2-6 駿河 行軍初日 興津宿4
夜までに捕縛された商人たちを連れてくると言って、興津のふたりは清水へ戻った。
それをのんびり風呂に浸かって待つ予定だったのに、湯が用意される前に戻ってきやがった。
ボタン一つで湯張りができるわけでないのはわかっていたが、まさか二刻もかかるとは。
同時に支度が整ったと聞き、湯を優先させたくなる気分をぐっとこらえた。
善之助の事を問いたださなければならないのだ。暢気に風呂に入っている場合ではない。
「御屋形様は長風呂ですから」
聞こえているぞ! 藤次郎。次郎三郎も頷くな。
泣く泣く諦めた。その気持ちが顔に出ていたのだろう。清水湊と興津宿間を一往復半した興津衆は、孫九郎を見るなり不安そうな顔をする。
北側の薄暗い室内は、広めだが上等な部屋とは言えず、風の通りも悪かった。
板間は傷が多く調度品もほとんどない。
唯一、この薄暗さを照らすための行灯が部屋の隅に置かれていて、顔に青あざをつけた土井が真剣な表情で蝋燭に火をつけていた。
土井を殴ったのは谷だ。どこに行っていたと問われて川魚を見せた土井に、谷は瞬間湯沸かし器のように激怒した。
土井は極めて巧妙に、孫九郎の為に魚を取りに行くよう誘導されていて、本人も責められるまでそれに気づいていなかったようだ。
本人はかなりへこんでいるが、孫九郎の口から言うことはない。叱るのは他の者たちに任せよう。晩飯に魚が出てくるのだろうし。
風呂に入れなかった未練を、川魚の塩焼きを想像することで紛らわせ、いやこれが終わったら、少し冷めているだろうが湯に入るのだと意気込む。
ということで、やるべきことはさっさと済ませるに限る。
「そちが井高屋か」
足早に部屋に入り、商人の傍についている興津衆が反応するより早く、孫九郎は言った。
善之助殺しの容疑者ではあるが、確定したわけではない。故に縄を掛けられず連れてこられていて、そのせいもあるのだろう、尊大な顔を隠さず不満たらたらだ。
だがしかし、出てきた相手の若さに驚いた様子でパカリと口を開けた。
背後で見張っていた興津衆が、慌てた様子で商人たちの頭を下げさせるが、あれほど不遜な態度だったのに素直にされるがまま、ゴンと額を床にぶつけている。
特に、この中で一番いい着物を着ている商人の男が、動揺した様子で視線を揺らしたのを見過ごしはしない。孫九郎が誰だか気づいたのだろう。
年齢よりもいくつか年下に見えるのは自覚している。着物も小姓に紛れることが出来る程度のものだ。譜代あるいは有力国人領主の嫡男だと思ってもおかしくはないのに、あの顔色。
孫九郎を見知っているか、あるいは孫九郎がよく似ていた先代の顔を知っていたか。
孫九郎は小さく首を傾け、無理やり頭を下げさせられた商人と、商船の船長と、残りの数人を眺めた。
この中に、左馬之助殿を襲った者はいないと聞いている。清水への侵入を試み次第捕えるよう、勘助に対処を任せてある。孫九郎を相手にするよりは厳しいことになるはずだ。
「お、恐れながら申し上げます!」
観察する十秒ほどの沈黙すら耐えかねた様子で、商人の男が声を張った。後頭部を岡部衆の一人に押さえつけられ、床に額をつけたままの姿勢で。
「何故にこのような不当な真似を! あんまりやないですか!」
佐吉とは微妙に違う京訛り。
「我らには疚しいことなどありはしませぬ!」
「それは近江の訛りか?」
孫九郎は気になったことを問いかけただけだが、商人はぎょっとしたように言葉を飲んだ。
ダウト。小太郎の情報も、あながち間違いではないようだ。
だが、孫九郎の護衛のような顔をして側に座っている左馬之助殿には反応しない。北条の御用商人ともあろう者が、北条殿の実弟がわからないということがあるのだろうか。
百歩譲って、これまで単に会う機会がなかっただけかもしれない。例えば、普段は堺にいて、番頭などが行き来しているとか。
……だが何故か、とっさに妙なものを連想してしまった。
孫九郎がこれから訪れようとした先の女性の顔だ。
左馬之助殿の顔を知らず、孫九郎を知っている。そして北条家にゆかりのある商人。
じっと見つめ続けていると、商人は額を床に押し当てたままダラダラと冷や汗を流し始めた。
もし孫九郎の直感が正しいのなら、小太郎がそのことに気づいていなかったはずはない。わざと言わなかったのなら、文句のひとつも言ってやりたい。……それとも、何か別のことを示唆しようとしたのか?
「どうした、ひどい汗ではないか。誰か、手ぬぐいを」
「いっ、いえ!」
井高屋は文字通り飛び上がった。
いつの間にか真後ろに男がいて、その白い手を肩に乗せられたからだ。
「おや、せっかく手ぬぐいをお貸ししようと思うておりましたのに」
孫九郎にとっては、日常的によく聞く聞き慣れた声だ。
だが、井高屋は腰を抜かしたように青ざめ、怯えた顔でその男を振り仰いでいる。
「気配を殺して近づけば誰でも驚く」
孫九郎は呆れて肩を竦め、旅装も解かずに現れた男を手招いた。
「どうしてここに?」
呼んだのは勘助だけで、しかも清水湊にだ。今頃はブツブツと文句を言いながらも、商船の中をしらべているだろうか。
相変わらず病的に色白な男は、にっと薄い唇の両端を引き上げた。
「仕事にひと段落付きました故に、我ら兄弟もお手伝いをと」
なんだ、田所兄弟が二人してきたのか。相変わらず仕事熱心な奴らだ。
「ならばこの者たちの尋問を……」
言いかけた言葉は、ドシン、ドシンと乱暴に床を叩きつけるような重い音にさえぎられた。
聞き間違いようがない。勘助の義足の音だ。
清水湊に行けと命じたはずだが、何故ここにいる?
疑問が言葉になる前に、ガン! と柱を蹴飛ばしたような大きな音がした。
「……ひっ」
そう声を上げたのは、それまでおとなしく口を閉ざしていた井高屋の連れたちだ。
気持ちはわかる。
現れた勘助は、まるで幽鬼のように殺気立ち、いまにもこちらに襲い掛かってきそうな雰囲気だったからだ。
顔が土気色をしている。食いしばった歯の隙間から、ギリギリと臼歯を擦る音と、ヒュウヒュウと息が漏れる音がする。片方だけの目にあるのはどう見ても殺気。傷だらけの顔が、尋常なく激怒に歪んでいる。
……怖いって!
湯釜がないにせよ四時間はかかりすぎなので、何かトラブルがあったのでしょう




