沈黙の公国
夜霧がしんと街を包み込み、街灯の灯りはぼんやりと霞んでいた。
カイン・ヴェルナーは石畳の道をそろりそろりと歩く。
かつては人の往来で賑わったこのガリツィエン公国の旧市街は、今や半ば廃墟となり、静寂が支配していた。
「……何ということだろう。」
胸の内でぽつりと呟く。
帝国陸軍の少尉である彼にとって、この地は余りにも遠く、寒々しく、また重苦しかった。
周囲は複雑に絡み合う民族と帝国の影に覆われ、かつての輝きは夢の如く遠い。
地下へと続く石段をゆっくりと降りると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
ここはかつての鳥人族、イスラル人が築いた記録の書庫の跡である。
その空間は、長い時の流れに忘れ去られながらも、なおも秘められた神秘を放っていた。
古びた扉が音もなく開き、蒼白い光が漏れ出す。
その光の中に、巨大な鉄の姿がゆっくりと姿を現した。
「神撃車……。」
カインは息を飲み、身じろぎもできなかった。
かつてこの国の独立を支えたと言われる伝説の兵器が、今、目覚めようとしている。
その時、礼拝堂の入り口に一人の女性が現れた。
普段は人間に近い顔立ちだが、鷲鼻の鋭さと琥珀色の瞳が印象的な鳥人族の女性である。
背中には、かすかに退化した羽が広がっていた。
その瞳がじわりと金色に輝き、縦長の瞳孔が浮かび上がる。
「軽度の鳥獣戯化……だな」
カインは静かにそう呟いた。
女性は深く頭を垂れた。
「少尉殿、ここは我らイスラル人の聖地でございます。どうか、穏やかな心で足を踏み入れてください。」
その声は澄み渡り、まるで遠くの山の風が運ぶ清らかな歌声のようだった。
戦火の中にあっても、まだこの地にこんな静謐な光が残っているのだと、カインは胸に熱いものを感じた。
「私はカイン・ヴェルナー。帝国陸軍の駐屯士官だ。ここに半年、配属された。」
「……あなたのような方が来るのを、待っていたのかもしれません。」
女性の瞳がさらに輝き、背中の羽が大きく広がった。
その顔立ちは猛禽のそれに近づき、頬骨が浮き出てくる。
滑空のための羽がゆっくりと広がり、空気を切る音が微かに響いた。
「中度の鳥獣戯化……儀式や戦闘の前兆でございます。」
カインは目を丸くし、問う。
「そんなに変わるものなのか?」
「段階により様々です。完全な鳥形態になる者もおりますが、長時間の維持は困難で、強い精神力を要します。」
その時、メルカバーの装甲を走る魔力の光が、カインの胸に触れた。
視界が一瞬ぐるりと反転し、遠くから警鐘の音が鳴り響く。
帝国兵の足音が迫り、何か大きな動きがあることを告げていた。
カインは拳を固く握りしめた。
「この国は、もう一度立ち上がるかもしれぬ。」
蒼い光に包まれた神撃車と、羽を広げる鳥人族の少女。
血と鉄の時代が、静かに幕を開けた。