2-4 駿河 行軍初日 興津宿2
何故そう断言できるのか。
無言の問いかけに、両手を床についていた興津の男が身体を起こし、居住まいを正した。
そして強い口調で言ったのは、証拠というには弱いが、疑うのも無理はない内容だった。
堺衆と名乗る商人はともかくとして、その随員の訛りがどうにも関東風だということ。清水湊に商船をつけてから、船員たちを下船させ、明らかに情報収集と思われる動きをしていること。
そして極めつけは、善之助を酒宴に誘った口実が、彼の旧主の名を使ってのものだったということだ。
「兄はかつて、北条がまだ伊勢を名乗っていた頃に、短い間ですがそのもとにおりました。伊勢家が伊豆に落ち着くころには袂を分かっておりますが」
その当時は、知人の商人とやらはそれほど大きな商いをしていたわけではなく、今川と伊勢の軍を相手に細々と行商をしていたのだそうだ。
「つまりは、その商人は古い知人だったということか?」
「はい」
善之助の弟は険しい表情で頷いた。
「兄は、多少なりとも危機感があったのでしょう。某にそのことを告げてから出かけました。それでも信頼もしていたのでしょう。だまし討ちのようなことはせぬと」
状況的には、その知人とやらが善之助を殺した可能性が高い。
だが、絶対にそうだとは言い切れない。
疑われるとわかっていて、善之助を生きたまま逃すだろうか。いや逃がしたのではなく逃げられたのかもしないが。
そして何故、善之助の弟はその者が左馬之助殿を連れ出そうとしていると断言できるのか。北条とのつながりだけでは弱い。
孫九郎はするりと顎を撫でた。まだ髭の気配もないつるつるの顎だ。
「清水湊の状況は?」
若干掠れた声でそう問いかけると、善之助の弟はぐっと唇を引き締め一礼した。
「興津の兵で湊を封鎖しております。陸路であろうが海路であろうが、鼠一匹逃しませぬ」
その声は、どこか懐かしい響きがした。
見た目は全く違うのに、どうにも曳馬城主の興津を思い出してしまうのは、声が似ているからだ。
記憶の中の興津を懐かしみながら、孫九郎はひとつ、頷いた。
こういうことは、当の本人に聞くのが一番良い。興津らは知らないだろうが、この宿にいるのだ。
「呼んでまいれ」
思案しながらの孫九郎の指示に、土井が丁寧に頭を下げた。
左馬之助殿はすぐには来なかった。昼間から酒を飲んでいたからだ。
四半刻待たされたのは、身支度と、少しでも酔いを醒ますためだったそうだ。
また何処かの女を引っ張り込んだんじゃないだろうな。そんなうがった目で睨むと、酒臭い口を押えながら首を振った。
「たしなむ程度だ。ほんの一杯だ」
だったら酔い覚ましの必要もなかったはずだが。
四方八方から冷やかな目で見られて、左馬之助殿は分厚い身体を縮めた。
孫九郎は脇息に肘を置いて、パチパチと扇子を鳴らした。その度にびくびくする男が、清水湊の一件にかかわっていたようには見えないが……。
いや、ことはそう簡単ではない。
左馬之助殿は『憎めないいい奴』だが、北条家にはあの男がいて、戦力確保のために左馬之助殿を取り戻す画策をしていてもおかしくはないのだ。
清水湊の事件も、その一端かもしれない。
孫九郎は、つらつらと言い訳をする左馬之助殿を尻目に、興津の二人に視線を戻した。
当の本人がここにいるとは思っていなかったのだろう、ともに目を大きく見開き、佐兵衛は真っ青、その叔父のほうは真反対に真っ赤な顔をしている。
左馬之助殿も彼らの存在に気づいたようで、情けなく眉を八の字にしたまま、今にもつかみかからんばかりの形相の男をちらりと見る。
孫九郎は、パシリ、と扇子を閉ざした。
ひときわ大きく鋭いその音に、左馬之助殿も興津らもはっとこちらに目を向けた。
「左馬之助殿、ここに来るまでに足止めがあったそうですね」
「うっ」
孫九郎の強めのその問いかけに、左馬之助殿はさっと口を手で塞いだ。
「……っ、ああ。十人程度なんということはない」
咳払いで誤魔化したが、ゲップをしたのがバレバレだぞ。
ますます周囲の目は冷ややかになる。いくら真面目な顔をしてみせても、酒の匂いで台無しだ。
孫九郎は左馬之助殿の背後に控える監視兼護衛の男に目を向けた。
左馬之助殿に長く同じ者をつけると、すっかり仲良くなってしまうのだ。案の定、気がかりそうな表情でちらちらと酔っ払いを見ている。……そんなに心配なら昼間から飲ませるなよ。
「刺客か? それとも接触をはかったか」
孫九郎の問いかけに、監視兼護衛は背筋を伸ばした。
「親し気に話しかけてきましたが、左馬之助様はお聞きになりませんでした」
「それは、接触しようとしたとみていいのか?」
「……どうでしょう。二言三言で切りかかってきましたので、油断をあおったものとばかり」
どうとでもとれる内容だった。わざとそういう芝居をしたというようにも見える。
興津らはそうに違いないと思っているようで、ますます目つきを悪くしたが、孫九郎は左馬之助という男を知っているだけに、それもまた長綱の策なのだろうとうんざりした。
「その者たちはどうなった。始末したか、逃したか」
「何人かは逃しましたが、こちらも先を急いでおりましたので……」
うんうんと頷く左馬之助殿に、たくらみがあるようには見えない。
孫九郎は長く息を吐いた。いろいろと面倒になって、コンコンと扇子の先で床を叩いた。
「聞いておるのだろう、小太郎。仔細を話せ」
「さようにお声を掛けられては困ります」
そう言ったのは……えっ、土井? 孫九郎を含め、誰もが土井だと思っていた男の口から聞こえたのは、よく知る声ではなかった。
ぎょっとした谷が片膝を立て、刀に手を掛ける。そのほかの護衛達も一拍置いてすぐに腰を浮かせる。
まだ小柄な孫九郎の視界を塞いだのは、藤次郎の背中だった。
「何者! おのれ土井殿ではないな!」
「待て」
孫九郎はいきり立つ藤次郎の肩に手を乗せた。
風魔小太郎の次代だ。腕利きの忍びだというのはわかっていた。
誰にも気づかせず、よく知る者に成り代われるほどだとは思わなかったが。
藤次郎が渋々とわきによけ、孫九郎は少なく見積もっても二十近い刀を突き付けられている『土井もどき』をまじまじと見つめた。
こうやって見ると、うり二つというわけではない。いや、似ている気もするが、別人だとはっきりわかる。
「よもや土井に危害を加えてはおらぬだろうな」
孫九郎の問いかけに、『土井もどき』はにこりと、本物を彷彿とさせる笑みを浮かべた。
「もちろんでございます。四半刻もせぬうちに戻られます」
「ならばよい」
「良くなどありませぬ!」
藤次郎が怒声のような声でそう叫び、側付き護衛小姓も含めて全員が険しい表情で頷いた。
ところで……どうして左馬之助殿まで頷いているのかな。
風魔小太郎はお前の忍びだろう。
弥太郎はもちろん気づいていて、ピッタリ真後ろに控えています




