第8話
side:エリーゼ
気づいた時には、なぜか分からない力に引かれるようにして、自分の体が浮かび、目が合ったあの人の部屋の窓へと向かっていました。
背を向けて部屋の中へと歩いていた彼は、私の呼びかけに足を止めはしたものの、いくら話しかけても、せめてこちらを振り向いてほしいと言っても、何の反応も返してはくれませんでした。
今思えば、あの人にとっても予想外の事態で、戸惑っていたのかもしれませんね?
あら、そう考えるとますます可愛く思えてきてしまいます。んん、少し自重が必要かもしれません。
ともかく、ずっと無視され続けたことで少し腹が立ち、女性としてのプライドも傷ついた私は、思い切って部屋に入ってしまいました。「そんなに顔を見せたくないなんて、どれほど高貴なお顔なのかしら?」なんて思いながら、部屋の明かりをつけたその瞬間——
それまで遠目にしか見たことがなかった皇子様を、近くで見るのは初めてだったので、その迫力に思わず圧倒されてしまいました。
でも、どうか誤解しないでくださいね、お母様。私は外見だけで惚れてしまうような軽薄な女ではありません。もちろん容姿は重要な要素ではありますが、それ以上に大事なのは内面と実力なのです。
そのすべてを兼ね備えている皇子様は、もう存在自体が反則です。まさに「歩くこの世の不公平」ってところでしょうか。
ここ数週間ずっと頭から離れなかった人が、突然目の前に現れたことで、私は心臓が止まりそうになりました。
最初に感じたのは、彼の美しい容貌や穏やかな雰囲気ではなく、瞳の奥に宿る深い悲しみでも、どこか影を帯びた雰囲気でもありません。
ただ、ずっと思い描いてきたその人が今目の前にいるという、説明のつかない感動と、まるで報われたような不思議な感情がこみ上げてきたのです。
結論から言うと、私は完全にパニックで正気を失っていました。エラール様は穏やかに「明かりを消してくれませんか」とおっしゃいましたが、私は返事の途中で舌を噛みそうになりながら慌てて明かりを消しました。
明かりを消してようやく気づいたのですが、これって……いわゆる、あの“雰囲気”ってやつですよね? 今この状況、完全にそういう“空気”ですよね? エラール様、きっと責任取ってくれますよね? ……じゃなくて!
出会ってからまだ5分も経ってないのに、こんな状況っておかしいですよね? 私は必死で理性を保ちつつ、「私たちはまだ出会ったばかりだし、こういうのは早すぎます」と常識的な線を守りながらエラール様にお伝えしました。
「出会ったばかりでも、心が通じ合えば問題ないのでは?」
なるほど。心が通じ合えばいいって、それってつまり私と同じ気持ちだってことですね? ……違う! 問題ありまくりです!
「孤独の苦しみは、私も骨身に染みるほどよく分かっていますから……」
そうおっしゃるエラール様の表情があまりに哀しげで、思わず抱きしめてしまいそうになりました。いやいや、だめでしょ!? なんなのこの危険な男!
それに「孤独」とは……東亜帝国の第一皇子で、すべてを持っている男が、そんな真剣な口調で「孤独」だなんて……信じられません!
私は魔導士。お母様もご存知の通り、魔導士というのは魔法や魔道具を扱うだけでなく、相手の心を読む力も必要とされる職業です。
つまり、熟練の魔導士である私には、嘘など通用しません。なのにどうして、エラール様の言葉は、どう見ても真実にしか感じられないのでしょうか!? こんなのずるい!
「大丈夫です。私もこういうの、初めてですから」
え? 本当ですか? 本当に初めて? 皇子様なのに? 東亜帝国の第一皇子で、将来の皇帝と目されているのに? 私がその“初めて”を……いやいやいやいや!
私は一体、何を考えてるんでしょうか!? もう無理です。このままではまともな判断ができません。この場を離れないと!
でもこの脚はさっきからなぜか前へしか動かないし、なぜ私は服を脱ぐかどうかを考えているんですか!? 意味わからない!
