20.
夕陽が沈みゆく。窓辺からその方向をみつめて、ニナは眉を下げた。
「フィリベルト様、元気かな……」
正確な位置を知らないが、西方にあるというのだから婚約者がいるメヴェル領は夕陽が落ちる方角だろう。往復の移動含めて半月はかかる任務だとのことだが、彼が発ってからすでに二週間以上経過している。
認めた手紙を誕生日までに届けてもらえないか騎士館へ頼みにいったとき、騎士団長のリザンドロに遭遇しかならず届けると豪語して預かってくれた。彼が約束してくれた通り、無事届いたようで後日、フィリベルトから当日に受け取った旨と感謝が綴られた手紙を受け取った。
ニナは返事があったことにはしゃぎ、文面から喜んでもらえたようで安堵を覚えた。彼には、勤務中の私用な手紙が迷惑ではないか心配だったのだ。
また、シンプルな返事の内容から、長文を送り付けなくてよかったと思った。会えない間にどういうときに彼を思い出したのかや、一緒に遠征できる彼の愛馬がいかに羨ましいか、誓ってはくれたがやはり無事かどうか心配であることなど、綴ろうと思えばいくらでも書けた。そのため一枚で済まず、便箋を何枚も無駄にした。何度も書き直し精査して、忙しくとも目が通せる文量にとどめたのだ。返事の文量も同等だったので、やはり忙しいのだろう。
「会いたいなぁ」
オレンジが濃くなってゆく夕陽のなかに婚約者の姿を探す。目を凝らしたところで想い人が浮かびあがる訳もないのに。婚約するまでは、彼が参加する可能性があり、自分が参加可能な夜会には、姿を一目みようと勇んで参加していた。屋外訓練があるときなども同様だ。だから、ここまで彼の姿すら確認できないのは、想い始めてからはじめてのことだった。
彼の負担になりたくなくて、便箋から最初に除いた想いだ。きっとそれで正解だ。だって、返信にはそのような言葉はなかった。逢いたいのは自身だけで、婚約者は任務に集中していることだろう。
返信を受け取って以降は、帰る予定の頃合いを過ぎても、ニナは手紙を送れずにいる。誕生日という理由以外に、勤務中の婚約者へ手紙を送っていい口実が浮かばなかった。むしろ、遠征先への滞在が延びているということはそれだけ多忙と思われ、余計気が引けた。
日が重なってゆくほどに逢いたさが募ってゆく。そろそろ寂しくて泣きそうだ。今度、親友のエリデに泣き言をきいてもらおう。
不意に蹄の音が届く。トッリ男爵邸の方へ近付いてくるその音に、視線を向けると、栗毛の馬が駆けてきていた。婚約者の髪色と同じ毛並みだと感じたためか、騎乗者も婚約者にみえてくる。いくら夕陽に煌めく見事な栗色の髪であろうと、自分の錯視だろう。
騎士団の団服を着ているのも偶然だ。王都で騎乗するのはほとんどが警邏中の騎士なのだから。
その騎士がトッリ男爵邸の前で停まろうとも――
「……え?」
「先触れなく訪れ、誠に申し訳ない。私は、フィリベルト・プラチド・ダミアーノ・ボーヴィだ。男爵はいらっしゃるだろうか」
高らかに来訪を告げる声はよく通り、邸からでてきた使用人が対応を始める。幻覚ではなかった。まさしく、ニナの婚約者その人だった。
ニナは窓辺から離れ、あわあわと狼狽える。外出予定がなかったので、自宅用の私服だが大丈夫だろうか。着替えて身支度している間に彼の用が済んでしまわないだろうか。取り急ぎ、鏡台の前で髪がハネていないか確認する。自室のドアを開け、通りがかったメイドに服装に問題ないか訊くと、充分可愛らしいと身内贔屓な答えが返る。だが、一目でも彼に逢いたいニナは、その保証を得て階段を駆けおりた。
「フィリベルト様、どうされたんですか!?」
「ニナ嬢」
急いでおりてきたため、フィリベルトは玄関に通されたばかりだった。余程急いでいたのか、多少息があがり、額に汗が滲んでいる。冷静沈着が板についた婚約者のいつにない様子に、ニナは何事かと近付いた。
「会いたかった」
すると、問いの答えなく抱きしめられる。
「ふぇ!??」
存在を確かめるようなしかとした抱擁に、ニナは動揺する。ホールドの型があるのでダンスのときですらここまで密着したことはない。しかも、夢かと思う呟きも聴こえた。
