24.
火曜日、ニナが騎士館にいくと、やはり裏門でフィリベルトが待っていた。
これからはこれが当たり前になるのだという実感に、ニナは胸を高鳴らせる。前回は騎士とすれ違ったが、今日は彼の執務室までの道中、誰ともすれ違わなかった。だから、彼の隣を歩きながら表情をゆるめていられた。最近よく嬉しさが滲むようになった。
自分と違って彼の表情は凛々しいな、とちら、と窺うと、視線に気付いて、こちらに甘い笑みを向けられた。自分にしか向けられない甘さだと分かり、頬を染めたニナは慌てて前方に視線を戻した。
執務室に着くと、すでに珈琲の香りが漂っており、カップふたつがテーブルに用意されていた。淹れたばかりのようで、彼が着く頃合いにあわせるよう手配してくれていたことが分かる。
カップは横並びにふたつ。自然と隣り合ってソファに座ることになる。
対面でも鼓動が高鳴っていたニナだが、隣だと彼の気配が近くて余計に緊張する。少し動けば簡単に触れられる距離だ。
とりあえず、いただきますと視界に入るカップをとる。
「あれ? カフェラテ?」
「よく飲むのはこちらだろう」
「はい。フィリベルト様もですか?」
以前までは添えられたミルクと角砂糖で、各々任意で苦さを調整するものだった。すでに自分の好みのカフェラテ用が意されていたうえ、普段何も入れずに飲む彼の分まで同様なので、ニナは不思議がる。
「君が好む味が気になってな」
だから、あえて同じ淹れ方にしてもらったのだと、彼はカップを口にした。理由にニナの頬が染まる。悪くない、と好感触の感想が添えられたのも、心をくすぐった。
それはニナにも覚えのある行動だ。彼の好むものを同様に楽しめたらといくつか試みた。何も足さない珈琲は豆の種類によってはどうにか一杯飲み切れるかどうかだったので、無理をしないことにした。白ワインもグラス一杯飲み切るのに時間がかかるうえ、酒がまわりやすい体質だった。せめてとスパークリングワインの白で近しい味を口にするようになった。
本当に好かれているのだと、ニナはじわじわと彼からの好意を実感する。実感の分だけ、頬が熱くなった。
ミルクの配分の多いカフェラテは、意識をはっきりさせる効果はさがるが、その分ほっと安堵する味わいとなる。ひと心地つくにはちょうどいい。胃に優しい点もよいと、今後はこちらも飲むようにしようと彼は気に入ったようだ。
同じものをふたりで楽しめるのが、ニナには堪らなく嬉しいものだった。思わず頬がゆるんでしまう。
「さて、今日は何を作ってくれたんだ?」
「あっ、そうでした!」
彼の共感を得られたことで満足してしまっていた。ニナは慌てて、もってきた包みを渡す。
「マドレーヌです」
受け取ったフィリベルトが包みを解くと、細長いシェル型で焼かれた手に取りやすいサイズのマドレーヌがキツネ色で数個あった。
その包みを載せた手を、フィリベルトは隣へ向ける。自身の前にきたマドレーヌにニナは小首を傾げる。毒味をしろということだろうか。
「食べさせてくれるんだろう」
「え。あ……!」
してみたいといったことをこんなに早く実践させられると思っていなかったニナは、エメラルドの瞳を見開く。
本当によいのだろうかと思うが、アメジストの瞳がこちらをみつめ待っている。そろそろとひとつ手にとり、震える手で彼の口へ近付けた。
「……っあ、あーん」
ニナがそう口にすると、ぱくりとマドレーヌの半分が彼の口へ消えた。きっと一瞬のできごとだったのに、ニナにはコマ送りのように動作が細やかに脳に焼き付く。
「うん、美味いな。君手ずからというのは、自分で食べるより気分がいい」
口に合ってよかったと返したかったのに、味以外の感想まで耳に届き、胸の奥がきゅうとなる。これは思ったより心臓に悪い。恋愛小説を読んで空想してたときより、現実の方が強烈だ。
一連の動作をやりきったニナが手をおろそうとすると、その手首を掴まれ止められる。
「まだ残っているが?」
「ふぇ?」
達成した気になっていたニナは驚く。フィリベルトが不可解そうにするが、ニナの方も事態が飲み込みきれない。
掴まれた手には食べかけのマドレーヌが半分残っている。それと待っているフィリベルトを何度か見比べ、ノルマが残っていることに気付く。ニナはこくり、と緊張とともに唾を飲み込み、もう一度彼の口元へマドレーヌを運んだ。二口目でニナの手からマドレーヌが消えた。
咀嚼を終えたフィリベルトは、今度は自身の手でマドレーヌを手に取る。そして、これでお役御免と安堵していたニナの前に差し出した。
「私もしていいのだろう?」
ニナが固まっていたら、そんなことをいわれた。そういえば、夜会で彼がしたいといった際に自分はダメとは返さなかった。あーんし合いっこにも憧れがあったから。
そこまで脳が処理を終えて、ようやく純粋な驚きが占める。本当に彼がしてくれるとは思わなかった。
「ほら、あーん」
自分が一向に動きださないものだから、かけ声で促される。彼の低音で聴くと思っていなかった。耳朶が甘く痺れる。
素直なニナは震える唇を小さく開け、ぱく、と一口食べた。
「どうだ?」
「……甘い、です」
たぶん。鼓動の高鳴りが騒がしすぎて、味など分からなかった。彼の味覚に合わせて甘さ控えめに作ったはずなのに、その彼から向けられる眼差しや笑みで非常に甘い気がしてしまう。
一口で十二分に甘さが足りたニナだったが、一口が小さかったためまだ半分以上彼の手に残っている。予想通りフィリベルトは逃してくれず、彼の手のなかのものを食べきるまで、何度も差し出される。マドレーヌひとつ食べきった頃には、もう胸がいっぱいすぎて苦しかった。
「思った通り、君だと小鳥のように愛らしいな」
小さくかじっては、懸命に咀嚼する。彼女が嚥下するのを待ってからまた、とゆっくり食べさせていたが、フィリベルトの予想していた以上に愛らしかった。手元に置いておきたくなる、何とも愛らしい雛鳥だ。
思った感想を口にしただけなのに、首まで真っ赤になるから堪らない。
職場であることを惜しく感じつつ、フィリベルトは婚約者の口元についた欠片を下唇ごと親指で拭う。ぴくり、と彼女が肩を跳ねさせたのに構わず、拭った親指を舐めた。
「確かに甘いな」
欠片だけだったにもかかわらず、甘さが口に広がるようだった。
ひぇ、とニナは小さく悲鳴をあげる。もう溶けてもいいだろうか。温度で融解する身体だったら、自身の体温で溶けていても奇怪しくない。
形質変化ができないことを辛く感じていたら、またマドレーヌの包みが眼前にやってきた。
「君の番だ」
「えっ、え?? でも、いっこ……」
「私は二口で、君は六口だ。まだ四口分残っている」
個数ではなく、食べさせた回数基準だとされ、ニナは一口を小さくしたことを後悔した。だが、彼の前で大口を開けるなんてできやしない。そんなことをしたら頬が膨らんだ様を彼にみられてしまう。
彼の休憩時間の間、自身の心臓はもつのか不安になりながら、ニナは目の前の課題に臨むのだった。
モレロの見立て通り、返される愛情が利子付きどころか倍返しとなり、婚姻までの数か月で彼の負債はなくなることだろう。それで弱るのは想われ慣れていない愛娘自身であった。







