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夏颯記  作者:
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1-1 駿河 今川館1

 日差しが強い。

 孫九郎は手で庇をつくり、薄く雲の張った空を見上げた。

 上空で猛禽が大きく円を描き滑空している。

 かつては飛行機に乗って、それより高い世界を旅したこともあるが、今となっては地面に足をつけて見上げるしかすべはない。

 空は変わらずそこにあるのに、見回せば何もかもが違う。

 時に望郷の念をもって思い出し、ため息のひとつもこぼしたくなるが、忙しない日々こそが今の現実だった。

「御屋形様」

 声を掛けられて振り返る。

 随分と目線が近くなった弥太郎が、にこやかに薬湯の湯呑を掲げて控えている。

「最近は随分とゆっくりですね。お疲れなのでは」

 それはなんだ。寝坊しすぎだと言いたいのか?

 この時代の人間は総じて早起きだ。日の出の時刻が基準になっていて、明け六つと呼ばれるのだが、おそらく現代だと五時前だろう。四時台かもしれない。

 夜遅くまで書類と格闘することが多いので、流石に五時前起きはきつい。卯の刻(五時から七時)のうちに起きているのだから勘弁してほしい。

 促されて濡れ縁に座り、薬湯をすすった。

 慣れた苦みが身体にしみわたる。不思議なもので、決して美味いわけではないのに、これがないと不調を感じるぐらいだ。

「昼からお出かけになられるそうですが、少し不安なことがあります。馬周りとも相談いたしますが、時間をずらせてもよろしいでしょうか」

「不安?」

 発した声がうまく出せない。つっかえたように掠れている。

 孫九郎は顔をしかめ、片手で喉をさすった。

 風邪ではない。多分声変わりだと思う。最近急に背も伸び始めて、ようやく待ちに待った成長期が来たのだろう。

 福島系の血統は長身ぞろいだし、実父たる先代御屋形様も背が高い方だった。ポテンシャル的に、大きくなれる要素はあると思う。実に楽しみだ。

 喉のつっかえを薬湯で流し、改めて咳払いをひとつ。

「何があった?」

 孫九郎のお抱え薬師のような顔をしている弥太郎だが、実際は忍びである。

 最近は今川家の忍びの総元締めの地位にいて、特に孫九郎の警備関係については馬廻り頭についた谷と並んで詳細を知る立場だ。

 弥太郎は軽く頭を下げてから、空になった湯呑を引き取る体で身を寄せてきた。

「北条が大敗」

 よほど近くないと聞き取れないほどの小声だが、孫九郎の心臓を強く脈打たせた。

 風魔が去り、左馬之助殿も不在の北条は、案の定ぱっとしないどころではなく、要の戦力を欠いた状態でうまくいっていない。

 伊豆を完全に失って二年。それ以後は、なんとか体裁だけは崩さずにいたが、張子の虎も限界だったのだろう。

 最近、攻められる頻度が増したと聞くし、ついに陥落といったところか。

「まだ小田原は保持しています」

「まだ? ……いや、江戸攻め中ではなかったか?」

「途中でご当主が卒中を起こしたそうです」

 北条が危機的状況だということはわかった。それと孫九郎の警備とはどう関係する?

 小首を傾げて考えていると、湯呑を盆の上に置いた弥太郎がニコリとほほ笑んだ。

「左馬之助様に忍びが接触したようです」

 ものすごい笑顔だった。この男のこういう表情には要注意だ。

 風魔は去ったと聞いているが、まだ幾人かは残っているはずだ。そのうちのひとりが賎機城に来たのだろうか。

 左馬之助殿は北条家当主の実弟で、先の伊豆戦で捕虜にしたのだが、今は少数の兵を預けて今川館から徒歩で四半刻の距離にある賎機城にいる。療養と監視を兼ねての距離だが、忍びが出入りしているとなると弥太郎なら気にするだろう。

「小田原にいるご家族からの知らせか?」

「……それが」

 一応は困惑したような声色だが、ニコニコと上機嫌そうな笑顔が台無しにしている。困惑を装いたいのなら真顔ぐらい作れよ。

「遠山家の奥方様からです」

「遠山? 遠山というのはあの遠山か?」

 京で知己を得た馬之助殿の忠臣。もともとは北条家の家老職であり、風魔ら忍びを使っていた男だ。伊豆戦より前に死んだと聞いていたが……

 とっさに頭に過ったのは、相変わらずのモテ男の顔だ。隙あれば女の尻を撫でているあいつなら、遠山の奥方と……いやいやまさかな。

「桃源院さまの妹君にあたられます」

「……えっ」

「桃源院さまの妹君です」

 二度も言わないでほしい。

 孫九郎はまじまじと弥太郎の顔を見つめた。

 桃源院さまの妹ということは、左馬之助殿の叔母。孫九郎にとっての大叔母にあたる。


 三河での戦から二年が経った。

 もっと戦線が拡大し、大きな炎になる可能性はあったのだが、地震がすべての動きを止めた。

 震源は三河ではなく、もっと北のほうだと思う。畿内よりも東側の、丁度尾張かその上あたりだろう。

 三河の被害はそれなりで、駿河のほうは微震だった。

 野心があるなら一気に北に攻め込むことはできたし、もっと多くの土地を、うまくやれば国をもかすめ取ることが出来たかもしれない。

 だが孫九郎は動かなかった。

 理由は簡単だ。領土を広げればそれだけ接する敵が増えるからだ。

 広すぎる勢力域は維持するのが大変だという認識は強く、地盤がしっかり固まらないうちに手だけを広げても上手くいかないとも思っていた。

 たとえば松平家が攻め込みたいというなら止めはしないが、そういう状況でもなく。

 孫九郎は武力介入ではなく、経済的な支援……の名のついた影響力の拡大を狙った。

 現在の今川家の周辺には、東は伊豆、駿河の北には甲斐、西は三河という緩衝地がある。今回三河の更に向こうで多大な地震被害があったので、銭で横っ面をぶっ叩くではないが、じゃんじゃんと支援を贈って国境周辺の友好度を上げた。

 ポイントは、小さな家門を意図的に狙うことだ。

 もらえるものはもらっておこうと考える者、背に腹は代えられぬと受け取る者、いろいろいるのだろうが、そのあたりは重要ではない。

 要は、今川家の手が届く範囲を少しずつ伸ばしているだけだ。

 それと同じことで、実は房総のほうにもよしみを通じていた。

 北条を狙えとも攻め込めとも頼んではないが、海賊衆は元気にお仕事を頑張っているのだそうだ。今川家としては、伊豆は放っておいてね、というお願いをしただけなのだが。

 左馬之助殿という大きな戦力を無駄打ちして、北条が弱体化する未来は見えていた。

 北条殿はリスクを天秤にかけて、実弟にその地位を奪われないようにすることを選んだのだろうが……。

 最大の将を切り捨てるのが早すぎたな。せめて代役が育つまで待つべきだった。

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― 新着の感想 ―
お待ちしておりました!!
待ってました!
新作きたぁ〜!! 感想欄を見ると案の定、狂喜乱舞する御同輩勢。わかる、わかるよぉ…待ちに待ったお勝様ですものね!コミカライズもくるし、もう楽しいこと盛り沢山で感謝です!
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