番外編 看護(みまも)り繋ぐ冬のこと
「津田さん、おはようございます。担当の藤崎です」
「おはよう。よろしく」
眠っていたその患者は、俺の挨拶に目を開けて、優しく微笑んで挨拶してくれた。
HCUに入っていた彼がこの一般病棟B棟フロア2に移ってきたのは昨日の昼間だという。入室対応した新人看護師の神尾がさっそく何かやらかしたようだが、
「津田さんが優しい人で良かった……」
と引き継ぎのときにナースステーションで安堵の涙を流していた。その“津田さん”の居るB22号室も俺の持ち部屋になり、いったいどんな患者だろうと気になっていた。神尾みたいな若い新人には優しくても、俺のような男性看護師相手だと色んな意味で強くあたる人もいないわけではない。それに入院中は、譫妄といって、本人の記憶もないままに普段と違う言動をしてしまうこともある。
俺の担当する高齢患者にも、毎晩暴れる人がいる。昼間は人当たりの良い患者さんなのだけど。
だから俺は、津田さんは優しい人という前情報を鵜呑みにせず、しっかりガードを固めて臨もうと気を引き締めて朝の巡回にやってきた。
初対面の印象からして、津田さんというこの患者は、男性看護師に向けて横柄に応じる類いの人ではなさそうだ。少なくとも平常時は。夜もずっとそうであってほしいな……俺がいる間は。
今日は長日勤で、朝から夜の9時まで勤務なんだ。
「藤崎さんのボールペンは、食パンか」
体を起こした津田さんが俺の胸ポケットをちらりと見て笑った。
食パンの、それもスライスじゃなくて一斤型のフィギュアがついたボールペン。俺のお気に入りだ。目立つからまず失くすことがないし、誰かにうっかり持っていかれても、その都度取り返せるので重宝している。
名札を見たついでにボールペンにまで気付いてくれるとは。嬉しい。このフロアの患者には珍しく、俺と歳も近い。親しみやすそうな人かも。ついガードを緩めすぎた俺は
「そうなんですよ~、美味しそうでしょ?津田さんはパン派?米派?」
なんて気安く話を振ってしまった。津田さんは途端に難しい顔になる。
しまった、馴れ馴れしくしすぎたか。
俺が慌てて、
「すみません、検温とモニターチェックを」
体温計を差し出すと、津田さんは黙って受け取って腋に挟みながら、首から吊るした袋から心電図モニターの送信機を取り出してくれた。
「酸素、98っと。大丈夫ですね」
「……どちらかというと、僕は麦飯派」
不意に真面目な表情で津田さんが言った。
俺のふざけた問いに時間差で返事をしてくれたのか。俺は笑いそうになるのをこらえて頬を引き締める。
「あ、えっと。麦飯ですか」
「麦飯は麦を炊いたものだ。パンと米の二択に沿っていないのは分かっている」
独特な人だなぁ。
「藤崎さん。そんなに緊張しないでいい。僕は怒っているわけではない。まぁ、愛想は全くないがね」
真面目な顔のまま柔らかい声で津田さんが言った。俺は曖昧に笑った。
ここで肯いてしまったら、俺が緊張していると認めたようなものだし、津田さんを無愛想だと言ってることになる。俺の緊張はともかく、津田さんは愛想がないわけではないと思う。挨拶の時も食パンを見た時も、表情は笑っていたし。でも津田さんの言葉に、当たり障りのない上手い返しが思い付かない。
そこへ体温計が鳴った。いいタイミングだ、助かった。津田さんは体温計を取り出すと、俺が見やすいようにくるっと液晶をこちらに向けてくれる。
「体温、37度8分?……今朝より上がってますね」
俺は数値をパソコンに入力しながらバイタルの経過記録を見て唸った。
津田さんがもそもそと掛け布団に潜り込んでいく。
「次の点滴まで、眠っていいか?」
既に眠そうな声。熱のある体で起き上がったせいで疲れたのだろう。
「あ、じゃあ血圧も測っちゃい……」
俺が言い終わる前に、すぅと寝入ってしまった。
9時まで寝かせておくか。あと三十分。他の病室も回って、それからもう一度来よう。 年配の患者が多い部屋の巡回を終え、津田さんのベッドに戻ってくると、津田さんは目覚めていた。リモコンを操作してベッドの頭側をうぃーんと上げている。
熱あるんだから横になっていなさいよ。
「藤崎さん。さっきは眠ってしまって悪かった。血圧がどうのと言っていた気がしたんだが」
処置があるなら、叩き起こして構わないと津田さんが言う。
