22.
ソニア・ジョフレ、侯爵夫人である彼女が主催する夜会には、毎回ドレスコードの指定がある。ただし、それさえ守っていれば招待された家の者は誰がきてもいいという鷹揚さもある。貴族に珍しく大恋愛のすえ結婚した夫人が、若者に出会いの機会を与えようと月に一度開催されている。そのため、恋の噂に敏感な夫人が気に入った恋人は、多少の身分差があっても夫人の支援により結実することもあるのだとか。
ニナも、フィリベルトと婚約した当初、伯爵令息が一目惚れし男爵令嬢へ婚約申し出したというエピソードをいたく気に入って応援の言葉をいただいた。これまで誰とも色めいた噂のなかった美貌の令息を射止めたのがごくありふれた平凡な少女だったというのも、夫人が応援したくなった要因だろう。夫人にプロポーズの経緯を詳しく訊ねられたときは、弱った。選ばれた理由を知っているためニナはどう返すか困ったが、フィリベルトの方が二人だけの秘密にしたいと機転を利かせて返したのだ。口元に人差し指を当てるそのときの仕草に、夫人とともにきゃあと頬を染めたのは自分だ。
今夜のドレスコードは、男性は胸に白い無地のハンカチ、女性は青いドレスにサテンのリボンだ。ハンカチについては、イニシャルなど大きくない刺繍入り程度なら問題なく。サテンのリボンは小物入れなどの飾りでも所持していればよいという基準だ。絹で織られた光沢あるサテン生地をふんだんに使ったドレスなど作れるものが限られている。だからこそ、リボンでの指定だろう。
ヒールをカツンと鳴らし、ニナは会場をゆるりと歩く。
青のドレスは親友のエリデから借りたもので、普段身に着けるデザインと多少異なっていた。エリデの方が背丈があるので、スカートの丈に合わせて高いヒールで合わせている。うねり易いため肩にかかるかどうか程度の髪はひとつにまとめ、髪の長さが多少分かりづらくなっていた。サテンのリボンは髪飾りに用いている。
化粧もドレスに合わせているが、変装というほどのものではない。だが、ニナは、親友の意図を理解していた。
本当にみつけてもらえるのかな……
ニナは自信がなかった。
ドレスの色とリボンの指定しかなくとも、流行のデザインや髪型があり参加者の服装は似通ってくる。普段明るい色や淡い色を選びやすいニナには珍しく青が濃いだけで、借りたドレスも一般的なデザインだ。すでに似たデザインのドレスを着た令嬢を数人見かけた。ただでさえ、ごくありふれた自分は、少し印象が変わっただけで彼に目を止めてもらえるか怪しくなる。
そう、だからこそ親友は服装が似通うこの夜会を指定したのだ。
フィリベルトのように周囲の視線を集めるような容姿であれば、服装が似通っていようと難なくみつけることができる。ニナはちらりと、少し前にやってきた婚約者を窺う。今夜の彼も素敵だと見惚れそうになり、慌てて視線を外す。極力自分から視線を合わせないように、親友から厳命されていた。
夜会となると基本的にフィリベルトをみつめていたため、どこに視線をやればいいのか迷う。とりあえず、ホール中央で踊るペアたちを眺めていればいいだろうか。
奏でられる音楽に合わせて踊る男女の動きをおっていると、時折フィリベルトが視界に入る。探すのは、見知った人への挨拶周りを終えてからだと思っていたニナだが、みつける都度、彼は令嬢に声をかけては詫びている様子だ。
彼が声をかけているのは、赤みがかった金髪の、自分と似た髪の長さの令嬢ばかり。本当に探してくれているのだと分かり、ニナの心臓は音を立てる。それは期待からか、不安からか。
人探しとはいえ、容姿の整ったフィリベルトから声をかけられ、令嬢は舞いあがる。なかには引き留めようとする者もいるようだ。
一人目は美人系の顔立ちで振り向いた時点で分かったようだ。二人目は顔立ちが似ており遠目には分からず近付いてから断りを入れていた。三人目は自分より可愛い令嬢で、自身でもそれを自覚しているのか彼女の方からフィリベルトに話しかけていた。
次第にみていれられなくなり、ニナは踵を返し、ダンスホールの近くから離れる。通りがかった給仕から飲み物をすすめられるが、それも断った。
ガラス戸のひとつをあけ、テラスにでて夜風にあたる。いくつかあるテラスへのガラス戸は大きく、ホールからもみえる場所なので会場の範囲で退出したことにはならないだろう。不在の者を探させるなどルール違反だ。
ニナは胸元へ手をあてる。掌に伝わる鼓動に不安の音を聴く。
自分を探してもらえるのは嬉しいはずなのに、次第に不安が増してゆく。彼の目に他の令嬢が映るたび、自分の存在がかすんでゆくような気がした。
これまで彼は一辺倒に言い寄る女性を拒んできた。だが、婚約をきっかけに自分と向き合ってくれたように、他の令嬢を知れば自分でなくてもよくならないだろうか。
