやすく食い気味に返答した。
「結局、どうなった」
左馬之助殿には、井高屋の尋問を見てくると言ってあった。実際勘助が立ち会っているから、問題ないだろう。
小原にまとまった兵を出したことは、今はまだ伏せたい。
家中にこの話が回れば、一門衆が大騒ぎするだろうし、思わぬ足かせになりかねないからだ。
羽虫の雑音程度のものだが、肝心な時に士気に障るようでは困る。
「悪だくみをした自覚はあっても、船を失う事態になるとは思っていなかったようです」
とはいえ、あれだけの人数が動いて風魔小太郎が気付かないはずはなく、いずれこの男の耳には届くだろう。
ふと、それがいつになるのか計ってみたい気がしたが、三河風魔衆の忠義の度合いに興味を持つのはよくないと自制した。
忍びが自ら考え、判断するのは悪いことではない。
ろうそくの数が増えて、夕刻よりも対面する男たちの表情がはっきりと見えるようになった。
孫九郎は脇息に肘を預け、少し距離がある興津叔父甥に目を向けた。
今川家中における左馬之助殿への反発は、今に始まったことではないが、興津はどちらかといえば中立だった。
だが今は違う。放置すれば、孫九郎に対しても疑念を抱くようになるのではないか。そう思わせるほどの憎悪だ。
「……興津」
思わずそう呼び掛けていて、はっとこちらをみた二人に軽く咳ばらいをする。
「善之助が何故死なねばならなかったのか、それがわかるまでは判断を待て」
興津衆は左馬之助殿が原因だと信じ込んでいて、いや……あながちそれが違うとも言い切れないから厄介なのだが、闇雲な恨みは判断を鈍らせる。
孫九郎は、何かを言おうとした興津衆を制して、コンコンと脇息を指で叩いた。
「船はどれだけ出せる? 伊豆に兵糧を送りたい」
すっと背筋を伸ばしたのは、善之助の弟の喜之助だった。
「いつでも構いませぬ。必要な船の支度は……」
若き当主、佐兵衛の言葉は、途中で途切れた。
もっとも善之助を目の上のたん瘤に思っていた存在に気づいたのだろう。
「……まさか」
伊豆は、それほど豊かな土地ではない。山岳が多く、農耕面積が少ないので、伊豆一国では大軍を養うことが出来ない。
そんな伊豆が、今川家の最前線として睨みを利かせていられるのは、後詰めがしっかりしているからだ。
せっせと命の兵糧を送り続けた興津衆を、北条はさぞ邪魔だと思っていただろう。
「兵糧を途切れさせるな。善之助の役割は重要なものだった」
この四年、北条はずっと江戸攻めを続けている。
なかなか決め手に及ばないのは、背後の伊豆を気にしてだ。
「北条が大きくなるには江戸を取らねばならぬ。江戸を取るには、背後の憂いは邪魔だ」
折しも、北条殿が卒中で倒れた。ここぞと承菊が攻め込んでくる事態を避けたかったのかもしれない。
孫九郎は、眉間に皺を刻んでいる左馬之助殿に目を向けた。
そろそろ時が来たようだ。
左馬之助殿にも覚悟を決めてもらう必要がある。
「勝てますか」
問うと、ひくりとその唇が引きつった。
果たしてこの情の厚い男に、弟の長綱を、甥である新九郎殿を討てるのか。
……いや、フェアな質問ではなかったな。孫九郎自身、仮に父や幸松と敵対することになったとしても、殺せはしないだろう。
「甲斐での揉め事。善之助の死。小原の動き……すべてが我ら今川を足止めするためだとしたら」
長綱殿の腹の内など想像したくもないが、予想はできる。
あの男は、生き残るためならどんな手でも使う。
「黙って引き下がるわけにはいきません」
孫九郎は、苦いものを飲み込んだような顔をしている左馬之助殿をじっと見つめてから、ぐっと唇をかみしめ、紅潮した顔をしている若い興津の当主に頷きかけた。
「喜之助は後詰めの統括を。佐兵衛は行軍に同行せよ」
事の次第がわかり次第、小田原攻めだ。
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