「夜、眠れなかったんですか?」
転棟したばかりで、眠りが浅かったのかもしれない。
「いや、よく寝たと思う。むしろ入院して以降、朝も昼も眠ってばかりだ。ほぼ一日中、ベッド上だからかな。これでも起きているよう努めているんだがね」
不満げにつらつら言いながら、右腕を差し出してくれる。俺は手早くカフを巻いた。
この歳の男性にしては細い腕だなと思いながら血圧計を操作する。低めだけど正常値の範囲内だ。血圧、脈拍を記録しながら俺は訊いてみた。
「単独離床の許可、出てますか?出てたら、病棟内なら歩いて良いですよ。そしたら昼間、起きていられるでしょう。あ、熱あるときは無理しちゃ駄目です」
「手洗いには一人で歩いて行くが、ナースコールで一声かけるよう言われている。それで歩き回っていいんだろうか?」
あ、微妙な線だなこれは。俺が離床の許可を出したように誤解されても困る。
「確認しておきますね」
「手間をかけるね、よろしく頼む」
津田さんは言って、ベッドの角度を水平にして枕を直し、そこに頭を落ち着けた。完全に眠る体勢だ。
「……起きてるんじゃなかったんですか」
俺が思わず突っ込むと、
「離床許可が下りるまで、眠ることにした」
津田さんはくっくと喉を鳴らして笑い、……俺が病室を出る前に寝てしまった。
その日の夕方、熱の下がった津田さんに単独離床と飲水の許可が出た。
「藤崎さん。離床も考えものだねぇ」
夜7時に点滴の様子を見に行ったついでにペットボトルを指して
「ラウンジまで行ったんですね」
と声かけたら津田さんはそう言った。
「結局、疲れて、物凄く眠いよ……藤崎さんは、今日は朝からずっと勤務だね」
あくびを噛み殺し、うにゃうにゃ言っている。
「えぇ。今日は夜もあるんで。おやすみなさい」
俺は寝かかっている津田さんにそう挨拶して、ベッドをあとにした。
夜9時前に看護師の交代を知らせに行ったら、津田さんはぐっすりとよく眠っていた。その穏やかな寝顔に、俺は津田さんを起こさないよう、静かに病室を後にした。
夜勤の看護師に引き継ぎを済ませ、俺は急いで帰宅する。明日は夜勤だ、早く帰ってしっかり休みたい……。
シフトの都合上、俺は今年も年末年始、連日出勤する。世間が長期休暇に入る時、独り身の俺はシフトが連勤になりがちだ。それも、朝8時半から夕方5時までの日勤と夕方4時半から翌朝9時までの夜勤に加え、朝8時半から夜9時までの長日勤も組み合わせての勤務。生活リズムがめちゃくちゃだ。
とにかく家に帰れる日は風呂に浸かってベッドでぐっすり眠るんだ。
晦日の夕方、俺は夜勤のシフトで病棟へやって来た。引継ぎによると、B22室は夜間著変なし。今日の日中も定刻で検温、点滴実施。津田さんは夜間も平穏無事に過ごせたようで何よりだ。ちなみに、例の患者さんは昨夜も元気に暴れたそうだ。この患者は、主科の専門病棟にいたときの方が、夜間は落ち着いていた。身体の状態が少し良くなって一般転棟してから、夜間譫妄が始まっている。いつになったら収まるだろう。
今日は夜勤明けにそのまま日勤というシフトに変更されてしまった。こんな連勤は、いくら何でもひどいと思ったけど、シングル家庭の看護師が、お子さんが熱を出したそうで急遽休みを取ったのだ。
この年の瀬に熱発とは。親も子も大変だなぁ。事情が事情なので、俺が頑張るしかない。
……毎晩暴れる患者だけじゃなくて、あの常に平穏無事そうな津田さんも担当させてもらえるんだ。どんなシフトも乗り切ってみせる。
夕方5時に看護師交代の挨拶に行く。
「こんにちは、夜担当の藤崎です」
病床に顔を出すと、津田さんは起こしたベッドにもたれてぼーっとしていた。
俺をちらりと横目で見て
「ん」
と頷くだけ。初対面の挨拶とは対照的に、そっけない。
ベッドサイドに、食パンの絵が落書きされたメモが置いてあった。絵、上手いな。
その絵の下に丁寧な字で俺の苗字とたくさんの数字が書き添えられている。数字、何が書いてあるんだろう。さすがにベッド越しだとそこまで見えない。
俺がメモを読もうとしていることに気付いた津田さんが、そっとメモを裏返してしまう。
傍らの腕時計を見て、
「5時だね」
ため息混じりに津田さんは言って、もそりと寝返りを打って俺に背を向けた。
どうしちゃったんだ津田さん。俺が嫌なの?それとも看護師と何かあったの?
