雪の川辺と導の火
「ん……」
目が覚める。頬も手も冷たく濡れて悴んでいる。なんで雪の上に倒れているんだ、僕は。津田さんの家で、冷え切った和室の津田さんの布団に潜り込み、苦しむ津田さんを腕に抱きしめた。
そうしたら、あの傷になにかが居て、身の内から凍るような悪寒がした。
そこから記憶がない。
ここは何処だ。一面の銀世界。雲のない空は真っ黒で、星も月も見当たらない。だけど、ものはちゃんと見える。また異界に迷い込んだのかな、僕。
こういう変事に慣れつつある自分も大概だなと苦笑しながら身体を起こす。立ち上がって振り返ると、遠くに2本の灯火が明明と燃えている。暖かそうだ。灯火を境に、向こう側には雪がない。あそこへ行ってみよう。このまま雪の中にいるよりマシだろう。
ざく、ざっ、じゃり、ざく。雪を踏みしめて僕は灯火を目指して歩き始めた。
徐々に水音に近づいている。川が流れているようだ。
飲める水だといいな。喉が渇いたけれど、雪を食べるのは冷たそうで嫌だ。
灯火にたどり着いて、僕は目の前の光景に息を呑んだ。
川は、対岸も見えないほどに広かった。何だ、これは。僕の知っている川じゃない。
もう日本の川じゃないだろ。もはや内海じゃないのか。見たことないけれど……。
此方の岸から崩れた桟橋が伸び、橋には解けた舫いがゆらゆら揺れている。
舟はもう出た後のようだ。そもそも渡し船はあるのかな。
どうすればいい。ここから、どこへ向かえば帰れるんだ。
ごうと強い風が吹いて、黒い空から雪が降り始めた。寒い。寒すぎる。
雪に打たれて弱まっていく灯火の下に、僕は震えてうずくまった。
川の中ほどに、ぽっと青白い火が突然灯った。その灯にあばら屋が浮かび上がる。
近くに中洲があるようだ。誰かいるのなら、ここが何処なのか聞いて、帰り方を教えてもらおう。
川幅から考えたら、あばら屋は手をのばせば届くほどの距離に思える。
意を決して僕は桟橋を渡り、川に入った。
冷たい。でも雪原よりは遥かに温く感じる。
感覚が狂っているのかもしれないが、ある意味好都合だ。
ざぶざぶと川の中を歩きはじめる。うん。普通に進める。よし。
と思ったのも束の間。
岸の近くでは、水はくるぶし丈ほどしかなかったのに。
既にふくらはぎを超えようとしている。
あばら屋に近づくほどに、深さだけじゃない、流れも速くなっていく。
一歩ごとに体がふわっと持ち上がり、転びそうになる。怖くなってきた。
これは目測を誤ったかもしれない。
小さい頃に遊んだ渓流の川なんて、これに比べたら流しそうめんだ。
……人が絶対溺れない流れる水といえばそれぐらいしか思いつかない。
この川を、歩いて渡れるなんてどうして思ったんだ。僕の馬鹿。
どんと急に深くなった。一気に股下まで浸かってしまった。
「わぁっ」
僕はうっかり足を滑らせた。頭のてっぺんまで川の中にどぼんと沈む。
もがいて一瞬顔が水面に出ても、直ぐにまた流れに引きずり込まれる。
足がつく深さなのに、立ち上がれない。流れが速くて、泳げもしない。
パニックになる。慌てふためいて浮かびあがろうとしても、もう息継ぎができない。
川の水にさらされた目も、酸素の足りない頭も酷く痛みだす。
水が気管に入って、ごほ、ぐふ、と噎せるたびに新たに水を飲んでしまう。
もがく間にもどんどん流されて行くのを感じる。正面にあったはずのあばら屋は、すでに右手に遠くなっていた。今はもっと遠ざかっているんだろう。もう、鼻どころか目も水の上に出すことができないでいる。
とうとう身体が深く深く川に沈んだ。
さっきまで辛うじて触れていた川底に、もう靴の先が当たらない。
底なしの深みにはまったのか。
水面はどこ。真っ暗な水の中、自分がどちらを向いているのか分からない。
胸の内で何度も津田さんに助けを求めた。でも駄目だ、もう駄目だ。
――これが夢でないのなら。
明日の朝、津田さんの傍らに僕は居るだろうか?生きてそこに居るだろうか?