私の意思とは裏腹に、足は部屋の奥へと進み、胸の高鳴りが自分の耳にも聞こえるほど心臓が暴れ回っている中、私はエラール様に手を伸ばそうとしたその瞬間——
「お兄様! 何をしてるんですか!」
……くそガキ! ……じゃなくて、絶妙なタイミングで現れた皇女、ティラミス様のおかげで、なんとか危ない状況から脱することができました。
エラール様も少し戸惑っていたようですが、無邪気に抱きついてくる、……いや、愛らしい妹姫を優しく抱きとめ、その後は妹さんの拗ねた言葉にも、穏やかな微笑みで応じていました。
「今日はパーティーでエスコートしてくださるって約束したのに! 全然来ないなんてひどいです!」
「……ん? そんな約束、してたっけ?」
「また忘れたふりして! 忙しいのは分かるけど、たまには休まなきゃだめです。ティラミスとの約束は破らないでください!」
「す、すまない。つい忘れていたようだ。今からでも大丈夫かな?」
「はいっ! 早く行きましょう!」
ティラミス様に手を引かれていくエラール様の姿は、あの冷徹で緻密な策略を行った人物には到底見えず、ただただ愛らしい妹を可愛がる優しいお兄様にしか見えませんでした。
「でも、お兄様……まだ用事があったんじゃ……」
ほ、もしかして私のことを気にしてくれてるんですか!? そのとき、どこからか“ポキッ”という音が聞こえたような……気のせいですよね?
「わ、私は大丈夫です! 気にしないでください!」
「でも……」
「ほ、本当に大丈夫です!」
「……分かりました。それでは、また今度」
ま、また今度!? それってどういう意味!? 何の意味なの!?
「では、一緒に宴会場へ向かいましょう」
……うん。このお願いまで断ったら、さすがに失礼ですよね。
うん。貴族の娘として、そんな無礼な態度は取れません。
私は仕方なく、エラール様に付き添って宴会場へ向かい、一緒にパーティーに参加しました。補足すると……とても楽しいパーティーでした。
side:ティラミス
私には兄がいる。正確には、年上という理由だけで兄ぶっているバカが一人いるけど、私が愛しているのはもちろん長兄の方、エラールだ。
こっそり心の中で「お兄様」ではなく「エラール」と呼んでいるその人は、きっとこの世で最も完璧に近い存在だと思っている。
もちろん、完璧な存在などこの世にいないのは分かっている。でも、エラールはその理想に限りなく近い。エラールの優秀さに悪影響を受けるのではと心配した両親が、私とエピオンを彼とは別に育てるほどだった。
だから幼い頃は、大好きなエラールといつも一緒にいたくて、なのに会わせてくれない両親を恨んだこともあった。
その代わり、両親は常にエラールの優秀さと偉大さについて話してくれたけど、たぶん私たちとエラールの間が将来離れてしまうのではと心配したからだろう。でも話を聞けば聞くほど、エラールと共にいたいという気持ちは強くなる一方で、辛かった。
今なら両親の気持ちも少しは分かる。確かにエラールはずば抜けて優秀だったし、もし一緒に育っていたら、私とエピオンは「自分は知能が劣っているのでは」と本気で悩んだかもしれない。
どのみち、今と同じ気持ちを抱いていたのは変わらなかっただろうけど。
私たちはエラールの話を聞きながら育った。その話がきっかけで、何事にも一生懸命取り組むようになった。なぜなら、愛するエラールに少しでも近づきたかったし、勉強や修練を頑張れば、特別にエラールと遊ばせてもらえたからだ。
当時は「愛」という感情をよく分かっていなかった。ただ、エピオンやメイドたちとではなく、「私だけがエラールと遊びたい」という気持ちしかなかった。でも大きくなるにつれ、それが単なる憧れや家族愛ではないと気づいた。
双子だからか、エピオンもきっと同じ気持ちを抱いているはず。だから幼い頃から普段は仲良くても、エラールと遊ぶときだけはお互いを疎ましく思い、なんとか相手を引き離そうと必死になっていた。それは今も変わらない。
だからこそ、帝国学園に行くことになったとき、あれほど悲しかったのだ。元々あまり会えないエラールと、もっと会えなくなるのが目に見えていたから。
エラールは私たちが泣いているのを見て「別れるのが寂しいんだろう」と思って、いつものように優しく慰めてくれた。でも私たちには、その優しさが嬉しいと同時に胸が締め付けられるほど苦しかった。