上がろうとしている日勤看護師を急いで捕まえて、津田さんと何かあったのか聞いてみた。
いつベッドを訪れても行っても穏やかな態度で、特に気になる様子はなかったという。
「あぁ、でも」
と日勤の赤間看護師が思い出したように言った。
「朝9時に、夜勤の森里さんと交代でベッドサイドに行ったら、藤崎さんはいつ上がったのか尋ねられました。夜9時に帰ったって伝えたら妙な顔してましたね。森里さんも昨晩の点滴開始の時に、藤崎さんは夜勤じゃないのか聞かれたって言ってました」
もしかして、昨晩、挨拶もなしに俺が居なくなってて機嫌損ねてる……?
いやいや、それは俺の自意識過剰だ。
単に担当がころころ代わって困惑したんだろう。
津田さんのいたHCUには日勤と夜勤しかない。というか、長日勤は一般病棟B棟だけで試行中の勤務体制なのだ。夜7時に俺がいたら、今日の夜から明日朝までも俺が来ると思っていただろう。
それなのに朝になったら別の夜勤が居て、当たり前のように日勤と交代したのだ、長日勤をしらない人から見れば、夜7時にいた俺は何だったんだと、訝しむかも。
様子を見に津田さんの病床を訪問したら、ベッドは空っぽだった。
珍しい。特に検査の予定は入っていなかったはずなのに。
「藤崎さん?何か、処置?」
後ろから声をかけられた。
小さなビニールの手提げを持って、首にタオルを引っ掛けている。シャワーに行っていたのか。
離床は疲れると言っていた割に頑張って日中活動しているようだ。
「えっと、俺、俺のシフトね。明日の、」
「朝8時過ぎまで?」
と聞かれる。あ、夜勤の勤務時間は把握しているんだな。
津田さんは棚に荷物をしまい、ベッドに腰掛けて俺を見上げる。
「それが、そのまま日勤で」
「明日の夕方5時頃まで居るの?……大変だね、お疲れ様」
「あ、ありがとうございます。あの、……さっき、伺った時……」
言いかけて、俺は悩んで口籠る。言葉少なで挨拶も頷きだけで俺に背を向けたのは何故なんて聞けない。
ただ眠かったとか、ちょっと機嫌が悪かっただけとか、事情はいくらでも考えられるし、いちいち詮索してどうする。そもそも、津田さんの態度をここまで気にする自分にちょっとびっくりしている。
津田さんは黙って俺を見上げたまま、俺の言葉の続きを待っている。
「あ、その。昨晩は……俺が上がったあとも、よく眠れたようで、何よりです」
津田さんは俺の言いたいことに気付いたようだ。
口元に片手の指先を当てて少し考え、難しい顔で口を開いた。
「さっき、挨拶に来た藤崎さんに返事をしなかった自覚はある。だいたい眠いので、たとえ目が開いていても頭は働いていない。声をかけられても反応が鈍いことが多い。失礼なのは重々承知だが、気にしないでほしい。……それから、交代の時間には起きているようにするけれど、眠っていたら叩き起こしてくれ」
と頼まれた。俺がうなずくと津田さんの表情が緩んだ。ベッドに入った津田さんはサイドテーブルから例のメモ用紙をとって俺に見せてくれた。
フジザキさん12290900〜1700〜1230600(2100モリサトさん-12300600モリサトさん0900アカマさん)
数字は、俺が訪床するだろうと予想していた日時と俺が来なかった処置の時間だ。
「夜7時に居た看護師が、翌朝の起床時に巡回に来ないこともあるんだね。朝から居たし、そのまま夜勤は労働時間が長いなとは思ったんだけど」
津田さんはやっぱり昨晩というか今朝いなかった俺のことを気にしているようだ。
「昨日は、朝から夜9時までの、長日勤っていうシフトだったんです」
俺が答えると、やっと納得がいったようだ。
ほっと息をついて、津田さんが呟いた。
「……君にまで何か累が及んだかと肝を冷やした」
どういうことだ?
