処刑4日前
冷たい石の感触で目を覚ました時、私・水瀬雪音は自分の身体が別人のものになっていることに気づいた。
まず異変に気づいたのは、手だった。二十七歳の私の手には、深夜の収録作業で酷使したペンタコや台本の跡があったはずなのに、目の前にあるのは十九歳の少女のように白く華奢な手。指は細く、爪は美しく整えられ、まるで一度も労働をしたことがないかのように滑らかだった。
そして、薬指に光る美しいダイヤモンドの指輪――婚約指輪が、まるで私を嘲笑うかのように輝いていた。
(これは夢? それとも……)
重い頭を起こし、周囲を見渡す。中世ヨーロッパを思わせる石造りの牢獄。天井は高く、壁には蔦が這い、鉄格子のはまった小さな窓から差し込む光は、現代日本の蛍光灯とは全く異なる自然光だった。空気は湿って重く、かび臭さが鼻をつく。まるで時代劇のセットのようだが、石の冷たさ、湿気の感触、すべてが現実のものだった。
慌てて近くの水桶に顔を映すと、そこには見慣れた――しかし決して私のものではない――顔があった。
「エリザベート……?」
銀色の髪、氷のように青い瞳、高貴で美しい顔立ち。それは間違いなく、私が三年間声を担当していた深夜アニメ『フローズン・プリンセス・サーガ』の悪役魔法少女、エリザベート=フロストハイムその人だった。
私は声優として、この役に心血を注いできた。最初は単純な悪役として書かれていたエリザベートを、監督やシリーズ構成の先生と何度も議論を重ね、孤独感と愛に飢えた複雑な内面を持つキャラクターとして作り上げてきた。収録の度に、エリザベートの高貴で冷たい外見の奥に潜む心の闇を理解しようと努め、時には一人でスタジオに残って台詞の感情を掘り下げることもあった。
そして今日――つい先ほどまで、私は最終回の収録をしていたはずだった。エリザベートが処刑台で最期を迎える、物語のクライマックスシーン。「わたくしは……後悔などしておりませんわ」という最後の台詞を言い終えて、録音ブースから出た瞬間まで覚えている。それなのに、気がつくとここにいる。
しかも、エリザベートそのものの姿で。
混乱する私の頭に、突然記憶が流れ込んできた。まるで映画のフィルムを早送りするように、私の知らない記憶の断片が次々と脳裏を駆け巡る。スターフェリアという異世界、魔法少女の掟、そして平民虐殺の罪――それは私・水瀬雪音の記憶ではない。エリザベート・フロストハイム自身の記憶だった。
王族として生まれながら、いつも姉と比較され続けた幼少期。美しい姉の影で、常に二番手として扱われた屈辱。魔力の強さだけが自分の誇りだったのに、それすらも姉に劣ると言われた絶望。
そして――アレクサンダー王子との美しい恋愛。
幼い頃から親しくしていた第三王子アレクサンダー。金髪に碧眼の美しい王子で、エリザベートより三歳年上。心優しく聡明で、民衆からも愛されていた理想的な王子だった。二人の婚約は政略結婚として始まったが、やがて真実の愛へと育っていった。
薔薇園でのダンス、月明かりの下での語らい、将来への夢を語り合った無数の夜。エリザベートにとって、アレクサンダーは唯一心を許せる相手だった。彼だけが、エリザベートの内面の美しさを理解し、愛してくれていたのだ。
しかし、やがてエリザベートの心が歪んでいくにつれて、彼の愛も冷めていった。自分より身分の低い者を見下すエリザベートの態度に、アレクサンダーは次第に失望を覚えるようになる。
そして、一週間前の、あの忌まわしい記憶。
「エリザベート、君はもう僕が愛した女性ではない」
王宮の書斎で、アレクサンダーが婚約指輪を机に置いた時の光景。その瞬間の絶望が、鮮明に蘇る。
「君の心に巣食う闇が、僕にはもう理解できない。このままでは、君も僕も不幸になってしまう」
