04.
ニナが目覚めて四日目の朝。
メイドに身支度を手伝ってもらい、彼女は食堂に訪れた。この食堂で朝食をとるのは二度目だ。昨日は同席する気まずさに、あえて二度寝しフィリベルトと朝食の時間をずらした。今朝は、テーブルにフィリベルトがいる。
「お、おはようございます」
「おはよう」
彼の両親は同席していなかった。フィリベルトの出勤が早いため、いつもなら彼一人で朝食をとっている。
「今朝は早いんだな」
「早起きは得意じゃないんですが、たくさん寝ていたので今日はできました」
一週間も寝たきりで、目覚めてからも十二分に睡眠時間をとっていた。普段起こされるまで起きられないニナでも、さすがにひとりで起床できた。
フィリベルトの向かいの席に案内され、ニナが着席すると彼と同じ朝食が並べられた。二人で食前の祈りを捧げてから、食べ始める。食事を並べてくれた使用人から残しても問題ないと言葉添えがあった。病み上がりであることを気遣ってくれるボーヴィ伯爵家の使用人たちに、ニナは感謝しかない。フィリベルトからも無理をしないように、と声をかけられる。彼の配慮が使用人たちの態度なのだろう。
ニナははにかみながら、それぞれに感謝の意を述べた。
サラダやパンなどを咀嚼しながら、いつ打ち明けるか考える。目の前のフィリベルトは洗練された所作で食事をする様子すら綺麗だと感じる。彼に見惚れて手元が疎かにならないよう、気を付けながらニナは食べる。
彼に倣い所作を気にしていたため、歓談交えての食事とはならず、会話らしい会話もなかった。
食後にようやく話せる空気ができる。彼が珈琲を飲み終えるまでは、落ち着いて話せそうだ。
自分の分にミルクを入れてもらいつつ、ニナは口を開く。
「あっ、あの……!」
「ん?」
アメジストの瞳を真っ向からみて、ニナは彼を騙せる気がしなかった。そもそも嘘を吐くのは苦手なのだ。すぐ目が泳ぐし、しどろもどろになってしまう。
それに、記憶が戻ったことを黙っていてもいいことがない。自分の恋心が前提で成った婚約なのだ。それが消え失せたとなれば、フィリベルトは誠実に解消を提案し、他の女性を見繕うことだろう。
「もど、戻りました! 記憶!」
だから、ニナは素直に明かした。記憶の有無にかかわらず彼の好感度が変動しないなら、せめて、婚約者の座を維持していたい。
アメジストの瞳がわずかに瞠目する。
「本当か?」
「はい。三日に一度は寝ぐせがついてるお寝坊さんなモレロと、たいていのことは笑い飛ばすけど怒ると怖いジャンナの一人娘ニナ・トッリがわたしですっ」
補足情報のある家族構成紹介にフィリベルトは眉を寄せる。記憶が戻った証明のためにあえて余分な情報を添えたのだとわかるが、彼にはその情報の正否を判断できるほどトッリ男爵家の家庭事情を知らない。どちらも初めてきいた情報だ。
彼の反応で証明不足と悟ったニナは、他の証明情報を模索する。
「えっと、騎士団副団長を務めるフィリベルト・プラチド・ダミアーノ・ボーヴィ様が婚約者で……っあ、倒れる前に着ていたドレスはわたしの誕生日祝いにフィリベルト様がくださったもので、オレンジの差し色でフィリベルト様とペアデザインなのが嬉しかったです!」
倒れた経緯については記憶がない間にも説明したが、互いの服装にまでは伝えていない。ようやく、失っていた記憶が戻っているとフィリベルトも確信がもてた。
「戻ってよかった」
安堵の色もありつつも、倒れる前から見覚えのあるおだやかな彼の微笑み。元通りになったとニナも実感する。
「ありがとうございます」
感謝の笑みを返しながら、ニナは内心でわぁんと嘆いていた。
自分に悲劇のヒロインを演じる演技力とあざとさがあれば、彼の同情を買い仲を進展させることもできただろうに。頼れる人が目が覚めたときにいた彼だけだといえば、誠実な性質の彼は無下にできないはずだ。彼に甘えて構ってもらえる機会を逃した事実が惜しい。
身体は回復済で、記憶喪失のための療養でボーヴィ伯爵邸に留まっていただけだったので、その日のうちに帰り仕度をすることなった。伯爵邸に訪れたときの服や靴が綺麗な状態でニナに返され、そのままでもよかっただろうが自分の服に着替え直す。自分のものと実感できる服の着心地とヒールの高さに、ニナはほっとひと心地つく。
フィリベルトがトッリ男爵邸に送ると申し出てくれたが、ニナは断った。彼の出勤時間を遅らせる訳にはいかない。
「でも、ひとつだけお願いが……」
「なんだ」
「誕生日プレゼントにいただいたドレス一式は持って帰っていいでしょうか?」
「もちろん」