俺が、え?と聞き返すと、津田さんはひらりと手を振り、
「日勤と夜勤しか知らない僕には、夜勤の時間帯にいた君が早く上がったと言われても、それが何故なのかがさっぱり分からなくて。最初からそういうシフトだったんだね、安心したよ」
と肩を竦めて笑った。
「ところで、処置をしにきたのか?」
「え、あ、特に……」
「わざわざ挨拶をもう一度しに来てくれたのか?……有難う。今晩、あと明日の夕方まで、よろしく頼む」
津田さんはふわっと笑って言った。
そして、メモ用紙に301700〜310900〜1700と書き足した。
「1月は、藤崎さんは来るのか?」
「1日の9時から夕方5時まで」
「そうか」
津田さんはうんうんと頷いた。
特に異変もなく時間が過ぎる。出来事といえば、夜間譫妄の例の高齢患者が呼吸器科の専門病棟に移ってしまったことくらいだ。
津田さんは朝一番に水のボトルを買い、夕方にシャワーを使う以外はずっと眠っている。日中も夜も。点滴交換の声かけで起きてくれるけれど、よくここまで眠れるなぁと思う。
大晦日の朝。
「津田さん、採血あるんですけど、今いいですか?」
俺がゴム手袋を嵌めながら訊ねると、
「ん……既にやる気だね、藤崎さん。それに応えようじゃないか」
眠そうにしながらも津田さんは留置針のない方の腕の袖を捲ってくれる。曝け出された生白い肘窩に俺は固まった。
「血管、今日も見えないッスね」
「その、内出血を辿って、その辺りはどうだ?」
津田さんが苦笑しながら指したところに、点々と何かの痕がある。
「転棟した昼の痕だと思う」
新人看護師の神尾の言っていた“やらかし”だ。2回試してうまく採血できず、結局、先輩看護師に代わってもらったと神尾から聞いた。患者の体への侵襲的処置を、手技の拙さからやり直しになるなんて、あまりよろしくない。不慣れな看護師に一人で処置をさせたのもまずい。
もう少し体制を整えてもらいたいな、人員とかシフトとか。うん、シフトとか。
津田さんの前で神尾は先輩に叱られ、何度も謝らせられた挙げ句、先輩はさっさと引き上げたそうだ。津田さんのそばには打ちひしがれた新人看護師がぽつんと取り残されていたと津田さんがこそっと教えてくれる。それで神野、患者を一人で担当するのを尻込みして、何かと俺に処置を頼んでくるのか。すっかり自信を失くしているようだ。
「……僕の処置は彼女に任せてみようか。藤崎さんのサポート付きで」
津田さんの思いつきを俺は笑って流したが、ナースステーションで何の気無しに神尾に言ったら、シフトが合うときは俺が津田さんの処置に入る時に見学させてほしいと請われた。リーダーと看護師長の了解を得た上で、津田さんにも伝えると
「僕は構わないよ」
と頷いてくれた。
大晦日の昼過ぎ。津田さんに来客があった。佐倉千萱さんと、丹波雲斗さん。
身元引受人の渡会さんからは
「あいつが何と言おうと、この二人は通せ」
と言われたけれど、俺は津田さんに前もって頼まれていた通りに面会謝絶とその理由を伝えた。二人とも啞然としていた。
会いに来たからといってわざわざ起きる気はない。という自分勝手すぎる理由なのだ、そりゃあそんな反応になるよな。
「津田さんらしいや」
と若い方……丹波さんが寂しそうに笑った。
実際、日中はほとんど眠っていて、軽く声を掛けた程度では津田さんは起きないことを伝えると、自分たちが拒絶されている訳ではないと分かって安心したようだ。
「あ、あの。これを津田さんに渡してもらえますか?」
緑のリボンで口を結わえた青い小さな袋を託された。
俺が軽くて柔らかいそれを受け取って、津田さんのベッドサイドに入る。
「担当の藤崎ですー、津田さーん、入りますよー」
ここで反応が無くても入っていいと患者本人に言われている。
バイタルは安定して、熱も下がり、今朝は心電図モニターも外れた。だけど津田さんはいつもより辛そうな顔で眠っている。
朝にも少し気になった留置針の周囲が、やはり腫れている。本人は否定していたけれど、実は痛みがあるのかもしれない。滴下も終わったし、針交換しようかな。
ピッチで神尾を呼び、処置の準備を頼む。小さなワゴンを押して彼女がやってくる。
「これから点滴を替えるので一旦起こすけれど、会いますか?」
カーテンの隙間から心配そうにこちらを覗いている二人に俺は声をかけた。
津田さんも、起きている時なら二人に会うかもしれない。そう思ったのだけど。
