1-2 駿河 賎機城1
「孫九郎殿」
捕虜というには暢気な表情で、相変わらず妙齢の美女を侍らせている男が笑う。
どれも夫持ち、かつ夫公認らしいので、これをハーレムと言っていいのかわからないが、適度につまんでどこからも恨みを買わないのは、もはや天性の才能だと思う。
左馬之助殿の負傷は、二年の間にすっかり回復している。身体がなまるからと鍛錬も欠かさない。よく食べよく運動し、ストレスもなさそうなので、むしろ二年前より体格が良くなっている。
「やあやあ、日に日に大きくなるではないか」
ニカッと陽気に笑いかけられ、孫九郎は仕方がない男だと苦笑した。
会ったのは三日前だぞ。さすがに三日で背丈は変わらない……と言いたいが、膝がひどく痛むので、一か月で数センチは伸びているのかもしれない。
「いつまでも子供ではいられませんからね」
「そうよなぁ。嫁とりも本番なのだろう?」
嫌な話題を振るなよ。
孫九郎が苦い表情をしたので、左馬之助殿は更に呵々と笑った。
「女の扱いなら何でも聞いてくれ……と言いたいところだが、孫九郎殿のお相手はどこぞの姫君ばかりだろうしなぁ」
「その話はいいです」
本当はよくない。だが、そんな話をしに来たわけではない。
左馬之助殿が合図をすると、左右に控えていた女たちが丁寧に頭を下げて下がって行った。
自身の指示が遂行されるのを白湯を飲んでのんびりと待つ。そんな仕草が至極当たり前のように身についている男だ。
孫九郎は、ますます男ぶりが上がった左馬之助殿から視線を動かし、広い部屋に残った者たちを一瞥した。
左馬之助殿の監視役の何人かと、端のほうですだれを下ろしていく女中が複数。それから孫九郎の側付きと護衛達だ。
堅苦しいが、左馬之助殿は北条殿の実弟であり、かつては敵将だった男なので、二人きりで話をすることはできない。
「来た理由はわかっている。これだろう」
やがて湯呑を置いた左馬之助殿が、ずっと膝の先に放り投げられていた書簡を顎で指し示した。
遠山の奥方であり、左馬之助殿にとっては叔母にあたる方からの書簡だろうに、随分と扱いが杜撰だ。
今川方に疑われないように、という配慮かもしれないが、なんとなくそれ以上に、嫌がっている雰囲気がした。
「先に言うておくが、これを書いたのは確かに叔母上だが、おそらく書かせたのは長綱だ」
一瞬にして、孫九郎の顔にも、同様の表情が浮かんだ。
三河を下してから二年。それは左馬之助殿を捕虜にしてからの年月でもあるし、小賢しい謀略を仕掛けてく長綱殿との暗闘の日々でもあった。
伊豆で楽しそうに承菊と遊んでいるうちはいいのだが、虎視眈々とこちらにも手を回してくる。
質が悪いのは、ボディーブローのように効いてくる搦手の策謀だ。
刺客? そんな単純なものではない。あの男のやり口は、ネチネチと陰険なのだ。
最近で一番腹が立ったのは、八郎殿の嫡男の乳母が北条からの間者だったことだ。
まだ幼い童子を、ひそかに洗脳し、あわよくば連れ出そうとしていた。
端の女中が気付いて、風通しがいい家風なので即座に露見したが、あれがもしあと数年遅れていれば、誘拐はともかくとして洗脳は取り返しがつかないことになっていただろう。
八郎殿も妙殿も激怒して、かえって北条家への敵意がたかまっているのは結果論。子供が極端な思想に染まり謀反でも起こしたら、上手く行こうが行くまいが悲劇的な結果になっていた。
左馬之助殿も、最初のうちは長綱の策謀がわかるたびに「すまない」と弱り切った顔をしていたが、最近は嫌悪の表情を隠さない。
そもそもそりの合う兄弟ではなかったが、この二年でますます隔意が広がったように思う。
孫九郎は彼らの感情の推移を、冷静に見極めていた。
八郎殿も左馬之助殿も北条殿の実弟だ。いくら彼らが「いい奴」だとしても、二人を内に抱えることがリスクだと考える者は少なくない。
だが、彼らを今川にとどまらせておくことは、すなわち北条に力をつけさせないことにもなる。
国を大きくすることは、その分新しい人材を抱えるということなのだ。いつまでも、古参の家臣ばかりで周りを固めておくわけにはいかない。
孫九郎は黙って書簡を手に取った。
しっとりとした手触りのいい紙だ。広げて、細やかで優し気な印象の仮名交じり文字に目を通す。
「叔母上は、どのような急ぎであろうとも、気候のあいさつから入る。内容も怪しい。叔母は身をわきまえた御方だ。このように……砕けた言葉は使わぬ」
左馬之助殿はそう言って、やや微妙な表情をした。……まあ、実の母親でないなら恋人からのような親し気な内容だからわからなくもない。
叔母といっても左馬之助殿とさほど年が変わらず、この年増キラーな男にほれ込んでいる可能性もないではないが。
ジロジロと見ていると、むっと唇を尖らせた。いい歳をしてそんな表情が似合うのも、この男ならではだ。
「違うからな」
釘刺してくるところが怪しいが、まあいい。
「北条殿が倒れたという話は本当でしょうか」
孫九郎は、肝心かなめの本題にはいった。
左馬之助殿とて、実際に見たわけではないから断言はできないはずだ。だが、この文脈から何かを読み取っているかもしれない。
「わからない」
左馬之助殿は、彼らしい率直な言葉で返してきた。
「これが長綱の罠だということもあり得る」
「家当主が卒中で倒れただなどと、そのような噂が広がる方が困るでしょう」
北条家の嫡男、新九郎殿は、まだ孫九郎と変わらぬ年頃だ。元服したという話も聞いていない。
家督を譲り受ける年齢として珍しいわけではないが、経験不足の若輩者と侮られ、他国に付け入る隙だとみなされる可能性は大いにある。
「そんなもの、ただの噂だと笑い飛ばせばいいだけだ」
左馬之助殿の口調は少し早かった。
兄、北条殿が倒れたなど信じたくない、ということか? 人のよいこの男のことだから、兄弟の情がまだあるのかもしれない。
孫九郎は、一刻も早く帰参し北条家を支えて欲しいと綴られた書簡に目を戻す。
すぐに手を打つべきだと思う。だが……いけないな。思いつく策はろくでもないものばかりだ。
「戻る気は?」
書簡を畳みながらそう問うと、左馬之助殿はぎゅっと鼻頭に皺を寄せた。
何よりも雄弁な表情だった。
兄弟間の確執から、戻りたくないと感じているのはわかる。
だがこの男の家族や家臣らはまだ北条方にいるのだ。本当にそれでいいのか?
「失礼いたします」
おっとりとした女性の声がすだれの向こうから聞こえた。
やがて目を引く上品な所作で部屋に入ってきたのは、さきほど左馬之助殿に寄り添っていた女衆のひとりだ。
空になった湯呑を引き取りに来たようだが、一瞬、二人の視線が色をもって交わるのを目にした。
……帰りたくないのは、鼻の下と羽を伸ばしたいからじゃないだろうな?