そうでなければ津田さんを大変なことに巻き込んでしまう。
……それは、津田さんを悲しませることになる……かもしれない。
やっぱり、和室に入らなければよかった。
貴方を助けようだなんて、僕には無理だったんだ。
助けることができるだなんて、とんだ思い上がりだった。意識が遠のいていく。
ごめんなさい。津田さん、ごめんなさい。
…………さいごに見た貴方の顔が、苦しみの表情だなんて悲しすぎる。
急に意識がはっきりと戻った。さっきまでとは違う息の苦しさのおかげで。
……本当に首を掴まれている。いったい誰が。津田さんだろうか?
引き揚げられた僕は、釣られたマグロよろしく、小舟の上に転がった。
船縁には白い焔が煌々と焚かれている。
顔を灰色の布で覆った小柄な誰かが、僕の方を見ている。
明らかに津田さんではない。
助けてもらっておいて悪いけど、ちょっとがっかりした。
その子が僕に向けて軽く手を掲げた。僕の服や髪を濡らしている水が彼の手元に集まって球になる。それを無造作に川へ捨て、
「中洲に寄る」
まだ子どもの声だ。体は乾いたけれど、凍えて歯の根の合わない僕は、何も言うことができなかった。
その子が櫓を巧みに操る舟は、激流をものともせずに川を遡っていく。
あばら屋の建つ中洲は思った以上に大きかった。大きいというより、長いといったほうが正しいかもしれない。暗く遠く見えない向こう岸へと中洲は伸びている。
もっとも、この中洲の全てが灯りに照らされているわけではないから、どこまで続いているのか分からない。暗がりを窺う僕へ、
「だめだよ。向こう岸へ近寄ってはだめ」
その子が淡々とした声音で言う。
「ここは、渡殿だもの。帰れなくなる」
その言葉。
――岸の渡殿
津田さんは、山へ行く前にそう僕に言っていた。
それならここが三途の川だというのか。僕の?
……以前迷い込んだところとはだいぶ違うな。
呑気に首をひねる僕を見て、その子は深いため息をついた。
「彼の渡殿に迷い込むなんて。キミは全く……」
初対面の少年に呆れられてしまった。
あの時、津田さんもそんなことを言っていたっけ。
「ほら、此岸の側に赤い火がついた。あれにキミはあたるといい」
その子の指さすところに、暖かそうな焚き火が見える。そこには、さっきまで青白い火が燃えていたのに。
「まずは暖まっておいで。今のキミでは、独りで雪原を越えられまい」
雪原を越えられなかったら、僕はどうなるんだ。
さらりと怖いことを言うなぁ、この子は。
言われるがままに、凍えた体をぎくしゃくと動かして歩き、暖かい火にあたる。
あぁ、やっと体に血が巡ってきた。全身がぽかぽかする。
がちがち鳴っていた歯もようやく落ち着いた。喋れそうだ。
「あの、君は誰?……えっと、ごめん。助けてくれてありがとう」
言う順番を間違えちゃった。まずお礼を言うつもりだったのに。
その子が、くっくと喉を鳴らして笑う。
「キミ。暖まったら、小舟を使って桟橋へ向かいよ。そうして、岸に上がったら、川に背を向けて走るんだ。怖ければ、岸の灯りを持っておゆき」
む。名前を言わない気なのか。
「分かった。……僕は、丹波。たんば」
「もと君だろ、知ってる。……おや、雪がまた降り出した」
雪が降り出すや、周りの気温が急激に下がった。赤かった焚き火の色が青くなる。
「青い火にあたってはだめだ。こちらへおいで」
その子に招かれるままに、僕はあばら屋に入った。火の気の無い囲炉裏と藁を編んだ丸い座布団みたいなものが置いてある。奥には衝立があって、部屋を区切っている。
周囲の壁に空っぽの燭台が据えられていて、白い焔が灯っている。どんな仕組みなんだ。手をかざしてみたけれど、暖かくない。不思議な火だ。僕が暖を求めていることに気付いたその子が謝ってくる。
「ごめんね。僕に赤い火は使えないんだ」
雪をしのげるだけでも有り難いし、明かりがあることで気分が少しは上向く。
勧められた藁の座布団に座る。冷え切った床板に直に座るよりは暖かいだろうな。
