1-11 駿河 今川館2-8
ただのつぶやきを曲解し、大騒ぎした連中はすぐに解散させた。
あっさり引き上げるところを見るに、悪乗りだったのか……いや違うな。孫九郎がそうしないだろうとわかってはいたが、本心ではそれを望んでいるのだ。
家臣の総意はそれとなく察していたが、ここまで強いものだとは思っていなかった。
文官たちまでいたな。戦働きで武功を上げることはないのに、随分と前のめりだった。
戦などないほうがいい。孫九郎のそういう考えこそが武士として異端なのだ。
「……今日明日というわけにはいかぬ」
渋々と、本当に渋々とそういうと、ずうずうしくその場に残っていた勘助が盛大に鼻を鳴らした。
「おそれながら、支度は既に整っております」
「なんだと」
「御屋形様がいつその気になってもいいように」
孫九郎は軽くのけ反り、義足を投げ出して座っている勘助をまじまじと見た。
「すぐにも動かせる兵を駿東に。兵糧なども潤沢です」
しれっとそう答えた隻眼の男は、「文句があるなら言え」とばかりに顎を上げて、まっすぐにこちらを見据えた。
すなわちそれは、勝手に兵を動かし、戦の支度をしたということだ。
いったいいつから? まさか二年前からとは言わないよな?
問い詰めたい気持ちはあったが、答えが恐ろしくて言葉に詰まった。
勘助は、孫九郎のそんな逡巡を見越したかのように、引きつれのある唇の両端を引き上げた。
「御下知ひとつ頂ければ、小田原を今川家の支城にしてみせましょう」
勝手をしたというのに、悪びれる様子はない。実際に悪いとも思っていないのだろう。
改めて、目の前にいるのが名軍師と呼ばれる山本勘助なのだと実感した。
こいつの子供か孫か、はたまた同姓同名の別人かもしれないというかすかな期待は捨てた。
こんな男が他に何人もいてたまるものか。
「勘助」
孫九郎は真顔のまま、女子供からは目を背けられるのだろう傷だらけの顔を見つめた。
これは己のミスだ。手綱の退き具合が甘かったようだ。
最善を尽くすべきではあるが、最短を目指しているわけではない。
勘助はそんな孫九郎の方針をわかっていて、あえて『コソコソやった』のだ。
「勝手を許すつもりはない」
それまでは普段通りの雰囲気だった執務室の空気が、一気に引き締まった。
側付きや小姓たちは背筋を伸ばして固まっているし、護衛は息すら止めていそうだ。
だが勘助だけは、粘着味を感じるどす黒い笑みを浮かべた。
「もちろんでございます」
勘助がどういう男かなど、わかっていたことだ。元は敵将だった。結果の為の手段を択ばず、悪名をもものともしない。
今回のことも、必要だと思うからやったのだ。是が非かではなく。
孫九郎は溜息をついた。
試されている。常にもまして強くそう感じる。
ここで勘助を強く叱責して、権限を取り上げるのは簡単だ。だがそれをして、この男が今川を見限ったら? こんな扱いにくい男を受け入れる家門があるとは思えないが、敵に回る可能性を考えただけで鳥肌が立つ。
「承菊にも言うたが、二度までは許す。三度目はない」
ようやくそれだけの言葉をひねり出すと、勘助はわざとらしく心外の表情を浮かべた。
そんな顔をしても駄目だからな。咎められるとわかっているから内密に動いていたのだろう。
強い敵対心がある国の存在は、確かに懸案事項だ。
そのために兵を用意しておく必要があるのなら、孫九郎にそう告げておくべきだった。
わかっている。勘助はその兵が、肝心な時に他の用件で使われることを懸念したのだろう。たとえば、今回の甲斐の問題のような。
揉め事はえてして、同時進行で起こるものなのだ。
「北条殿の容体は結局のところどうなのだろうな。復帰はないものと思っても良いのか。もしそうなら嫡男はどう動くか」
「地味だと噂のご嫡男ですな」
何事もなかった表情で頷く勘助をジロリと睨む。
地味とか言ってやるな。孫九郎が派手にやらかしてきたせいで、比較される世代は総じて地味呼ばわりされている。
だがおそらく、才能や能力的なものはそう変わらない、あるいは孫九郎のほうが劣るだろう。比較される方は不服なはずだ。
「まだ元服するかせぬかの年頃だ。評価がつくのはこれからだろう。すぐれた将になるやもしれぬ」
「御屋形様に言われとうはないでしょうな」
なんでだよ。
「嫌味にしか聞こえませぬ」
孫九郎は顔をしかめて周囲を見回したが、その場にいる誰もが「うんうん」と頷いている。
「いずれ名将になるのであろうとも、今はまだ経験不足。我らが気にするべきは長綱殿でしょう」
「それはもちろんそうだ」
いまいち納得できないが、長綱殿の顔を思い出して頷いた。
「だが若いからと甘く見るべきではない」
口ではそう言いつつも、童顔僧侶にいいように操られている姿しか想像できない。
「しばらくは、長綱殿が北条を動かすと思うておく方がよろしいかと」
……今、特大級の副音声が聞こえたぞ。
はっとして見返すと、勘助の隻眼がギロリと光った。
気のせいではない。傍らの藤次郎までもが身をこわばらせている。
そうか……そこが付け入る隙か。
家門が大きければ大きいほど、その世代交代はリスクになる。
他ならぬ今川家でもそうだ。先代は、過酷な後継争いの末に今川家を継いだ。孫九郎も、当主の座に就くまでにかなりの波風が立った。
孫九郎はトントンと脇息を指で叩き、ちらりと目を庭先に向けた。
左馬之助殿はどう動くだろう。
北条攻めの方針は、そこを確かめてからにするべきだ。




