1-12 駿河 逢坂邸
孫九郎を見て起き上がろうとしたので手で制した。
「具合はどうだ?」
そっと声を掛けると、「皆大げさなのです」と返ってくる。
声は意外としっかりしていたが、薄暗い病室で横たわるその姿に胸が詰まった。
逢坂は、初対面の頃から老齢の域に達していたが、年々寝込む日が増えてきた。重い鎧兜をまとい、さっそうと馬を駆っていた姿を知っているだけに、切なくなる。
「ご出陣なさるとか」
当たり障りのない見舞いの言葉を口にしようとして、食い気味に返された。
「そうだな。だが、たいして大きな戦にはならぬ」
「御屋形様」
逢坂老の口調が鋭くなり、思わず背筋が伸びた。
助けを求めて視線を泳がせたが、人払いをしていたので誰もいない。
「どのような時にもご油断なさいませぬよう」
「わかっている」
再び起き上がろうとしたので止めようとしたが、逆にぐっと腕を掴まれた。強い力だ。
仕方がないので座位になるのを助け、掛けられていた小袖を肩に乗せる。触れてわかる逢坂の細さに、やはり何かよくない病気なのではと不安になった。
「食べておるのか? 随分と痩せたな」
「小田原の魚が食いとうございます」
「魚か」
生鮮を運べる季節ではない。塩漬けか干物ならまあ。
だが一瞬後、引っかけられたことに気づいた。まだ北条攻めの話は広まっていないはずだ。
こんな話をしに来たわけではない。気まずくなって咳払いすると、逢坂は懐かしい声で笑った。
「ご油断なさいませぬよう」
「……そうしよう」
ひとしきり世間話のようなことをして、ついでに建前の本題である逢坂家の馬場のことを話す。あくまでも見舞いなので、難しい話はしない。そのつもりだったのだが……。
「左馬之助殿が?」
「はい」
渦中の人物の名が出てきたので、思わず問い返す。
逢坂老はじっとこちらを見上げて、首を上下させた。
「それで、譲ったのか?」
「まさか。いくら大金をつまれましょうとも、逢坂家は福島家と御屋形様の許しなくそのようなことは致しません」
二年前から逢坂家の馬場に出入りしていた左馬之助殿が、父の愛馬である花房や黒王の血統の馬を欲しがっているそうなのだ。
体格の良い父には乗れる馬が少なく、海外から体格の良い馬を輸入してその血筋を増やしてきた。最近ぐっと筋肉量が増えてきた左馬之助殿も、大きな馬が欲しくなったのだろう。
この時代の馬、とくに軍馬は、現代でいうところの高級車のようなものだ。武士ならば優れた馬を望むのは当たり前ともいえるだが左馬之助殿の場合は……
「それだけか?」
逢坂老は気まずそうな顔をして、この男らしくなく少し目をそらした。
「逢坂」
促しても口ごもっているところを見るに……まさかあの男、逢坂家の女に手を出したんじゃないだろうな。
さすがにこれは看過できないぞ。
違う! と言いたげに何度も首を左右に振る。
孫九郎は両腕を組み、そんな左馬之助殿を冷やかに見下ろす。
ぎっくり腰で寝込んでいた逢坂老から聞き出したのは、孫九郎よりも年下の孫娘が左馬之助殿に惚れ込んでいるということだ。
年増の女衆キラーな男が、宗旨替えをしたのかと問い詰めると、当の本人は必死で否定した。
娘より年下を相手にするつもりはないそうだが……どうだか。
「頼むから信じてくれ!」
「あらあら」という表情の女中たちを左右に従え、冷や汗を浮かべながら言い訳を繰り返す左馬之助殿。
男らしい眉は情けなく垂れ下がり、言い訳は次第に懇願に変わっていったが、ここでかわいそうだと思ってはいけない。
「監督不行き届きです。小田原のご正室に詫び状を書かねばなりません」
「そ、それだけはっ!」
遠く離れた場所にいる妻子がそれほど恐ろしいのだろうか。北条殿や長綱殿の話題の時よりも狼狽している。
そもそもそんな顔をするなら、鼻の下を伸ばさなければよいのに。
今度ばかりはしっかり釘を刺しておくべきと、険しい表情で口を開こうとして、ふっと視界の端に違和感を覚えた。
それが何か、すぐにはわからなかった。
視線をあらぬ方向に向けて訝しむ表情をした孫九郎につられて、左馬之助殿も首を巡らせてそちらを見た。
先に気づいたのは孫九郎だが、先に動いたのは左馬之助殿だった。
肩の高さまで上げていた両手を伸ばして、孫九郎をその場で庇ったのだ。
鋼が差し込む陽光を反射して、ぬるりと光った。
その軌道は左馬之助殿の背中には届かず、軽く着物の袖をかすめた。
床に落ちた短刀はグルグルと数回回転し、投げた女中のほうに切っ先を向けて止まる。
「は、放せ!」
甲高いその声には聞き覚えがあった。
孫九郎は、谷に腕をねじられ組み伏せられている女中をまじまじと見つめた。
正直なところ、命を狙われるのは日常茶飯事、もはや珍しいことではない。
孫九郎の目に届くところまで来るのは稀だが、それ以外の場所で処理されている件数を合わせると、むしろ増えているだろう。
だがこれまでの刺客たちは、身元につながる大きな手掛かりを残すことはなかった。
それはそうだ。警備が厳重な孫九郎を殺すためには、プロの手を借りて幾度もチャレンジするしかないからだ。
だがこの女は違う。
「……妙なところで会うな」
孫九郎がそう言うと、女ははっとしたように口を閉ざし、顔を伏せた。
何年経とうが忘れるはずはない。彼女はかつて、桃源院さまの側近として側に侍っていた女房殿だ。
……きな臭くなってきたぞ。
ぎっくり腰ですw