去っていく彼の後ろ姿。その三日後、絶望と怒りに駆られて平民たちを氷漬けにしてしまったのだ。愛する人を失った心の穴を、他者への残虐行為で埋めようとした結果があの惨劇だった。
この記憶の生々しさに、私は息が詰まりそうになった。アニメで演じていた時は、台本に書かれた設定として理解していたエリザベートの過去が、今は自分自身の体験として感じられるのだ。特に、アレクサンダーへの愛と失恋の痛みは、まるで私自身が体験したかのように胸を締め付けた。
「待って、これは本当に……」
私は立ち上がろうとして、足がもつれて床に倒れた。この身体は確かに私のものではない。筋肉の付き方、重心の位置、すべてが違う。しかし、動かそうと思えば動く。感じようと思えば感じる。石の床の冷たさ、身体を包む絹のドレスの感触、髪の重み、そして薬指の婚約指輪の重量。すべてが現実のものだった。
そんな私の困惑を嘲笑うかのように、頭の奥から声が響いた。
『何よあなた、わたくしの身体で勝手に何をなさっているの?』
私は飛び上がった。その声は、確かに私がアニメで演じていたエリザベートの声だった。しかし、私が発したものではない。アニメで演じていた高貴な口調そのもので、私の心の中に直接響いてくる。
まるで、頭の中にもう一人の人格がいるかのように。
「誰……誰なの?」
私の声に、牢獄の警備をしている看守が反応する気配はなかった。つまり、この声は私にしか聞こえないということだ。しかし、頭の中の声は即座に返事をしてきた。
『誰って、わたくしがエリザベート・フロストハイムですわ! あなたこそ何者ですの、勝手にわたくしの身体を乗っ取って』
心臓が激しく鼓動する。まさか、この身体の中に、本物のエリザベートの人格が残っているというのか。そして、私の声は外に聞こえるが、エリザベートの声は私にしか聞こえないようだった。身体を動かすのも、話すのも、全て私の意志によるものだった。エリザベートは私の頭の中で声を発することしかできないらしい。
私は声優として、様々なキャラクターを演じる中で「役になりきる」ということを体験してきた。だが、これは演技の次元を超えている。実際に別の人格と意識を共有しているのだ。
(あなたが……本物のエリザベート? でも、私はあなたを三年間演じてきた。台本で、アニメで……)
『台本? アニメ? 何ですのそれ、意味がわかりませんわ。それに、あなたの考えていることが丸聞こえですのよ。声優? 職業? 何を仰っているのかしら』
私は深呼吸をして、事態を整理しようとした。声優としての経験を活かし、相手に分かりやすく説明する必要がある。
(私は別の世界から来た人間よ。あなたたちの世界を、物語として知っている)
私は頭の中で、できる限り具体的に説明を試みた。
(セレナという光の魔法少女が主人公で、あなたは彼女と戦う氷の魔法少女として描かれている。物語の中で、あなたは十七人の平民を氷漬けにして殺害し、最終的には……)
『はいはい、ご苦労さまですわ。それで? だから何だと仰るのかしら? わたくしに説教でもするおつもり?』
エリザベートの声には、三年間演じてきた通りの高慢さがあった。しかし、その奥に微かな動揺を感じ取ることができる。そして、アレクサンダーとの婚約破棄の記憶が、彼女の心に深い傷を残していることも。声優としての技術が、彼女の感情の機微を読み取らせてくれていた。
(説教じゃない。警告よ。あなたは4日後に処刑されることになってる)
『は? 何ですのそれ、冗談でしょう? わたくしが処刑されるわけありませんわ。王族ですのよ、王族!』
しかし、エリザベートの声には昨日までの絶対的な自信がなかった。アレクサンダーに見捨てられた現実が、彼女の王族としてのプライドにも深い傷を与えているのだ。
『それに……わたくしはもう、何の価値もない女ですもの……』