二人は示し合わせたように、ふるふると顔を横に振った。何かすごく落ち込んでいる。まぁ、以前より痩せて、点滴に繋がれて横たわる知人の姿を見たらショックを受けるのも無理もないか。
転棟した翌朝に津田さんの体重測定をしたら、本人の事前申告より4kg減っていた。体調を崩してそれだけ痩せたのであれば、傍目には窶れたように映るだろう。
「津田さーん、針交換しますよー、起きて下さーい」
ぱちっと目を開け、俺を見る津田さん。
「あ、おはようございますー、もうお昼ですよー」
努めて明るく話しかける俺を津田さんは怪訝そうに見ていたが、ふと、既に誰もいないカーテンの向こうを見透かすようにその視線が動いた。
「来たんだね」
と呟いて、ほんの一瞬、寂しそうに目を細めてから津田さんは俺に向かって言った。
「ありがとう」
ぽつんと述べられた礼に、俺はぐっと胸を締め付けられた。
渡会さんが、津田さんが拒否しても面会者をベッドサイドに通せと俺に命じたのを津田さんも知っている。でも俺は津田さんの要望に従って、面会者が来ても津田さんを起こさないでいた。それを察してのお礼だろうけど、違う、俺は処置を口実に津田さんを起こそうとした。あの二人を津田さんに会わせてあげようとしたんだ。ごめんね、津田さん。
「処置は、すぐ終わるのか?……何度でも、起こしてくれ」
ひどく眠そうな声で問い掛けられる。
津田さんは、処置の間は何とか起きているけれど、終わるや否や入眠してしまう。
そうか。
誰かが会いに来ても途中で自分が眠ってしまうことを恐れていたんだ。
弱りきって、長く起きていられない自分を見せたくない。心配をかけたくない。だから会わない。
それで面会を断っていたんだ。
たぶん。
津田さんは本音を言ってくれないので、あくまで俺の推測。というか、今、そのことに思い至った。
だとしたら、俺はお礼を言われるどころか、真逆のことをしたのではないか。しかも、二人に津田さんの姿を見られてしまったじゃないか。
「藤崎さん?」
津田さんに声をかけられ、俺は物思いに耽っていた頭を振った。しっかりしろ、今俺にできるのは処置を早く済ませることだけだ。
「留置針、痛みますか?」言いつつルートに触れると、津田さんは歯をぐっと噛み締めた。
「痛いならちゃんと言って下さい。朝より腫れてる」
「普段は特に気にならないよ」
それは、押されたら痛むということじゃないのか。
ほら、自分の思いを言ってくれない。気遣いなのかもしれないけれど。
なんとまぁ不器用な優しさだろう。
「処置に関わるんで、少しでも違和感があったら、我慢しないで言ってください」
津田さんは看護師の俺をじっと見つめる。
「分かった」
と言って少し考え
「伸ばして脱力している時は全く気にならないが、肘を曲げた時などにはっきり痛む」 淡々と述べられ、俺と神尾は思わず顔を見合わせた。
「……針、すぐに替えましょう」
「よろしく」
固定テープとフィルムを剥がし、アルコール綿で押さえながら留置針を抜く。
よし、無事にルート抜去完了。少し場所をずらし、血管を探る。
「針刺します、……痺れたりしていませんか?」
「大丈夫です。我慢もしていません」
津田さんがぼそっと答える。何か口調違うけど、どうしたんだ。緊張してるのか?もしかして、注射とか苦手なタイプ?
「はい、終わりました」
ふーっと息をつき、津田さんが俺と神尾を代わる代わる見て
「ありがとう」
と微笑んでくれる。
「シャワー行く前に呼んで下さいね、ラップしますので」
神尾が元気に言い、津田さんがふふっと笑って頷いた。
「それ、開けないんですか?」
神尾の指摘に、津田さんはそこで初めて枕元に何かあることに気づいたようだ。
眠そうな顔で横になったまま腕を伸ばし、その袋を無造作に掴んだ。
サイドテーブルに置き、眺めている。
「ご面会に来られた、丹波さんからです」
「……入院などして、気を遣わせてしまったかねぇ」
と呟きながら、左腕を支えに身を起こす。
しゅるっと袋のリボンを解いて中を覗き込み、津田さんは凍りついた。
「ど、どうしたんですか?」
「……いや。こんな歳になって、こういうものを贈られるとは思わなくて、人前に出すのが躊躇われる」
袋の口をギュッと握る拳を口元にやって、もごもご言っている。恥ずかしいのか、顔が赤い。
「え、むっちゃ気になります、見せてくださいよ」
俺が促すと、何度か深呼吸をして津田さんは袋の中に片手を突っ込んだ