「フィフィフィリベルト様!?」
「思わず、すまない。汗臭いだろう。汚れも……」
「い、いえ、それは全然気にならないのですが、手紙でもそんなことおっしゃらなかったのに……!?」
衝動的行動を詫びる婚約者に、気になるのはそこではないとニナは動揺の理由を告げる。互いの顔を確認できる距離をとってくれたが、両肩には彼の手があるままだ。
「君も書かなかっただろう。だから、君の口から聞くときに、私も直接伝えようと思った」
彼からとはとても信じられない言葉に、ニナは感触付の夢もあるのかと思う。彼が、こんな赤面するしかないことを自分にいう訳がない。
「それとも、君は私の不在など気にならなかっただろうか……?」
夢とはいえ、そんな風に眉をさげないでほしい。愛しく感じて、胸がきゅうと苦しくなる。
「あぅ……、わたしも、寂しかった、です……すごく」
たとえ夢でも心を偽れず、ニナは正直な心内を白状する。真っ向からいうのは恥ずかしいので、視線を伏せて呟いた。頬が熱い。
自分から視線をはずしておきながら、彼の反応が気になり、ちらりと見上げてみた。視線をあげた先にあったのは、ニナがこれまでみたとことのない甘やかな笑顔だった。夢にしては奇怪しい。こちらが溶けそうになる笑みなど、自分の想像を遥かに超えている。
夢でも奇怪しいし、現実でも奇怪しい。現実にしては、ニナに都合がよすぎるのに、夢幻にしては五感が鮮やかだ。情報の整合性がとれず、ニナはもはや混乱の極致である。
「ただいまー。あれ、フィリベルト君、戻ったのかい。おかえり」
そこに商談を終えた父モレロが、玄関先で向かい合ったままの二人へ朗らかに帰宅を告げた。
「ただいま戻りました。私は間に合いましたでしょうか?」
「ん? 間に合うって何が??」
遠征から戻った労いを受け取り、フィリベルトは心配そうに訊ねる。質問の意図が分からないモレロは、きょとりと目を丸くした。
「今日でちょうど一か月では」
答えをきくと約束を交わした日から一か月後が今日だ。だから、フィリベルトは愛馬にもう少し頑張れるか確認し、先触れもなくトッリ男爵邸を来訪したのだ。
フィリベルトに確認され、モレロはようやくあぁ、と思い至った。
「フィリベルト君は真面目だね。会う日取りを決めていなかったから、君が戻ってからいつにしようか相談しようと思っていたよ」
おおよそで問題なかったと朗らかに微笑まれ、期限厳守だと思っていたフィリベルトは愕然とする。猶予があったのなら、あんなに焦ったのは何だったのか。部下や遠征先の人々にまで協力を仰ぎ、彼らから激励を受けたというのに。
「男爵は商人でもいらっしゃるので、時間には厳格だと……」
「うん、契約書を交わしたものだったらね。けど、君とは正確な日付も決めていない口約束だろう?」
貴族でもあり商人でもあるモレロは、確かに契約は厳守する。契約書には仔細を詰めて、正確な日時を定めた期限を設けるからだ。しかし、娘の婚約者に提示した回答期限は、彼自身に考える猶予を与える目安だ。そのため、答えをきく日は答えが定まった頃に彼と相談して決めるつもりだった。それに、回答の如何によっては婚約破棄を視野に入れているとは伝えたが、回答が遅れた場合のデメリットなどは何も設けていない。
フィリベルトが遠征になったのも考慮して、ずいぶんと優しい期限の目安であったのだ。
モレロに齟齬を解消され、早とちりしたことを恥じればいいのか、取り越し苦労に脱力すればいいのか、判断がつきかねた。フィリベルトは、ぐっと堪えたような厳しい表情になる。
「せっかく来たんだ。答えを聞こうか」
少し可笑しげにモレロは、娘の婚約者を応接室に通した。娘のニナは、顔を真っ赤にして固まっていたので自室で休むように申し付けた。ふわふわした足取りだったので、メイドが付き添ってくれた。あれは、知恵熱をだすかもしれない。
「いやぁ、フィリベルト君も存外青いところがあるんだね」
用意させた珈琲で一服し、モレロは可笑しさを隠さず再会の感想を述べた。焦って先走るとはなんとも青年らしい。そういえば、彼は先日の誕生日で二十歳になったばかりだ。年相応な一面を垣間見れて、愛嬌を感じる。
