冥き國に繋がれて
ピザも酒も尽きて、飲み会は自然にお開きとなった。樋野さんが真っ先に逃げ帰り、杉山さんも帰ってしまった。修士2年の皆さんも一人二人と帰っていって、残るは僕だけだ。
やばい。とっくに日付が変わってる。
教授も疲れたのか、居間の椅子に座って眠ってしまった。
食器を洗い終え、僕も辞去しようと思ったけれど、教授は揺すっても起きてくれない。
教授にブランケットをかけて、設定温度を低めに暖房もつける。
さて、戸締まりどうしよう。こんな時間に津田さんに連絡するのも悪いし……。
悩んだ末、僕は扉内側の郵便受けを開いておき、靴箱の上の鍵を借りて家を出た。
「さっむ!」
アパートを出るなり、その寒さに思わず声が出る。震えながら施錠して、鍵を郵便受けに放り込む。
ここから……タクシー代、払えないな。歩いて帰るしかないか。
団地の敷地を横切りながら、家までどう行けば早いかなと考える。
今日は大学から教授と一緒に来たから、家までの道がいまいち分からない。スマホの地図アプリを開いて道を確かめ、団地を出ようとした時。
「丹波」
暗い正面から不意に声をかけられ、
「わぁっ!?」
びっくりした僕は文字どおり飛び上がった。
暗がりから街灯の下へひょいと出て姿を現したのは、黒いニット帽に黒いコートの長身の男性。
口元まで巻いたマフラーを下ろし、
「今から帰るのは遅いし寒いだろ」
「つ、津田さん……」
まだ心臓がばくばくしている。
「家に泊まっていけ、うに」
「え?」
「道もあやふやなら、尚のこと」
僕のスマホ画面に表示された地図をとんと指し、津田さんは言った。
「お邪魔していいんですか?」
「キミなら歓迎する」
スーパーの袋を手首にかけた津田さんの後に続く。
「津田さん、こんな時間にお買い物?」
「無性に、食べたくなって」
袋の中身は、即席ラーメン。カップ麺じゃなくて自分で茹でるほう。
「津田さんもラーメン食べるんですね」
「流石に、米と味噌汁だけで生きているわけではない」
階段を上がり、241号室へ向かう。
「あ、教授の家の……」
鍵を郵便受けから室内に放ったことを伝えると、津田さんは少し苦笑した。
「ベッドに転がしてくる」
と言って231号室に立ち寄り、合鍵を使って中へ入っていく。津田さん、佐倉教授の合鍵持ってるんだ……。
玄関のたたきに落ちている鍵を定位置にしまい、津田さんは左手の寝室の戸を開けながら居間へ入る。
「佐倉さん、ほら、起きて」
「んあー」
寝惚けている教授を抱きかかえ、津田さんがベッドへ運んでくる。掛け布団の下へ教授を押し込み
「おやすみなさい、千萱」
津田さんは教授に囁き、寝室から出てきた。
「……手慣れてますね」
「酒を過ごすと彼は寝てしまうから……ゼミの飲み会がここでの宅飲みなのも、そのせいだ」
淡々と言うけれど、津田さんの顔は優しく緩んでいる。
「さ、僕らも帰って寝よう」
「ラーメンは?」
「僕は食べるけど、キミも食べるか?」
僕のお腹がぐぅと鳴った。
「……食べたいです」
津田さんは僕の頭にぽんと手を置き、ぐりぐりと雑に撫でて笑った。
慣れた手つきで簡単な調理をする津田さんの後姿を僕は眺めた。
こんな風に津田さんは、ささっと何か作って、佐倉さんと一緒に同じものを食べていたんだろうな。
半熟のゆで卵とキャベツともやしの乗った即席ラーメンをご馳走になる。素ラーメンでも充分有り難いのに、具まで仕度してくれた。既に綺麗に片付いた台所で、包丁とかまな板も出して。その上、僕のラーメンには、チャーシューの代わりだと言って、かりかりに焼いたベーコンも乗せてくれた。
そうやって、心を込めて作ってくれたんだ、伸びないうちに食べなきゃ。喋っている場合ではない。
斜向いに座って、2人とも無言で熱々のラーメンを啜る。
「美味しい〜……」
僕が汁の最後の一滴まで飲み干すのを見て、津田さんが優しく目を細めた。
「飲み会では、ろくに食べられなかったようだね」
「……ピザ2切れと、唐揚げと、練り物とかもたくさん食べましたけど、なんかもうお腹空いちゃって」
と僕は照れながら答えた。
普段のお昼が少食なせいか、僕は食が細いと思われがちだ。ピザも唐揚げも食べたくせに、こいつ、まだラーメン1杯ぺろっと平らげたって思われちゃったかもな。
でも津田さんは笑いも驚きもせず
「それしか食べていないのか。空腹になって当然だ」
と言ってくれた。
それに、怖い思いだってしただろ。
津田さんが付け加える。僕が緊張して頷く。
ちらっと和室を見やる。津田さんの寝室だというその部屋の、閉め切られた引き戸が怖い。僕は数時間前、その部屋に閉じ込められ……。
「そこは、僕の家の、僕の部屋だ」
津田さんがきつい声で言った。
あ、今僕は何を考えていた。教授の家と全く同じ間取りだからって。
「怖いなら和室に近付くな」
きっぱり言ってから津田さんは
「……いや、その……入らないでくれ。……散らかっているから」
ごにょごにょ言っている。
あの教授室の中で片付いているのは津田さんのスペースと給湯室ぐらいだというのに?