「ねぇ、君の名前は?」
しつこく訊く僕に鬱陶しそうに手を振り、
「知らなくていいってば、うるさいな」
とぶっきらぼうにその子は言った。
ちょいと襟を直し、その子は囲炉裏を挟んで僕の真向かいに正座した。床板に座っているけど、寒くないのかな。このあばら屋、暖を取れるものは1つもない。
ふと、その子の手や首筋の白さに目が留まる。色白を通り越して、血の気がない。着ている灰色の和装は、左前だ。色は違うけど、それって……。
「……君、もしかして、幽霊?」
「違う」
はっきりと返事が返ってきた。答えられることなら応じてくれるようだ。
「歳はいくつ?」
「キミより歳上」
「そうは見えないけど……中学生くらいかと思った」
「……そのくらいでここへ来て、十年以上経つ」
やや言葉に迷いながらその子は答えた。
がたがたと家が風に揺れる。室内を、冷たい風が吹き抜ける。
その子は、不意に立ち上がった。ふらふらと衝立の向こうへ行ってしまう。
「どこへ行くの」
「……キミはそこに居て。この風を、止めてくる」
弱々しくその子は言って、奥へと消えた。
程なくして、本当に風が届かなくなった。……風の音はまだ聴こえてくるけれど。
その中に、幼子が泣いているような、か細い声が混じっていることに僕は気が付いた。灰色の装束のあの子だろうか?どうしたんだろう。
気になって、僕はその子の消えた衝立の奥へ入ってみた。
狭い板張りの廊下が続いている。灯りは無い。壁に手を沿わせて歩く。
こんなにこのあばら屋、広かったっけ?
今、僕はどこに向かっているんだ……?
距離感のおかしさに僕は怖気づいて足を止めようとした。それなのに、奥から響いてくるうめき声に誘われて勝手に足が動く。
やがて、床が湿った土のような質感に変わった。ぺたぺたと素足のまま僕は進む。
足元が緩い下り坂になる。
ぴちゃり、ぴちゃりと冷たい水が足元に溜まっている。周囲の壁が岩肌に変わる。
駄目だ。これ以上奥へ行ってはだめだ。
そう本能が訴えてくる。
一方で、僕はこの奥へ行かなければならない。そんな気もする。
どうしたら良いんだ。頭がぐらりと揺れる。
洞窟のような狭い通路が開け、四角い部屋に出た。
その中央に据えられた細長い箱の中で、身を小さく丸めてあの子が呻いている。
黒い霧のようなものが、その体にまとわりついている。それに僕も絡め取られる。
「も、ど、れ!戻れ!」
あの子が喘ぎながら、僕に言うのが聞こえる。でも、僕の体は従わない。
僕はその子の手を掴んでいた。彼の冷たい手をしっかりと握る。
その子が僕の手を振り払おうとする。
僕はその子を箱から引きずりだし、そのまま抱いた。
僕の腕から逃れようと暴れるその子を、ぎゅうっと固く固く抱きしめる。
ざわり。ざわり。なにかがその子の服の中で動いている。
黒い霧に飲み込まれる。僕の脳裏に、不思議な光景が流れ込んでくる。
《 》
あぁ。これは。
彼の見たもの。彼のしたこと。
彼の心の最も奥深くに刻み込まれた、傷。
こんな記憶を独りでずっと抱えていたのか。
胸が詰まる。涙が溢れてくる。
僕は見てはいけないものを見たのだということだけ、分かった。
怯える動物のように震えながら、それでもまだ僕を引き剥がそうと足掻くその子に、僕はそっと囁いた。
辛いでしょう。もう良いよ。
もう楽になりなよ。充分苦しんだでしょう。
黒い霧が散り散りになって消える。
「どうして。見たくせに、どうしてそんなことが言えるの」
驚きと怒りの滲む声でその子が問う。
理由なんて分からないけど、そう思ったんだ。
「……君は、」
僕がその子に呼びかける。
その子は僕の唇にそっと指をあて、黙って首を横に振った。
「僕は、永劫、ここに囚われるものと彼に定められた。生者でも死者でもなく」
こんなところに居なきゃいけないの?
暗く冷たい洞窟の先に石の部屋、そして細長い箱。まるで。
「でも、それじゃあ君は」
雪の降る川の、こんな寂しいところで、独りで居続けるというの?