「何なら、人生で初めてだ。……こんなものを手にするのは」
言ってから、それを取り出した。
耳の垂れたうさぎのぬいぐるみ。
白い毛が首周りを飾る、淡いグレーの毛並みの胴体。
そっと津田さんがそのぬいぐるみをサイドテーブルに置く。
アイボリーの手足を投げ出して、くたっと力を抜いて座る姿が愛くるしい。
「19歳の男子大学生が他人にぬいぐるみを贈る意図も心理も分かりかねる。それもうさぎを。僕なんかに」
喜んでいるとは思えない。声も顔も引き攣っている。
「どうしたものかね、このうさぎ」
と深いため息をつく。
「あぁ、そういえば点滴のルート、全く痛まないよ。有難う藤崎さん。神尾さんも」
確かに今、津田さんは左手をベッドマットについて体を起こしている。
「津田さん、バク先輩、有難うございました」
神尾に名前で呼ばれて俺はたじろいだ。
不二崎という看護師が居て、フジサキとフジザキが紛らわしく間違えそうだからと、不二崎より年下の俺はナースステーション内では下の名前で呼ばれている。
でも患者の前で名前呼びされるのはなんか恥ずかしい。
「俺は、藤崎だ」
神尾に怒ると、彼女はしまったと口を塞いでばたばたしている。
「名前、バクさんというのかい?どんな字を書くんだ」
「麦って書いて、バクです」
俺が答えると、津田さんは背を丸めて笑いを堪えている。
「いや、失礼。名前を聞いて笑うなんて、本当にすまない。ただ、よくよくパンを連想させる名前だと思って。その上、食パンのボールペンだし」
苗字のフジとザキのことを言っているのだと気づいて、俺も思わず吹き出した。
俺、製パン企業のミックスかよ。
「あの企業は、確か山の名が由来だしフジの字は違うな、でも……あぁ、無性にパンが食べたくなってきた」
それで思い出した。
「あ、そうだ。津田さん。そろそろ食上げかも」
俺が告げると、津田さんはきょとんとしてこちらを見上げてくる。
ベッドの上でリラックスして座る姿は、うさぎのぬいぐるみと、どことなく似ている気がした。
さて。夕方5時を過ぎた。やっと上がれる。僅かばかり残業して帰ろうと思った矢先、悲しい連絡が入った。電車が事故で運転見合せ。
夜勤の職員が出勤できない事態になった。緊急でシフトを組むから、もうしばらく居てくれとリーダーに頼まれた。
今日の日勤、皆帰ったあとかよ。新年早々長期休暇をもぎ取ってやる。
津田さんのところにシフトが変わったことを報告に行くと、ベッドにはうさぎのぬいぐるみが寝ていた。
人間は何処行った。
思い当たる唯一の場所に行ったら、津田さんは水のペットボトルを手に持って、突っ立ったままラウンジのTVを観ていた。電車の事故について報道している。事故を起こしたのは回送電車で、死傷者は居ない。ほっと胸をなでおろす。
「藤崎さんは無事に上がれただろうかと気にしていたところだよ」
俺に気づいた津田さんがそう言い、
「津田さん、やっぱりお水買いに行ってたんですね。居ないから心配しましたよ。そうそう、俺、結局ね」
俺はシフト変更されたことを伝えた。
「そうか、代わりが来るまで上がれないのか……続けて働きすぎだ、仮眠しておいたほうがいいのでは?僕を探しにこさせて悪かった、もう戻るよ」
津田さんが俺の業務を減らすべく(?)ベッドに戻ってくれる。
結局、すぐに交代できる人員のあてが無いそうで、他の病棟で組まれている夜9時から深夜0時までの深夜シフトで俺は残されることになった。もう今日中に帰れないな……。
ナースステーション内にある仮眠室で休憩をとることにした。ソファが2脚あるだけの小部屋だけど、やっと横になって眠れるぞ。
とはいえ、人手が限られている今、夜9時まで俺だけぐーぐー寝てるわけにも行かないか。若手組の中では俺は年長の部類に入る。神尾もまだ残っているし、一眠りして起きて、俺は仕事に戻った。
その日の夜7時。配膳が終わった頃に津田さんの病床を覗いたら、津田さんがスマホで写真を撮っていた。お盆の傍らに座るうさぎを見て俺は笑いながら聞いた。
「何やってるんですか、津田さん」
「やぁ、麦さん。僕は突然の粥に驚いているよ」
周りに他の人が居ないのをいいことに、津田さんまで俺を名前呼びしてきた。
あぁもう、こっ恥ずかしい。
今日の献立は全粥300gに湯豆腐と、鶏と大根の煮物、ほうれん草のお浸し。
熱があるせいで津田さんが食事を受け付けず、今まで末梢静脈栄養だったのが、解熱を機に経口摂取へ切り替わった。病院食を撮った写真の片隅に、うさぎの足が写り込んでいる。