エリザベートの声が急に小さくなる。その中に、失恋の痛みと自己嫌悪が混じっているのを感じ取った。
(でも現実に、あなたは今牢獄にいる。そして外では、あなたの処刑を求める声が高まっている)
『そんな馬鹿な……でも、アレクサンダー様はもうわたくしなど……』
エリザベートの声が微かに震える。初めて、彼女の絶対的な自信にひびが入った瞬間だった。失恋の傷が、現実逃避を困難にしているのだ。
その時、牢獄の扉が重々しい音を立てて開いた。現れたのは、金色の髪に青い瞳を持つ美しい少女。光の魔法少女セレナ=ライトブリンガーだった。
「エリザベート・フロストハイム、あなたの犯した罪について話し合いましょう」
セレナの声は清らかで美しく、その立ち振る舞いには主人公らしい気品と優雅さがあった。まさにアニメで描かれている通りの、正義と慈愛に満ちた魔法少女の姿だった。白と金を基調とした衣装は清楚で気品があり、その存在感は牢獄の暗さを払拭するかのように輝いて見える。
しかし、実際に目の前にしたセレナからは、アニメでは表現されていない複雑な感情を感じ取ることができた。表面的な慈悲深さの奥に、確固たる正義への信念、そして悪に対する冷徹さが潜んでいる。
『あら、セレナじゃありませんの。何をしにいらっしゃったのかしら』
エリザベートの声は私にしか聞こえない。身体を動かすのも、喋るのも、完全に私の意志だった。
「セレナ……何の用?」
私の口調がぎこちなくなる。普段のエリザベートなら、もっと気品のある話し方をするはずだった。
『もっと高貴に話しなさい! わたくしの品格が下がりますわ! それに……』
エリザベートの声が急に沈む。
『彼女を見ていると、アレクサンダー様のことを思い出してしまいますのよ。きっと彼は、セレナのような女性を愛するのでしょうね…』
エリザベートの嫉妬と絶望が、私の心にも流れ込んできた。愛する人を失った痛みが、セレナへの複雑な感情として現れているのだ。
(私は声優よ。演技ぐらいできるわ)
私は咳払いをして、三年間演じてきたエリザベートの口調に切り替えた。
「あら、セレナじゃありませんの。何をしにいらっしゃったのかしら」
今度は完璧だった。声優としての技術が、自然にエリザベートの人格を再現する。
セレナは静かに牢格子に近づくと、悲しげな表情を浮かべた。
「エリザベート、あなたは十七人もの無実の人々を氷漬けにして命を奪った。その中には子供もいたというのに」
私は愕然とした。私の中に流れ込んだエリザベートの記憶が、その瞬間鮮明に蘇る。アレクサンダーに見捨てられた三日後、市場で商人が彼女を軽んじた態度を取ったとき、絶望と怒りに任せて氷の魔法を発動した瞬間。一人、また一人と氷漬けにしていく自分。その中には、確かに幼い子供もいた。
記憶の中の光景は生々しく、まるで私自身が手を下したかのような感覚に襲われる。氷に包まれていく人々の恐怖に歪んだ顔、助けを求める声、そして静寂。胃が痙攣し、吐き気がこみ上げてきた。
(これは……本当に起こったことなのね)
アニメでは確かにエリザベートは悪役だったが、ここまで具体的で残酷な罪状は描かれていなかった。十七人もの命を奪うなど、これは確実に処刑に値する大罪だ。
『罪のない人々? 何を仰っているのかしら。わたくしは……』
エリザベートの声が震える。
『アレクサンダー様に見捨てられて、もう何もかもどうでもよくなって…でも、それは言い訳ですわね……』
私は彼女の心の変化を感じ取った。失恋の痛みが犯罪の引き金になったことを、彼女自身も理解し始めている。
被害者たちの記憶が頭に浮かんで、胸が締め付けられる。声優として様々な役を演じてきた中で、悪役も数多く担当してきたが、それらは全て架空の物語だった。しかし今、私が向き合っているのは現実の罪だった。