過去の苦しみを繰り返しその身に負いながら。
「それが役目だから」
その子は呟いた。
「行こう」
その子が僕の頭にぽんと手を置いた。頭がぐらぐらする。
気が付くと僕は中洲の赤い焚き火にあたっていた。あの羨道と石室に似た場所はどこに消えたんだ。
あばら屋の白い灯も消えている。
「彼が呼んでいるよ。必死だ。笑えるくらい」
その子が僕の後ろを指さす。
でも、そこには雪原が広がっているだけで、誰もいない。
「さぁ、暖まっただろう。舟にお乗り」
僕の手を取って、その子は舟まで一緒に歩いてくれた。
僕が乗り込むと、その子は舳先を雪原に向けて綱を解いた。
「君も行こうよ」
僕はその子に手を伸ばした。その子は首を横に振る。
「しっかり前を見てお座り」
ぴしゃりと言われ、渋々、彼に背を向けた。
後ろから、その子が僕の頭にそっと触れてくる。
「悪しき夢、」
何か唱えようとするのを僕は遮った。
「何度だって、一緒に見る」
夜ごと苛む夢の中身を。一生癒えない傷があることを。その痛みを。
「僕が、一緒に、持つ。君のこと、僕が覚えてる。だから、」
「すごいね。キミは。僕に囚われて病んだ彼を、……この永い冬を終わらせた」
どこか寂しそうな声でその子が言った。僕の髪を撫でて、慎ましく唇を押しあててきた。
小舟がゆっくりと動き出す。それを合図に、あの一面の雪原がみるみる解けていく。
川は雪解け水で嵩を増し、もとの岸と川の境も判らない。
最初に僕をここまで誘導したあの2つの灯りも、支柱の殆どが水に隠れ、川面から直に赤い炎が輝いているように見える。
「その灯を両方持ってお行き。それが必ずキミを守る。僕と彼が」
舟を押す追い風がその子の声を届けた。
舟は流れを横切り、ぐんぐん進む。
川面から、どこか暗く狭いところへ入り込む。青い炎と寒さが襲ってくる。
青い炎がちらつくたび、僕の左手の灯が燃え上がり、それを払い除ける。異様な寒さに僕が震えるたび、右手の炎が強まって僕を暖めてくれる。
やがて、左手の炎がふつりと消えた。
「 」
優しい声が耳をかすめて通り過ぎて行った。
寒い洞窟を抜けた。舟がどこかの岸辺に静かに停まる。暖かい日の光が差している。右の炎が、役目を終えたと言わんばかりに弱まっていく。
戻ってこい、うに
あぁ、ずっと聴きたかった声がする。
「今、帰るよ、津田さん」
僕が答えた瞬間。真っ白な光が視界を埋め尽くし、眩しくて何も見えなくなった。
「起きろ、丹波!!起きろ!!」
誰かが僕を呼びながらひどく揺さぶっている。それで目が覚めた。
あぁ。目が覚めたんだ。
生きて、朝を迎えられたんだ。良かった。これで津田さんを困らせずに済んだ。
体を起こす。僕のすぐ隣に、津田さんが眠っている。
まだ苦しそうに表情を歪めたままだ。
「丹波、何があった、おい、答えてくれ」
僕を必死の形相で叩き起こしたのは佐倉教授だ。その傍らに渡会教授が立て膝で座っている。でも、あまりに切羽詰まっている佐倉教授を気味悪そうに横目で見つつ、さり気なく距離を置いて座り直している。
「佐倉。落ち着け。……最悪の事態だけは免れた」
渡会教授が言う。
え、最悪の事態って、何。
「お前がここに居たから、こんなことになった。なぜお前は津田の家に居る」
そもそもこいつがお前を泊めたことが信じられん。
詰問めいた口調に圧されながら、僕は答えた。
「何故って……昨日、佐倉教授のゼミ会に」
「そんなことはどうでもいい。お前たちが仲良くラーメンなんざ食ったことも分かっている。何故、お前は、津田の寝所に入った」
渡会教授は僕を睨みつける。怖いよぉ。
「えっと、あの。すごく苦しそうに寝返り打ってて……」
あの石室で見たこと以外、僕は渡会教授に洗い浚い話した。
佐倉さんも啞然として話を聞いている。
「暖房のついた和室が冷え切っていると気づいた時点でお前は立ち去るべきだった」
渡会教授は僕に淡々と告げた。
「お前は、他人の三途の川に立ち入り、他人の死に近付きすぎた。……お前をあちらから現世に送り出し、こちらに呼び戻すのに、これは自分の魂と天命を削った。それでいまも目覚めない」
「それって……」
僕のせいで、津田さんが……その、命の危機に瀕しているってこと?