初恋の従兄弟のときは、ニナも無邪気に相手に大好きだと伝えて、ずっと一緒にいてほしいともいった。だが、従兄弟にはそれはすべて家族としてのものと捉えられ、伝わらず彼のなかでは妹分でしかなかった。二度目の恋の相手は司書で、単なる利用者だったため忍ぶ恋だった。個人的に親しくなる機会を作ることも叶わないまま、さきに司書の彼の視線が向かう先に気付いてしまったのだ。どちらの相手も、自身より綺麗な女性で優しそうで、敵わないと思わせてくれ諦めがついた。
最初から自分に振り向いてもらえる訳がなかったのだ、と。
はじける運命の泡のような期待しか、ニナはずっと抱けずにいた。
エリデの試練は彼だけのものではない。彼が信用を取り戻したとして、愛される覚悟ができるかどうか。ニナ自身も試されていた。
それを乗り越えなければ、恋は愛にならない。
愛する覚悟しかしてこなかったニナには難題であった。最初から諦めるのと、手に入れてから失うのは、喪失の痛手が大きく違う。鼓動の音には怯えもはらんでいた。
太陽なきゆえに冷えた夜風が、前髪を揺らす。臆病風に吹かれた内心の方が風速は速く強い。髪をまとめているので、前髪以外はサテンのリボンが揺れる程度だ。
「ニナ嬢」
いつまで経っても心の準備ができないでいたニナの耳に、普段より語気の強い焦りの滲む低い声が届いた。名を呼ばれ振り向くと、ニナのいるテラスへ続くガラス戸にフィリベルトが立っていた。会場にきた当初より少しばかり髪が乱れており、わずかに息があがっている。必死になる彼をみるのははじめてのことだった。
エメラルドの瞳を揺らし、視線を泳がせてから、弱くはにかむ。
「みつかっちゃいました」
隠れていた訳ではないので、いつかはみつかるものだ。なのに、心のどこかでみつからないまま、彼を諦める未来を予想していた。
けれど、いざアメジストの瞳をかちあうと、自分しか映っていないのだと分かる。
「思ったより、早かったですね」
「一目でみつけられず、すまない。だが、君と共通点のある女性を見て、気付けたことがある」
いよいよ、彼のなかで存在が薄れてしまったのか。どくん、と心臓が嫌な音をたてた。
「赤みがかった金髪はよくある色だというのに、見ると私は君の髪の色だと感じる。緑の瞳やエメラルドの嵌ったアクセサリーを目にしても、君の感情豊かな瞳の色が一番だと思ってしまう」
一歩、また一歩とフィリベルトが話しながら近付いてくる。けれど、ニナの足は縫い止められたように動かない。
「少しでも似たものを前にすると、すべて君に繋がるんだ」
かすんでしまうとばかり不安を覚えていたというのに、彼はむしろ強く想うきっかけにしかならないと断ずる。
「もう私の贈った靴を履いても問題なさそうだな」
ふっとフィリベルトが微笑む。背筋がまっすぐに伸びた立ち姿が綺麗だ。彼女の努力の末の姿勢に感嘆する。
「君のまず自身で努力するところは美徳のひとつだな」
敬服の念を込めてみつめたあと、フィリベルトは片膝をつき、彼女へ手を差しだす。
「私はニナ嬢が好きだ。君の今後の人生を私とともに歩んでほしい。どうか、私と結婚してもらえないだろうか?」
答えを待つ問いだった。はじめの答えの分かりきっている問いではなく。
「わっ、わたし、は……」
手はまだ胸元をおさえたまま。差し出された手に伸ばされていない。答えを待つアメジストの瞳に、ふる、と震える。
「……っ怖いんです!」
眼差しに耐えきれず、ニナの怯えが零れでる。
「せっかく好きになってもらっても、甘えすぎてうざがられたり、やきもち妬くようになって嫌われたらって……っ」
ぐにゅり、とニナの表情が歪む。諦めていたから聞き分けよくいれたものが、抑えられなくなったら失望されないだろうか。それでも想ってもらえる自信がない。
「それが、私の手を取るのを躊躇う理由か」
フィリベルトは立ち上がり、伸ばされることのなかった彼女の手を引いて、自身へと引き寄せた。
「君の許しを得ずにすることを詫びる。すまない」
何の謝罪か問うまえに、ニナの口が塞がれた。少し触れる程度のものでなく、しっかりと重ねられた唇の感触に、ニナは固まる。
しかも、離れていかない。口付けと疑いようのない状況に、混乱する。塞がれて呼吸がままならず、しばらくして空気を求めて、ニナは閉じていた唇を少しばかり開いた。すると、その隙間から侵入され、びくりと逃げようとしたが後頭部を片手で押さえられ、引くこともできない。
中でも引っ込みかけたものを絡めとられ、与えられる感触が増すに比例して、ニナの困惑はさらに増した。せっかく高いヒールでもしゃんと立てるようになったのに、膝から力が抜けそうになる。そのまえに、もう一方の手で腰がしかと支えられた。