うさぎをくれた丹波さんに送ってやるのだそうだ。
「ゆっくり食べて下さいね」
「あぁ、頂きます」
きちんと礼をして、津田さんが言った。
「で、お粥の感想は」
夜9時に俺は点滴を繋ぎに行って、聞いてみた。
「あまりに量が多くて、飽きてしまったよ」
なんて津田さんは言っているけど。
津田さんは煮物や粥の汁だけ啜って、固形物は一口ずつ味見した程度だ。お茶を飲んだだけで気分が悪くなったらしい。俺は下膳した看護師からそう聞いている。
「一口で飽きちゃいました? さ、生食入れますね」
俺に指摘され、津田さんは僅かに表情を曇らせたが、黙っている。ルート内に滲んでいた血が流れていく。ベッド柵に引っ掛からないようにチューブを避け、点滴の滴下速度を調整していたら
「せっかくの食事を残したのは誠に残念だよ。もったいないな。申し訳ないね」
ぽそぽそと津田さんが言う。本当は食べたかったみたいだ。
「水は飲めてますよね?」
「まぁ、何とかね。明日の朝、少なめで流動食を試すことはできるかな。食欲はあるんだけど、胃の調子が戻らない感じなんだ」
津田さんが我慢せずに要求を伝えてくれる。
気を許してもらえたみたいで、何か俺はワクワクした。
「医師にも確認取って、明日朝にお伝えしますね」11時に点滴外しに来ますと付け足してベッドサイドを離れる。
「帰れるといいね。おやすみ」
カーテンの向こうから津田さんの声がした。俺は津田さんに早めのおやすみを返してナースステーションへ戻った。9時の処置を終え少し病棟も落ち着いたので、俺はまた仮眠させてもらうことにした。さすがに疲労が溜まっている。
ソファに体を横たえ、俺は目を閉じた。
ふと目が覚めた。まだスマホのアラームはまだ鳴っていない。消灯時刻でもないのに、小窓の磨ガラス越しに見えるドアの向こうは真っ暗だ。仮眠室の電気も点かない。
もしや、停電したか?
スマホのライトをつけて足元を照らしながらそろりとソファを下りる。
うわ、足がもつれて転びそうになった。危ない危ない。強張った体を伸ばしているうちに、やっと非常灯がついてナースステーションが明るくなった。ほっとしたのも束の間、向こうから悲鳴が上がった。
「どうした!?」
ドアを開けたら、病衣を着た誰かの背中に行く手を阻まれた。
「諸々の禍つもの、疾く去ねと宣る」
ざわざわと蠢く黒いものがその誰かの体にまとわりつき、さらに俺へと伸びてくる。
「諸々の禍つもの、我が身を籬となし給え」
黒いものが誰かの中へ消えていく。そしてその誰かが床にばたりと倒れた。
「津田さん!」
あぁ、俺を庇ってくれた頼もしい背中は津田さんだったのか。
神尾が揺り起こそうとするのを
「僕から離れろ」
怖い声で制し、津田さんは苦しげに身を丸める。その向こうに、一人の患者がぼーっと立っている。
「突然、こちらの患者さんが」
病棟内を徘徊し始めたと神尾が俺に訴える。
看護師の制止を振り切って暴れるので今の時点で唯一の男性看護師である俺を呼ぶよう、先輩看護師が指示を出した途端、この患者が怖い顔になって
「フジザキ!」と叫びながらナースステーションに侵入したというのだ。
その途端、照明が消え、皆が狼狽えるなか、津田さんが駆けつけ……彼は今、俺の目の前で苦しみ悶えている。何が起きているのか、分からない。
「誰も僕に寄るな触るな、……特に、君、来るな」
荒い息の下、その場の全員に怒鳴り、最後に俺を指さし、しっしと手を振る。
津田さんはふらふらと立ち上がり、自分のベッドへ帰ってしまった。
追い払われて呆然と立ち尽くしていた俺は、それでも津田さんを放っておけなかった。
「念の為、B22室1ベッドの患者に心電図モニターを装着し、サチュレーション、体温、血圧を測定してきます」
リーダーに確認し、俺は道具一式をワゴンに乗せて津田さんのベッドへ急行した。
カーテンも開けっ放しのまま、津田さんはベッドで呻いている。
頭を激しく振り、苦しそうだ。ナースステーションに行く時に点滴を勝手に外したのだろう、点滴棒が倒れている。点滴の延長チューブを留置ルートとの接合部から引っこ抜いたようだ。留置針大丈夫かな。
「津田さん、藤崎です、」
俺が近づくなり津田さんは、がばっと跳ね起きた。
「フジサキ」
目つきが変わる。俺の首に津田さんが手をかけようとする。
誰だ?津田さんじゃない。こいつは誰だ?
