2-3 駿河 行軍初日 興津宿1
軍勢が止まったのは、まだ昼間と言ってもいい時間帯だった。
目的地まで数日かかる距離の場合、当たり前のことだが道中で何度か夜を挟む必要があり、軍の規模が大きければ大きいほど、余裕をもった行程が組まれる。
今回は渡川がいくつかあるので、余計にその時間を多めに取っていて、宿泊地に到着したのはかなり早い時間だった。
これだけの規模の軍になると、全員が宿に泊まるわけにはいかず、雑兵などは軽い雨よけだけの野宿が主。武士でも農家の軒先を借りる程度の場合が多い。
もちろん孫九郎はそんなことはなく、宿場町の一番いい宿屋を一棟丸ごと借り上げ、そこを本陣とした。
うれしいことに、その宿屋には風呂があった。ヒノキの風呂だ。
温泉地でもないこの場所で、風呂釜でもなく四角い木製のヒノキ風呂が用意されているというのは、紛れもなく風呂好き孫九郎への特別な配慮だった。
もちろん上下水の設備などないので、沸かした湯を手で運び、残り湯は手で外に出さなければならない。現代でいうところの広めの洋風呂程度のサイズだが、何もかも人力だと思えばかなりの贅沢だ。
「この程度で贅沢などとおっしゃらないでください」
ワクワクと目を輝かせた孫九郎を見て、藤次郎がため息をつく。
「漆塗りの湯舟を用意いたしましょうか。行軍中は常に運ばせましょう」
「いやそれは」
「御屋形様」
自分だけ携帯風呂を持ち運ぶなど恥ずかしい。そう言おうとしたところで、土井が声を掛けてきた。
湯舟を置いた室内は足元が川砂利になっていて、近づいてくる足音は木の床よりはっきりとわかる。振り返ると、護衛とは別の馬廻りが二人、土井の傍で片膝をついていた。
すっと藤次郎の表情が険しくなった。
孫九郎は小さく息を吐き、ワクワクお風呂タイムが先延ばしになるのを受け入れた。
てっきり左馬之助殿が早めに来たのかと思っていたが、違った。
『お客』は興津の若い当主佐兵衛と、その側近だった。
ここは興津家の領内なので、彼らが挨拶にくるのはおかしなことではない。だが平伏したままの二人を目にして、良くない事が起こっていると察した。
つい三日前ほどに話をしたときとはまるで違うその様子に、事の深刻さを察して周囲に目配せをする。
「叔父が死にました」
人払いが済んで直後、佐兵衛の震える声がそう言った。言われた瞬間、脳裏に思い浮かんだのは曳馬城主だった興津だが、あいつが死んだのはもう四年も前だ。
『死』というワードは身近になっても、慣れることはない。孫九郎は顔を伏せている佐兵衛の髷を瞬きもせず見据えた。
「……善之助か」
「はい」
清水湊を任せていた、仕事のできる男だった。佐兵衛の実母である里殿を、熱烈なアプローチの末射止めたと聞いている。
会話をしていても頭が良いことがわかる、控えめだが芯のある男で、今川家にとって重要な湊を総括するのにふさわしい有能さだった。
気丈にふるまう里殿の顔を思い出す。それでは彼女は、二人続けて夫を失うことになったのか。
みぞおちあたりがぎゅうと引き絞られ、喉の奥に重いものが詰まって息が乱れた。
病気だったという話は聞いていない。事故か? あるいは……何者かの手にかかったか。
動揺に声が乱れないよう深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「いつのことだ」
孫九郎のその問いかけに、佐兵衛が「うっ」と嗚咽のような声を漏らす。
「今朝がた重傷を負った状態で見つかり、そのまま意識が戻らず先ほど……」
答えたのは、側近の男だ。
孫九郎は、一度か二度見た覚えのあるその男に視線を向けて、無言で続きを促した。
「昨日から清水湊に大きな商船が泊まっており、兄善之助はその商人より酒宴に招かれておりました」
「どこの商人か」
「堺です」
なんでも、外洋向けの大きな船らしく、そのような船を持つ商人といえば堺衆だとしか思えず、疑うことなく招きに応じたようだ。
善之助が無残な有様で見つかったのち、清水湊の者たちは、その商人に事情を聴こうとしたのだが、知らぬ存ぜぬ、善之助は夕べ早いうちに帰ったと言い張っているとか。
状況的には怪しいが、証拠がない。
善之助の付き添いや護衛なども行方が分からなくなっているので、何が起こったのかいまだにわかっていない状況。
ひと通り話を聞いてから、孫九郎は目を閉じた。ゆっくり十数えて、心の中の乱れを抑える。
「……里殿はどうしている?」
はっと息を飲んだのは息子である佐兵衛だ。顔をあげて、真っ赤な目で孫九郎を見た。
「どうした。まさか里殿まで」
「いえ。母は無事でございます。某の妻がもうすぐ産み月を迎えるので、その付き添いで興津の里のほうにおりました」
志半ばで死ぬ者もいれば、新たに生まれてくる者もいる。それは里殿にとっては、大きな救いになるだろう。
「わかった。後は引き継ぐ」
佐兵衛は涙の幕の張った目をしばたかせ、強く首を振った。
「興津家にとっても、このままにはしておれませぬ!」
「勘助に任せる。興津家は協力して調べに手を尽くせ」
「いいえ! いいえ!」
「申し上げます」
うまく言葉が出てこない佐兵衛に代わって、側近だと思っていたが、喜之助の弟ということは遠縁の叔父にあたるのだろう男が冷静な口調で言った。
「どうしても御屋形様のお耳に入れておきたいことがございます」
喜之助にはあまり似ていない興津家の男は、両手を床についたまま、まっすぐに孫九郎を見上げた。
「これは北条左馬之助様を逃がすための策だと思われます」
その口調は強く、確信に満ちていた。