しかし、エラールを除けば、帝国学園に通うのは皇族としての義務のようなもので、どれだけ泣いても駄々をこねても避けられず、結局私たちは学園に通うことになった。
学園生活はそれなりに学ぶことも多く、楽しいこともあった。でもエラールに会うことには到底及ばなかった。いつも休暇の時期だけを心待ちにしていた。
そんな中、バカな祖父のせいで戦争が起こった。生まれつき優しいエラールは、戦争を止められなかったことに苦しみながら、皇子であるにもかかわらず前線にも後方にも出向き、兵士たちを鼓舞し、数々の伝説を残したという。
エラールのその行動は妹として誇らしかったけど、彼を愛する一人の女性としては不満でしかなかった。待ちに待った休暇が来て急いで皇宮に帰っても、結局エラールに会えたのは3年間で数えるほどしかなかった。
ほとんどの場合は、休暇中一度も顔を見られず、エピオンと一緒に泣きながら戻るだけだった。たまに会えたとしても、学園に戻る前日か前々日だけ。
その短い時間でさえ独り占めできないのは、ものすごいストレスで、エピオンと何度も大喧嘩になったこともあった。もちろん、エラールはそんなこと夢にも思っていないだろうけど。
本当に、エラールのこと以外では仲の良い双子なのに、エラールに関してだけは理性が飛んでしまい、互いに宿敵になってしまう。
くそったれなストーンヘッド。そもそも全部、あの石頭どもがくだらない戦争を起こしたからこうなった。
しかも、戦争も当初の話とは違って長期戦になり、民の暮らしはどんどん疲弊していった。結局、勝てそうだった戦を欲に目がくらんで台無しにし、実質的に敗戦。無意味な協定を結んで、両国に深い傷を残して終わった。
戦争が終わるとすぐ、父上とエラールが牙を剥き、祖父の派閥は根こそぎ一掃された。
祖父自身も、エラールの手で首を斬られるという戦犯としては光栄(?)な最期を迎える寸前だったが、母上の涙の懇願によって、命だけは繋ぎとめられた。
とはいえ、全財産と地位を奪われ、派閥も跡形もなくなったため、何も持たず監視下で余生を過ごすしかない。それでも、祖父派閥にいた者たちの末路に比べれば、まだマシな結末だった。
ま、そんなことよりも大事なのは――戦争が終わってエラールが皇宮にいる時間が増えたこと! そして私も休暇中で、エラールに頻繁に会えるということ!
この3年間の寂しさを取り戻すかのように、私とエピオンはエラールにベッタリくっついて離れなかった。一緒に寝ようとまでエラールにねだったせいで、母上と父上に怒られたこともある。
国や皇宮の雰囲気も、戦後処理をうまくこなしたエラールと父上のおかげで悪くなく、むしろ敗戦国とは思えないほど、全国的に祝祭ムードが広がっている。
今日も皇宮でパーティーが開かれたけど、いつも通りエラールの姿はなかった。エラールは元々静けさを好むし、仕事も多いため、あまり部屋を出ないのだ。
家族や皇宮の皆は、エラールが仕事中のときは絶対に邪魔してはいけないと分かっているので、いつも気を使っている。でも、今日はどうしても一緒にパーティーに出たい気分だった。
エラールは優しいから、私が少し無理を言っても、いつも通り穏やかに微笑みながら一緒にいてくれるはず。そう思って、エラールの部屋へ向かったのだが――
部屋の外から誰かと話している気配がした。耳を近づけてみると、相手は女性だった。
しかも、話し方や声のトーン……女の勘で分かる。「そういう」雰囲気の会話だった。
私は我慢できずに、すぐに部屋へ飛び込んだ。中には、エラールと、彼に手を伸ばしかけたままの女性が驚いた表情でこちらを見ていた。
私はエラールに駆け寄って抱きつき、してもいない約束を口実に「一緒に来て」と言った。エラールは不思議そうにしながらも、私の言葉に従ってくれた。
今のこの状況、私はすごく気に入らない。
まず一つ目は、あの女のことを優先しようとしたように見えたこと。そして二つ目は、「私をエスコートする」と言っておきながら、あの女も一緒に連れてパーティーに参加したこと。
しかも、二人ともすごく楽しそうにしてた。
エラールに近づく虫どもは、事前に全て把握して処理してきたのに……
あの女は、一体何者なの?