慌てて身を避ける。津田さんの指先が空中を掻く。
「津田さん、目ぇ覚まして!!」
津田さんが瞬きして俺を見る。その手をゆっくりとベッドに下ろす。
「あぁ……来てはだめだと言ったろう、麦さん……」
優しい声。あぁ、いつもの津田さんだ。
「悪しきもの禍つもの、我が身もろとも滅ぼさん」
不穏な言葉を呟くと、一瞬、真っ白な炎が津田さんを包み込んだ。
俺が大慌てて津田さんの体についた火をを払おうとしたが、それより早く炎は自然に消えた。
どこも焦げていない。
ベッドの上に力を抜いて座り込んだまま、津田さんは動かなくなっていた。
「え?津田さん?」
眠ってしまったんだろうか?
「津田さん?津田さん、起きて下さい、津田さん!!」
覗き込んだ津田さんの顔に血の気がない。俺の心臓の音が頭の中に響く。
俺は恐る恐る、津田さんの脈を取った。自分の手が震えている。
脈が弱い。
津田さんを寝かせて、心電図の電極を貼ろうと服の前を開いて手が止まった。
右半身にうねる傷痕。ひどい怪我だ。
自分の鼓動がうるさい。
手が滑って電極のシールが剥がせない。
何をしたらいい。医師に伝えなきゃ。看護師を呼ばなきゃ。いや、俺が今そばにいるのに。
あぁ、だめだ、頭が混乱している。
その時、津田さんのスマホのバイブが鳴った。身元引受人の渡会さんから着信だ。
自然と手が伸び、俺は津田さんにかかってきた電話を取っていた。
津田さんの救命措置が先なのに。俺は何をやってる。
「誰だが知らんが、すぐにこの電話を津田の耳元へ」
出るなりそう命じられ、俺は名乗ることも状況を説明することもできないまま、その指示に従った。
鈴の音や不思議な抑揚をつけてなにか唱えているような声が切れ切れに聞こえる。
数分間それは続き、ふっと津田さんが目を覚ました。
「ただいま戻りました。夜分に申し訳ございませんでした。ありがとうございました、伯父上」
良いお年を。
そう締めくくって津田さんは電話を切った。
津田さんが体を起こし、素足を靴に突っ込んでベッドに腰掛ける。
俺を真っ直ぐに見上げてくる。
「迷惑をかけてすまないね、麦さん」
泣きそうな顔。両の拳を握りしめている。俺の首を絞めようとした手を、俺に向けないように。
怖かったけど、あの時目の前にいて、俺を殺そうとしたのは津田さんじゃないという確信があった。
俺はそっとしゃがんで津田さんの手に触れ
「俺は大丈夫です。あれは、津田さんじゃなかったでしょ」
津田さんはほっと息をついて、俺の肩にとんと額を預けてきた。
「僕は、怖かったよ」
と呟いた。そしてぼふっとベッドに転がり、布団に包まった。
掛け布団からそろりと左腕を出し、俺の腕に躊躇いがちに触れてきた。
「点滴、直してもらってもいいかい?緊急事態とはいえ、チューブを抜いて悪かった」
「あ、はい。ちょっと待って下さいね。一応バイタルチェックさせて下さい」
心電図、血圧、体温、血中酸素濃度。どれも異常なし。
俺は点滴の準備を整えにナースステーションに行って、そのまま報告やらなにやらで他の看護師たちに捕まってしまった。
あの患者は念の為に処置室……要は夜間の隔離部屋に移されたが、もうすっかり落ち着いてぐうぐう眠っていた。
かなり遅くなって戻ってくると、津田さんはどうにか起きて待っていてくれた。
「すみません、遅くなって」
「いや、むしろ僕のせいで手間を増やした、すまない」
生食を流した限り、留置針に異常は無さそうで安心した。
「麦さんの処置は痛くないね」
と津田さんは疲れ切った顔で笑う。
「ところで、さっきの患者はどうなった?」
「それが、もう落ち着いて熟睡してるんですよ」
「……その患者は、譫妄で君が手を焼いていた例の患者のベッドにいるね?以前、そこは不二崎さんの担当ではなかったか?」
津田さんが真剣な面持ちで聞いてくる。
俺は記憶を手繰り、あぁと頷いた。
確かにそうだ。1か月と少し前。
その時の患者さんは、担当看護師の不二崎の処置が痛いとか雑だとか言って、いつも怒っていた。
夜間帯に他界され、結構大変だったので覚えている。
「麦さんは、彼に、その看護師と間違えられたんだ」
え? 彼って、誰?
「だから、その時の患者さんの霊」
津田さんは言って、ふわぁ……と欠伸をした。