2-8 駿河 行軍初日 興津宿6
お雪の婚姻について覚えているのは、玉の輿に乗ったと奥女中たちがきゃあきゃあ言っていたことだ。
武士の婚姻は親が決める政略がほとんどだ。だが稀に、見染められて嫁ぐということもあって、お雪はその幸運に恵まれたのだと噂されていた。
お雪の実家の阿川家と小原家では家格がかなり違う。しかもすでに適齢期と呼ばれる年齢を過ぎてもいた。彼女にとっては、二度とない良縁だ。孫九郎を含め、誰もがそう思っていた。
書簡にかすかに付着した茶色いシミに目を落とす。
何があった。
有能な奥女中だった彼女の顔を思い出し、額に手を当てる。
もしこの縁談が、今川館の奥の情報を得るためのものだったら。お雪は婚家に尽くすのではなく、阿川の娘らしくそれに抗ったのだとすれば。
彼女は既に、生きていないのかもしれない。
「小原家の所領は庵原だったか?」
孫九郎のつぶやきに、あれやこれやと文句を言っていた勘助が眉間のしわを深くした。
いや、苦情を聞いていなかったわけではないぞ。そのうち楽に移動できる方法を考えてやるから、唯一の長所である頭を貸せ。
勘助は苦い表情のまま、「そうです」と頷いた。
「庵原」という名が、ことごとく嫌な印象でついてまわっている。
厳密な意味では、ここ興津も由比も庵原郡なのだが、今言っているのは、かつて今川家の譜代であり、伊豆でとぐろを巻いている坊主の生家である庵原家のことだ。
一つの地域にひとつの家門の領地があるわけではないので、奉行衆である小原家の所領が庵原にあってもおかしくはない。おかしくはないが……やはりどこまでも祟る。
お雪の書簡は、実家から連れて行った端の女が持ってきた。本当はすぐにも父阿川の手に渡るはずだったのだが、あいにくと甲斐に出征していて父も兄も不在だった。
端の女は文字も読めず、身分も低い。今川館に入ることもできず、途方に暮れていたところを八郎殿のところの女中が見かけて声を掛けた。
それを経由して勘助の手元に届くまで、女のいうことを信じるなら五日。
お雪がいつこの書簡を書いたのかはわからないが、五日以上も経っているのなら……。
孫九郎はそっと、血しぶきの飛んだ紙の上を撫でた。
「今後の心づもりは」
孫九郎の座った声に気づいたのだろう、勘助はしばらく返答に迷うように黙った。
視線を上げて、探るようにこちらを見ている片目の男の凝視を受け止める。
「わかっている。無策にお雪を助け出せとは言わぬ」
勘助はなおも疑っている様子でジロジロと孫九郎を見ていたが、やがて「そうですか」と頷いた。
「小原の動きを見張らせております。屋敷の中にも密偵を入れました。今のところ異常はないようです」
異常がない? それはつまり、お雪はもうそこにはいないのではないか。
想像したのは、すでに土の下に埋められてしまった彼女の姿だが、縁起でもないと首を振る。無事だと信じるしかない。
「動きがないということは、小原はこの密告に気づいていないのか?」
「それはわかりませぬ。何事もなかった振りをしているのかもしれませぬ」
疑われていると察し、すぐに証拠を隠して静かにしている可能性はある。
孫九郎は苛々と脇息を指で叩いた。コツコツと小さく爪をはじく音が、まるで時計の秒針の音のように響いた。
「つまり、こちらからは何もせず相手が動くのを待つということか」
「はい。思わぬ大物が連れる予感がいたします」
お雪を犠牲にしてか? そう口にしかけて黙った。勘助が意図してお雪を餌にしたわけではないからだ。
わかっている。何もしないということは、決死の告発をしたお雪を見殺しにするということだ。血しぶきの量から言っても、浅手ではない傷を負っているはずなのに。
だが、これまでモグラのように地面に潜っていた敵がようやく見せた尻尾を確実に掴みたい。
孫九郎が難しい顔をして黙っていると、ゴホンと勘助が咳ばらいをした。
何事かとそちらを見ると、勘助は何故か視線を横に向けていた。
「お雪殿を救い出す策がないわけではございませぬ」
しかもいつになく早口だ。
「阿川殿が前線で負傷。駿東まで下げられたと知らせを送るのはいかがでしょう」
お雪の兄からの急使であれば、疑われることもないだろう。直接手渡したいと言ってもおかしくない……とのこと。
孫九郎はまじまじと勘助を見た。孫九郎だけではない、その場にいた全員が驚愕の表情を顔に張り付けている。
この男が、誰かに配慮するのは非常に珍しいことだ。
「ですが、手傷を負わされたということは、小原家から疑われているわけですよね。移る病にかかっているとか、身籠っているとか、そういう言い訳をして使者に会わせないのでは」
そしてそれに水を刺したのは、若い真田次郎三郎。皆からの何とも言えない視線を受けて、きょとんと首を傾げている。
勘助は咳ばらいをした。
「それこそが、身にやましいことがあるという証だ。書簡に書かれている内容が真か否か、試金石になる」
ああなるほど。勘助はまだ、この書簡が本当にお雪が書いたものか疑っているのか。確かに、小原家を陥れる罠である可能性もないではない。
孫九郎は鳴らしていた指を止めた。部屋中の視線が再びこちらに戻ってくる。
一度そっと目を閉じて、開いた。
「勘助の意見は」
問うと、義足を投げ出してだらしなく座っていた男が居住まいを正した。
「……おそらくは、書簡に書かれている内容はまことでしょう。お雪殿は口封じされている可能性が濃厚」
ずきり、と胸の内に痛みが走った。
「書簡にもあります。命賭しても御屋形様への謀反を許すわけには参りませぬと。……流石は阿川家の娘です」
「お雪が謀反の内容を書かなかったのは、わざとか」
「詳細を書く間がなかったのではないでしょうか」
「知らせるだけで精いっぱいだったか」
孫九郎は、ぎゅっと手を拳に握った。
謀反か。
孫九郎がまだ若く、後継たる子もない故に、異母兄弟たちに根強い希望を持たせてしまっているのは理解している。
これまでたいした動きがなかったからと、油断していたわけではない。
大今川家が丸ごと手に入るチャンスがぶら下がっているのだ。表立ってはおとなしくしていても、内心では虎視眈々と機会をうかがっているのはわかっていた。
お雪はその先の策を聞いたか見たかしたのだろう。
「そうか」
孫九郎は静かに言った。
風通りが悪く蒸し暑い室内に、奇妙な緊張が落ちる。
「高富丸の件と、静山の件と……すべてにつながりがあると考えているのだな」
言っては何だが、謀反のたくらみなど今更なのだ。もう何年も追っているものもある。身体が不自由な勘助が、急いでこの距離を移動してきた理由としては浅い。
孫九郎の直感だよりの問いかけに、勘助の口角がくいっと上がった。