彼女に贈ったものなので、もとより後日送り届けるつもりだった。フィリベルトは了承し、彼女の乗る馬車にドレスや靴を積ませる。
送迎の馬車に乗り込む前に、ニナは振り返り、見送りで控える使用人たちをゆっくりと見回した。身の回りの世話をしてくれたメイドや、身支度を手伝ってくれたメイド。給仕は食卓で食べきる必要はないと言葉添えしてくれたし、料理人は自分が段階的に食べやすいメニューで作ってくれた。
それぞれの顔を確認して、ニナは深く頭をさげ最上級の礼をとった。
「この度はご迷惑をおかけしました。みなさまのお心遣いのおかげで、不自由なく過ごせたこと心より感謝いたします」
直接礼をいう機会を逃さずに済んで、ニナは満足だ。フィリベルトの手を借りて、馬車に乗る。
「気を付けて」
「ふふ、また頭をぶつけないようにします」
冗談めかしてニナは慎重に頭をさげて馬車のドアをくぐった。後日あらためて今回の詫びと礼をしたいとニナが申し出るも、君が無事ならそれでいいとフィリベルトは断る。ある意味形式的なやりとりをして、フィリベルトは婚約者を見送った。
馬車の窓からボーヴィ伯爵邸が遠ざかるのを眺め、ニナは何かを堪えるように膝のうえの両手を握り込んだ。
道が混むことなく数十分でトッリ男爵邸に着いた。すると、御者の手を借りてニナが降りる間に、邸から両親が飛び出してきた。
「「ニナ!!」」
両親はニナの顔をみるなり強く抱きしめる。
「ああっ、目が覚めてよかった……!」
「ほんと全然起きないんだもの、ドジで心配させるのも大概にしなさい」
娘の熱を、鼓動を確認するように、隙間ができるのを惜しんだ抱擁はいささか苦しいものだった。だが、それだけ心配してくれたのだとニナは享受し、二人の背中に手を回す。返る両親のぬくもりが、心まであたためるようだった。
「心配かけて、ごめんなさい。ただいま」
「おかえり」
「おかえりなさい」
両親から帰宅の挨拶が返る。父のモレロにはいつもはない隈が浮かんでいる。母のジャンナの笑みには疲労の色があり、輪郭もわずかに細くなったようだ。それでも、変わらない笑顔で迎えてくれる。
じわっと、エメラルドの瞳が滲んだ。
ああ、ここが自分の家だ。それを思い出せて本当によかったと感じる。
「ニナ?」
「どうしたんだい?」
涙を浮かべる娘を、両親は気遣う。それに、ニナは大丈夫だというように、首を横に振った。
「ううん。ただ、帰ってこれたのが嬉しいだけ」
ずっと帰りたかった場所。自分をよく知る家族のいる家。ようやく帰れた。それが堪らなく嬉しい。
両親には娘がいつ目覚めるのか気が気ではなかったが、目覚めてまもないはずの娘が我が家を懐かしむあまり嬉し涙を浮かべる様子が不思議だった。彼女からすれば小旅行から帰ってきたようなものだろう。なのに、一泊や二泊の小旅行から帰ったときの様子とは異なった。
両親は首を傾げたが、控えていた御者から荷物をどうするか確認され、ニナがその対応を始めたものだから追及できず仕舞いだった。
ドレス一式の入った箱たちを御者は玄関まで運んでくれた。ニナはそれに感謝をいい、あとは家の使用人に自室へと運んでもらう。
ボーヴィ伯爵家の御者が馬車とともに去ってからは、もういつも通りの日常だった。昼食も夕食もみんな揃ってテーブルを囲み歓談まじりに食べ、家族団らんを過ごす。
夜にはゆっくり湯浴みをして、両親に就寝の挨拶をして、ニナは寝支度を整える。メイドもさがったあとは、しんと寝室に静寂が訪れる。
ベッドのうえで、ニナは頭を埋めずに枕を抱え込んだ。
「……もん」
ぽつり、と零れた声とともに、はたはたと涙が落ちる。今度は嬉し涙ではなかった。
「思い出、あったもん。甘いもの得意じゃないのにわたしと同じパンケーキ食べて美味しいって言ってくれたカフェ・イネルバとか、初めて手をつないで歩いた国立公園の銀杏並木とか……っ!」
あったのに、と枕を抱いたままベッドをごろごろと転がり、カフェや公園などフィリベルトと二人ででかけた場所を吐露してゆく。
ニナにはひとつひとつが大事な思い出も、彼には記憶に残らないものだった。同じ時に、同じ場所で、同じ経験をしたはずなのに。記憶喪失だったときの彼の言動から、記憶の比重の差を知ってしまった。
その差のどうしようもなさに、ニナは幼子のように泣き、ベッドを転がった。
あらかたの思い出のエピソードを吐ききったニナは、ぐしぐしと泣きながら一度身を起こす。視線の先には、帰ってから飾るように置いた靴が一足。贈られたドレスと揃いのデザインの可愛らしくも綺麗な靴だ。ニナが倒れたときに履いていた靴でもある。
「練習……しないと」
その靴をみつめ、ニナは明日からの目標を決めたのだった。