「その……申し訳ありませんでした」
私は自然と謝罪の言葉を口にしていた。セレナの前で、深く頭を下げる。これは演技ではない。心からの謝罪だった。
『何をしていますの! なぜ謝罪なんて! わたくしの身体を勝手に使って!』
エリザベートの怒りの声が頭の中で炸裂したが、私は身体の主導権を握っている。彼女の抗議など関係なく、私の意志で行動できるのだ。
「私は……本当に取り返しのつかないことをしてしまいました」
私の謝罪は、声優として培った表現技術を超えた、魂からの言葉だった。エリザベートの記憶を通じて感じた被害者たちの苦痛が、私自身の痛みとなっている。
しかし、セレナの表情は全く変わらなかった。むしろ、より冷たく、より失望に満ちたものになった。
「今更、そんな表面的な謝罪で許されるとでも思っているのですか?」
セレナの声は氷のように冷たかった。その眼差しには、私――いや、エリザベートに対する深い軽蔑が込められている。
「あなたは昨日まで、全く反省の色を見せなかった。それが今になって急に謝罪? 誰が信じるでしょうか」
私は言葉に詰まった。確かに、エリザベートは昨日まで全く反省していなかった。それを私が代弁していたとはいえ、セレナの目には同一人物に見えるだろう。
「処刑は予定通り執行されます。4日後、王都の中央広場にて」
セレナの宣告が、牢獄の石壁に冷たく響いた。
『ちょっと、あなた、どういうつもりですの! 勝手に謝罪なんてして!』
エリザベートの声は怒りに震えていた。
『わたくしは王族ですのよ! 下賤の者風情に頭を下げるなど、恥辱以外の何物でもありませんわ!』
しかし、その声の奥に、微かな混乱があることを私は感じ取った。アレクサンダーに見捨てられた絶望の中で犯した罪について、彼女自身も心の奥では動揺しているのだ。
エリザベートの声は激しく抗議するが、身体を動かすのは私だ。彼女がどれほど怒ろうとも、実際の行動は私が決める。
(でも、人を殺しておいて謝らないなんて……)
『殺した? わたくしは……わたくしは愛する人を失って、正気ではなかったのです! でもそれが何だと仰るのかしら!』
エリザベートの頭の中での抗議は続くが、その声には昨日までの絶対的な確信がなかった。アレクサンダーへの愛を失った現実が、彼女の心を揺さぶっているのだ。
『それに、謝罪など何の意味がありますの! 死んだ者は帰ってきませんわ!』
セレナは振り返ることなく牢獄を後にした。残されたのは、私とエリザベートだけ。重い沈黙が牢獄を支配する中、私は初めて、自分が置かれた状況の絶望的さを実感した。
しかし同時に、声優として長年培ってきた「役になりきる」技術が、この異常な状況で新たな意味を持つことも理解していた。私はエリザベートを演じるのではない。エリザベートと共に生きるのだ。
『あなた……』
エリザベートの声が、今度は少し静かに響いた。
『なぜそこまでして……わたくしなど、もう誰からも愛されない女ですのに……』
(それでも、あなたは生きているじゃない)
『生きている……何のために? アレクサンダー様にも見捨てられ、王族としての立場も失って……』
4日後の処刑まで、私たちに残された時間は短い。しかし、まだ諦めるわけにはいかなかった。声優として、そして一人の人間として、この物語の結末を変える方法を見つけなければならない。
窓の外から聞こえる夕暮れの鐘の音が、運命への挑戦の始まりを告げているかのように響いていた。そして、薬指の婚約指輪が夕陽を受けて一瞬きらめいたのは、失われた愛への最後の別れのようにも見えた。
処刑まで、あと4日――。
本作は全5話です。続きは明日、投稿いたします。
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