25.
コンコン、とノックのあとに、副団長執務室のドアが開く。
「堂々といちゃついてんなよ」
「休憩しているだけだ」
入室してきたリザンドロの指摘に、部屋の主は平然とぬるくなったカフェラテを飲む。ぬるくなってしまった理由を知っている婚約者は隣で真っ赤になって沈黙していた。彼女の反応で、ただカフェラテをもてなされただけではないのは明白だった。
「やっとノックを覚えたのか」
無遠慮だった騎士団長にフィリベルトが感心してみせると、軽口が返る。
「だぁーって、お前、ニナちゃんとちゅーしてたってゆーじゃん。さすがに最中だったら気まずいだろ」
「していない」
部下の睦み合いに遭遇しないよう気遣った結果だと主張され、フィリベルトはそのような事実はなかったと否定した。婚約者の方は飲んでいたカフェラテで噎せて、せき込んでいる。せきが落ち着いてからも、誤解を受けた一件をどう説明すればとあわあわと狼狽える。
「職場だぞ」
「夜会だったらいいってもんでもねぇぞ」
確認する書類を受け取りながら、勤務中にする訳がないとフィリベルトがいえば、勤務外だからといって一定の節度はいるとリザンドロは揶揄いまじりに指摘した。
弁明を言葉にできずに弱っていたニナは、その指摘に土曜日の出来事を思い出し、口を真一文字に引き結んだ。
「牽制になっていいだろう」
フィリベルトの返しはしれっとしたもので、揶揄いは不発に終わった。確かに、あそこまでつけ入る隙がないと証明していれば、どちら側にも手を出そうとする者はそう現れない。この男の場合、そこまで読んで行動していた可能性が否めず、リザンドロは侮れなさを感じた。
「独占欲、激強じゃん」
清々しい開き直りっぷりに、リザンドロはからからと笑う。
「ニナちゃんも大変だねぇ。こいつが鬱陶しくなったら言いな」
「いいいえっ、嬉しいので! ……って」
独占欲についてはお互い様だと思っているので、ニナとしては問題ない。大丈夫だと返せばいいだけなのに、つい素直に独占されるのが嬉しいと吐露してしまった。それはともかく、ニナははたと気付く。リザンドロから名前で呼ばれていることに。
ほけ、と彼を見上げると、嬉しげに目を細められる。
「うちの右腕をよろしく頼むよ。ニナちゃん」
婚約者が最も信頼を置いているだろう男に認められ、エメラルドの瞳が歓喜に輝く。
「はい……っ!」
フィリベルトに書類に不備がないことを確認してもらい、リザンドロは軽く手を振って退室していった。
執務室には、喜ぶニナと少しばかり面白くないフィリベルトの二人だけになる。
「……君の名前は短いな」
「え? はい」
思案げに確認され、ニナは小首を傾げて肯く。呼びやすいのが一番だと父親のモレロが付けたもので、ニナ自身も気に入っている。なぜ、名前の長さでそんな悩ましげにされるのだろうか。
「誰でも君の名を呼べてしまう」
「そうですね?」
「しかし、二音では私だけの愛称で差別化することもできない」
胸がきゅうと締まって、ニナは相槌を打つことが叶わなかった。彼以外の男性に名を呼ばれることを嫌だといっているようなものだ。明確な嫉妬が嬉しい。それゆえの胸の苦しさだ。
思案の末、フィリベルトは別の解決策をとることにした。
「代わりに、君が私を愛称で呼んでくれないだろうか」
「へ。フィリベルト様の名前に略称なんて……」
「ああ、ない。だから、君だけのものだ。ニナ」
どんな略し方でも構わないと、アメジストの瞳に真っ向からみつめられ、ニナは拒否の選択肢をもてなかった。それに名だけで呼ばれた。これまでニナ嬢と紳士的な、ほんの少し線を引かれて感じる呼称だったのに。彼の方から近付いてくれた。
それだけで胸いっぱいになりそうになりながら、ニナは乞われたことに臨む。彼に独占されたいと乞われる日が来ようとは思わなかったが、独占していいと許しを得られるのはなんとも甘美な誘惑だった。だがしかし、名付けのセンスに自信がない。婚姻後、もし子供が生まれたとしても彼からか、どちらかの両親に名付けてもらう気満々だったニナだ。
唸るほど悩みに悩んでから、ひとつだけ絞りだせたが、自信のなさに恥じらいながらになってしまう。
「フィ……、フィ様、とか……」
「様はいらない」
「……フィ」
却下されるかとばかり思ったのに、むしろ、敬称を取り除くよういわれてしまう。歳上の婚約者に対してそれが許される存在になれるというのは、ニナの独占欲をくすぐった。しかも、唯一だ。顔を真っ赤にしながら、弱々しくも呼ぶ。
執務室にはふたりだけで、消え入りそうな声でも確かに相手に届いた。呼ばれ、アメジストの瞳に甘い歓喜が滲んだ。
「君にそう呼ばれると、本当に私だけの小鳥になったようでいいな」
小鳥の囀りのような愛称は、婚約者が口にするのがぴったりに感じた。はじめて呼ばれた呼称がしっくりくる。
ニナははく、と空気を食む。彼はこんな男性だっただろうか。惜しげもなく愛情を浴びせされて、言葉もでない。自分と婚約するまで彼はどんな令嬢にも心動かされなかった。だから、誰もが恋する彼を目にするのははじめてなのだ。向き合うからには真摯な彼の本領を、ニナは見誤っていたと思い知る。
婚約者の小休憩に付き合っていただけのはずなのに、執務室をでる頃にはニナは満身創痍の体だった。
ドアを開け、でるタイミングでフィリベルトが、ひとつの頼みをした。
「二人の時以外は、これまで通りに呼んでくれ」
「あ……、やっぱり、可愛すぎて人前だと恥ずかしいですよね」
「いや、愛称で呼ぶ君の顔を私以外の者に見せたくないだけだ」
問題点はそこではないとフィリベルトは即座に否定した。婚約者からどう呼ばれているかを第三者に知られようと支障はない。ただ、愛しさで理性がぐらつくほどの表情を、自分以外、特に他の男に晒したくない。単なる個人的なわがままなので、きくかどうかは婚約者の判断に委ねる。
「ひゃい……」
「ありがとう」
了承を得て、フィリベルトは笑む。彼の前だと、体温をさげるのがあまりにも困難だとニナは学習した。裏門まで送られ、また木曜日にと別れの挨拶をされたとき、自身が無事でいれるか危惧した。少しの時間ともにいただけでこれなのだ。半日ともに過ごしたら、自分はどうなるのだろう。とりあえず、照れずに愛称を呼べるように練習しようと、新たな目標を掲げるニナだった。