そんな、そんな……!!
狼狽える僕に、渡会教授は静かに言った。
「お前がいたからこうなった。お前がいなければ、こうはならなかった。……礼を言う」え?何でお礼を言うの?どういうこと?ねぇ。だって僕は。僕は、津田さんを。
「佐倉。……ほら、見たまえ」
渡会教授が掌を差し出す。
乗っているのはピンポン玉くらいの小さな球。細かいひびに覆われ、表面が曇っている。
それが、僕らの目の前でゆっくりと直っていく。中に、細い炎のようなものが揺らめいている。
「辛うじて命をつないだ。もうじき戻る」
渡会教授は僕を見つめながら津田さんを指さした。
「鈴の子。目覚めた時、お前が傍にいなかったら、この戯け者は狂い死ぬだろう」
さらりと何てことを言うんだ。要は、津田さんが目覚めるまでそばに居ろということか。言われなくてもそのつもりだ。
渡会教授は球の中でちろちろと頼りなく揺れる火を眺め、
「全く。揃いも揃って……」
ため息混じりに呟いた。
その球を大切そうにハンカチで包み、ジャケットの内ポケットにしまうと、渡会教授は
「これは俺が持ち帰る。……まさか、佐倉なんかに預けていたとは」
呆れているのか驚いているのか分からない声で言って、部屋を出て行こうとする。
「ちょっと、返して下さいよ、それ」
慌てる佐倉さんを振り返り、渡会教授はじとっとした目付きをした。
「佐倉。電話をかける時は、名乗れ」
この会話を成立させずにはぐらかすやり口、津田さんと似てるなぁ。
「……みっ君が……危ないかもって時に、落ち着いて電話できるかよ」
ぶつくさ言う佐倉さんの目が赤い。
「いつまで人の家に居座る気だ」
渡会教授の圧に佐倉さんは負けた。ごしごし目元をこすって洟をすすると、
「俺も家で寝直すわ。あとは頼んだぞ」
泣き笑いの顔で僕に言って、佐倉さんも立ち去った。玄関を出るまで何度もこちらを振り返り、渡会教授に思いっきり頭を叩かれていた。
本当は佐倉さんだって、津田さんの傍を離れたくないはずだ。
でも、渡会教授が強引に自分を連れて引き上げようとしたのは思うところあってのことと分かるから、渋々従ったのだろう。
眠る津田さんと二人きり。僕は津田さんの隣に潜り込んだ。
暖かい布団の中で、ひんやりした津田さんの手をとり、頬を寄せる。
その冷たい手を握り、ひたすら祈った。きゅっと目を閉じて、必死に祈り続けた。
お願い。津田さん。帰ってきて。僕のところに。
「……に。う、に」
かすかな声が僕を呼んだ。
はっとして顔を上げる。
津田さんが僕に微笑んでいる。
津田さんが、弱々しいけれど、確かに僕の手を握り返してくれる。
「ただいま」
「お帰りなさい、津田さん」
僕は津田さんに抱きついて、号泣した。
そんな僕の髪を撫で、津田さんはそっと慎ましく唇を押し当ててきた。
目覚めて、渡会教授に真っ先に詫びの電話を入れた津田さんは、今は居間でのんびりとお茶を飲んでいる。
僕にもお茶を出してくれたけど、僕はどうしても口を付けられない。
「僕の、せいで、」
津田さんは本当に死にかけたのだ。
津田さんを死なせかけた僕が、のんきに温かいお茶を飲んでいいんだろうか。
そんな小さなことまで自分に許せなくなる。
「違う。断じてキミのせいでは無い。キミが僕を呼んでくれたから、僕は帰ってこれたんだ。僕はキミに感謝している」
でも。そもそも勝手に迷い込んだ僕が悪いんでしょう?そんな僕を助けるために、津田さんは。
「景晴さんが……渡会教授がキミに何を吹き込んだのか、問い詰める必要があるな」
津田さんはふっと笑った。
「渡会さんから見ればそうなるのだろう。でも僕は……僕がキミを助けたいと思ったから術を行った。術の代償に命を失うのは、術者の未熟さゆえだ」