いよいよ酸欠になりそうになろうかというときになって、ニナは相手の胸を拳でどんどん叩いて主張した。彼にはさして痛みのあるものではなかったようだが、主張は伝わり、塞がれていたものが離れた。瞬間、ぜーはーとめいっぱい空気を吸い込む。
「私は同情でこのようなことはしない。また、したいと思うのも君だけだ」
言葉を尽くして伝わらないなら行動で、と示してくれたのは、分かりやすく大変ありがたいが、加減が奇怪しい。酸欠状態がなくなっても、ニナの顔は赤いままだし、まだ腰の支えがなければひとりで立てない。
「……っこ、濃すぎやしませんか!? わたし、はは初めてなんですけど!」
「私もだ。触れる程度で信じてもらえるか心配だったからな」
こちらも必死だったと、真摯に申告されニナは抗議の言葉が萎む。立てなくなるほどの接吻をされるのはさすがにやりすぎだとは思うが、彼も初心者ゆえなら仕方ないのかもしれない。それに、フィリベルトもはじめてだというのも、自分に必死になってくれているのも、堪らなく嬉しい。
「気分を悪くしただろうか?」
このような接触を想定していない相手にされれば、生理的嫌悪や恐怖が克つ。婚姻を前提とした関係であるので彼女も将来的な予想はできていたであろうが、感情面でそこまでの好意でなかったらとフィリベルトは危惧する。彼女に対して衝動に走りやすくなっている点を自覚するも、受け入れられたい欲望が湧くのだからどうしようもない。
強引かと思ったらしおらしく眉をさげられ、ニナは怯む。そこで引かないでほしい。狡くないだろうか。いわないといけない状況に追いやられ、震える唇を恥を忍んで開く。
「……悪い、どころか、よ……、よすぎて、膝に力が入りません……っ」
彼の支えがなければ立てない状況を申告する。相手の目をみて口にできるような内容ではないので、視線を伏せたまままごまごとしたものになってしまった。好きな相手だからとはいえ、快楽に弱すぎてはしたないと思われただろうか。
ニナの林檎のような赤さに、フィリベルトは腰を支える手に力を込めそうになり、理性を総動員して堪える。快楽に浮かされ蕩けたエメラルドの瞳に、林檎の赤が顔どころか耳や首にまで及んでいて、本来なら冷たいはずの耳の熱を測りたくなった。彼女をこのような状態にしたのは自身のせいだが、本題が逸れかねない。
「それで、信じてもらえただろうか?」
フィリベルトに確認され、ニナはこくこくと何度も縦に肯いた。
「十二分に……!!」
伝わりすぎて現時点で弱っている。ここでわずかでも疑いが残っているような誤解を与えれば、今度は腰まで砕けるようなことになるかもしれない。すでに過剰摂取しているニナは、危機感を覚えた。ここが夜会の会場であることを忘れてはならない。
「あの、ほんとに愛想尽かしません?」
おずおずと念押ししてくる婚約者に、フィリベルトは片眉をあげる。
「君の、私に負荷がかかると懸念してる過剰行為とは一体どういうものなんだ?」
懸念事項を具体的に例示するようにいわれ、ニナは弱々しくも自身の想定を明かす。
「ベタな恋愛小説みたいに、あーんして食べさせたりとか……」
「それは、私がしてもいいのだろうか? それなら、君がした分だけ私も君にしてみたい」
彼女がそれで喜ぶなら、一向に構わない。また、彼女にしたら雛鳥の餌付けのようで可愛らしいことだろう。
「他の女性を見ないでとか言っちゃうかも……」
「君の方こそ、今後私だけを見てほしい」
今必死になっているのは、彼女が他の男に目を向ける可能性を潰したいからだ。
どれだけわがままで傍若無人な態度をとる気なのかと訊ねてみたが、フィリベルトは拍子抜けした。
「なんだ、同じじゃないか」
彼女は大仰に捉えすぎなところがある。心配どころが杞憂でしかない。彼女を独占したいとエゴで乞うている自分と、彼女のわがままらしいものは似たようなものだ。むしろ、彼女のものは可愛らしい程度である。こちらとしては彼女に求めてほしいので、むしろ願ったり叶ったりだ。
問題ですらないとされ、エメラルドの瞳がまんまるに見開かれる。
「そっか、同じなんだぁ」
ふにゃ、とニナの表情から力が抜ける。独り占めしたいと思っていいのだと、安堵した。
「わたし、フィリベルト様が好きです。ずっと一緒にいたいです」
想うだけで、届かないと口にできなかった言葉。だったのに、するりと口にでた。
「私もだ。こんなに嬉しいものなんだな」
互いに、嬉しさを滲ませ笑い合う。
今度は届いた。そして、受け取ってもらえた。
ふと、ガラス戸の向こうに親友の姿をみつける。エリデと目が合って、ニナは満面の笑みをみせた。それが、試練の結果だった。