「それだけ、ニナのことを考えてくれてありがとう」
焦燥を覚えるほど、真剣に考えて答えをだしたのだろう。舅の小言など煙たがれそうなものなのに、誠実な青年だ。
指摘通りすぎて、肯きづらいフィリベルトも珈琲に口をつけた。香りが香ばしく、苦みがまろやかでミルクにも合いそうな豆だった。今のフィリベルトには苦さが弱く感じた。失態を晒したばかりで、身を引き締めたい心情だったので物足りない。
遠征帰りのフィリベルトと、商談帰りのモレロ、度合いの差こそあれ互いに疲労がある状態のための珈琲だろう。これからするのは大事な話だ。確実にフィリベルトの命運を分ける。
「さて、答えだけど」
きかずともモレロには知れていた。帰ったときに彼の両手が娘の肩にあったのだ。そのときの二人の表情でおおよそは伺い知れた。
だが、約束ではあるので今一度問う。
「フィリベルト君は、ニナを愛してるかい?」
「はい」
まっすぐに見返すアメジストの瞳から、しかと肯定が返った。一か月前とはずいぶん様変わりしたものだ。あのときは、瞳が揺れて迷いがありありとみて取れた。
「彼女に近付いた理由は、自己都合だけのものでした。だというのに、ニナ嬢はそんな私を知ったうえで想ってくれた。もう彼女を手放すなど考えられないのです。むしろ、彼女に求められる男になりたい」
目の前の彼のように、彼女の幸せを考えれば自身から解放してやるのが正解だと分かっている。本人が責めなくとも、彼女を傷付け失望させ続けた過去が消えるものではない。理性では自分のような男は相応しくないと判断できるのに、心が頑として頷かない。
彼女と向き合った分だけ、見落としてきたものの多さと重さを思い知った。いつ彼女から見限られても奇怪しくない状況だったというのに、彼女が自分を想い続けてくれたことに歓喜した。
縋ってでもこの婚約を維持したいのは、ニナではなく、フィリベルトの方だ。
熱烈だと、モレロは感心した。エゴを隠さないまっすぐさに若さを感じる。本来二人で歩むものを一方的な関係のままにはしておけないと口を挟んだが、娘の選んだ男は恋を知るとこのようになるのか。
娘を乞う男が現れたことを、モレロは喜ばしく思う。
「なので、どうか認めていただけないでしょうか」
真摯に頭をさげてくるフィリベルトに、モレロは返事をしていなかったと気付く。彼の変わり様をみて満足してしまっていた。
「ああ、もう反対はしないよ。頑張って」
モレロは、娘の婚約者に激励を贈った。迷っているときですら視線を外さず、相手を見据えて話す真摯さを気に入っていた。互いに想い合っているのであれば、こちらは見守るだけだ。
承認に添えられた応援が、フィリベルトは気になった。引っかかり覚えたと顔にでていたのだろう、モレロは微笑む。
「ニナはみんなが手に入れられるものしか持ったことがないんだよ」
手にした以上は自身のものとして大事にするが、他の者も同等品を所持している。自分だけの特別なものを手に入れたことがないのだ。唯一人しか所有することのできないものは、いつも諦めるしかなかった。
ニナに、自分だけの特別を求めさせるのは容易ではないと教えられる。
膝に置いた手にぐっと力がこもった。フィリベルトにはただでさえこれまでの負債があるのだ。相応の努力が必要だろう。
「少なくとも、利子を付けて返します」
覚悟を決めたアメジストの瞳に、利子どころか倍返しするつもりではないかと思えてくる。娘はよい男を見初めたようだ。モレロは娘が婚姻を迎える日の楽しみが増した。
「期待してるよ」
さて、特別を手に入れた娘はどうしているだろうか。娘の自室がある方向へ、天井を見上げる。ふらついていたし、自覚できているか怪しい。だが、その役目は自分ではなく、彼の手腕にかかっている。だからこその激励だ。娘の幸せのためにも頑張ってもらいたい。
より幸福を得られるならそれに越したことはない。それが親心というものだ。
モレロの見立て通り、知恵熱をだしたニナはその夜寝込んだのだった。