津田さんが少し眩しげに目を細めて語る。僕の背中側の窓から、レースのカーテン越しに朝日がさしている。
「だから、僕の両親は。蛇神の加護を得た怨霊の深青を倒せず、彼の操る宅真くんに為す術もなく殺されてしまった。そのこと自体は、僕の抱いていた、術者としての二人に対する尊敬をずたずたにしたけれど。僕は一般的な喪失の悲しみは感じなかった」
言葉を切り、手の中の湯呑にじっと視線を落とす。
「その筈だったのに。……あとは全て、キミの見た通りだ」
津田さんの、感情のない声と顔。
これがいつもの調子だと頭では分かっているけれど、今はそれがとても怖く思える。
その裏にどれだけの激情を秘めているのか。
「自覚もなく、己で制御できない感情ほど、恐ろしいものは無い」
津田さんは自嘲して言った。
その山で起きたことを。佐倉教授が駆け付ける前の出来事を。
もしかしたら、渡会教授も知らない事実を。僕は見たのだ。あの子の視点で。
もしあの光景だけでなく、音、手に伝わる感触、におい、そしてあの子の感情までもが僕に流れ込んできていたら。たぶん今、僕は正気ではいられなかっただろう。
「彼は、僕の、……過ちそのもの」
津田さんは言葉を慎重に選ぶ。
「彼を隠していることを、僕に思い出させるための、……平穏に日々を生きる僕を決して赦さず、犯した罪を忘れぬようにと、彼は僕の戒めだ」
灰色の死装束を着たあの子が、十代半ばの津田さんが、重ねて犯した過ち。
激情に駆られて、己の意思で
親友の首に手を掛け……
精一杯その両の手に力を込めた。
たとえ相手が既に怨霊の操る骸だとしても。
その時、津田さんはそれに気付いていなかったということは、つまり。
そうして、我に返った時。
津田さんはいったいどんな想いだったろう。
それは、術者として、人として、今なお自分を赦せず、誰かに赦されることも拒絶するほどの苦しみとして津田さんに刻まれている。
それでも、術者を辞めずにいるのは。
己の命を賭け続けるのは。
恐らく、そういうことだ。
「助かるのも助けられないのも、懲り懲りだ」
と津田さんは苦笑いしているけれど、たぶん違う。そう思いながらも、僕は言った。
「津田さん。僕もそれは嫌です。僕だけ助かって、津田さんを助けられないのは嫌」
自分一人が助かるのも、自分が誰かを助けられないのも。
どちらも等しく辛いものだということを、知っているなら。
たとえ僕に津田さんを助けることはできないとしても。
僕のせいで、津田さんを失うなんて、それだけは絶対に。
貴方の身に何かあったら、生きた心地がしないんだ。
愛する者を奪われる悲しみと、愛する者の命をその手で奪うことの恐ろしさを。
知っている貴方には、尚さら、分かってほしい。
津田さんは僕の言葉に目を瞠り、確かめるように訊いて来る。
「キミは、その……僕が……いや、僕の身に何かあったら……、嫌、なのか」
さっきからそう言ってるんですけど。
津田さんはしばらく考えていた。やがて、黙ったまま津田さんが僕を手招いた。近寄ったら、膝の上に座らされ、そのまま後ろから、優しく抱きしめられた。
「苦しめてばかりだな、僕は」
長い沈黙のあと、津田さんはぽつりと言った。
僕が津田さんにハグをし返そうとしたら、津田さんは僕を押し退けて寝室に行ってしまった。追いかける僕の目の前で、戸がぴしゃりと閉まる。
拒絶された……?
僕がショックのあまり立ち尽くしていたら、寝室から津田さんが戻ってきた。
「ん」
と両腕を広げて僕を迎え入れようとしている。
今度はハグ待ちですか、津田さん。
「わざわざこんなことしなくても」
「この方が良いかと思って」
笑う僕に、津田さんが喉を鳴らして笑って言った。
うさぎのセーターを着込んだ津田さんに、僕は勢いよく抱きついた。