散らかっている津田さんの私室、すごく気になる。
「キミはそのままそこに座っておいで」
と僕を食卓に残し、津田さんは手際よく食器を片付け、お風呂の給湯器のスイッチを押す。
「胃が落ち着いたら、お湯に浸かって全身をよく清めておやすみ」
「お清めですか」
津田さんの言葉に僕が笑うと、いたって真面目な顔で返された。
「悪い念をもろに浴びたんだ、心身ともに清め、恢復するには入浴と睡眠に限る」
衣類一式、新品があるから遠慮なく使え。そう言って津田さんがてきぱきと用意してくれる。
「何から何まで……ごめんなさい、ありがとうございます」
「気にするな」
洋室のベッドを整えながら津田さんは僕の方を見もせず返事をする。
僕はあまりに手持ち無沙汰で、津田さんの椅子の背に掛けられたあのセーターを何となく手に取り、顔を埋めた。
あの和室から逃げ出せて、このセーターに受け止められた時。
恐怖に張り詰めていた心が、ふわふわに解けたのを感じた。
「……どうした」
訊ねているというより、訝しんでいる声音で津田さんに話しかけられた。
やば、津田さんが居間に戻って来る前に元に戻すつもりだったのに。
「ご、ごめんなさい、勝手に触って」
「いや、……キミはアンゴラうさぎの毛が好きなのか」
津田さんがくっくと喉で笑いながら言った。
そこへ、お風呂が沸いたことを報せるメロディーが流れた。
うさぎのセーターなんだ……
とまだぼんやり思いながら、僕はお風呂を借りた。
お湯に浸かってぽかぽかに温まった僕は新しい清潔なパジャマを着て、そのままベッドに潜り込んだ。
津田さんもお湯を落としがてら軽く一風呂浴びるようで、先に寝ているよう言われた。
僕は津田さんが隣の和室に戻るのも待てず、すぐに眠りに落ちてしまった。
夢だ。これは夢だと分かる。
長い耳と丸い尾を生やした成人男性が、身を丸めて僕にぴったりくっついている。
うさぎになった津田さんが安心しきって僕に身を預けているのだ。
ふわっと緩く巻いた髪を撫でると、長い耳を震わせて僕の手に頭を擦りつけてくる。
僕に甘えてくる大きな“津田さんうさぎ”が可愛く思えて、とても穏やかな心地になる。
やがて、“津田さんうさぎ”が眠ってしまった。僕の膝に頬を預けたまま寝息を立てている。
僕の傍が津田さんにとって心が楽になる場所なら、無防備で居られる場所なら、とても嬉しい。
現実でもそうなりたい。
津田さんをこの世に繋ぎ留める絆。渡会教授はそう言っていたけれど、そんな雁字搦めの鎖や枷じゃなくて、もっと柔らかいものでありたい。僕はそう思う。
渡会教授に叱責されたあの日、僕を固く抱きしめて嗚咽しながら津田さんは、「すまない」と詫び続けていた。
何に対する詫びなのか、怖くて聞けなかった。訊いたら、津田さんがまた離れて行ってしまいそうで。
自分に降りかかる災いが、僕に及ばないようにと僕の気持ちを拒絶する津田さんだもの。
それに、津田さん自身も、僕に興味のない風を装おうとしている。
あのマグカップだって、僕に直接贈ってくれたわけではないのだ。
ココアをもらった日に「このカップ、僕が使っていいんですか?」って訊いたら、「誰のカップでもない。……キミが占用すれば良い」なんて言っていたぐらいだ。表向きは、給湯室の備品を僕が勝手に私物化していることになっていたようだ。
カップを割ってしまってから、結局、僕はまた紙コップを使っている。
新しいカップを買う気にはなれない。津田さんがくれたことに意味と価値があるんだ。
夢の中で僕は、ベッドの上に脚をのばして座っている。
“津田さんうさぎ”の体を優しく撫でながら、僕は部屋を見回した。僕の家ではないな。
あぁ、ここは津田さんの家だ。そうだ、僕は津田さんの家にお邪魔したんだっけ。
僕をただの“佐倉教授のアルバイト”としか扱わないようにしている津田さんが、家に泊めてくれるなんて本当に驚きだ。津田さんと僕の距離が縮まったのなら嬉しいな。
色んな災いに巻き込まないように僕を遠ざけるのも、津田さんなりの僕への想いだと思うけど。
僕を傍に寄せ付けないんじゃなくて、一緒にいさせて欲しい。
それでお互いに何かあったら、一番に駆けつけて、助けあうんだ。
僕だって、津田さんを助けたいんだ。
大事だから。失いたくないから。大好きだから。
僕の気持ちなんてつゆ知らず、“津田さんうさぎ”は僕に身を寄せてぐっすり眠っている。
うさぎって、滅多に鳴かないんだよな。
ふと思い出す。苦しい時に、きーっと叫ぶだけだと話に聞いたことがある。
……“津田さんうさぎ”は。津田さんは。辛い時にちゃんと鳴いてくれるだろうか。
悲鳴を上げてくれるだろうか?
……僕に助けを求めてくれるだろうか?
ぱちりと目が覚めた。暖かい部屋で、僕は羽毛布団に包まっている。
“津田さんうさぎ”なんて、全く変な夢を見たものだ。
うさぎのセーターで遊びすぎたせいかな。
目覚めたついでにお手洗いに立ち、充てがわれたベッドに戻る途中。
閉め切られた引き戸に、僕は吸い寄せられるように近付いた。
もう和室も怖くない。
この向こうに津田さんがいる。それだけで安心できる。
ばさ、ばさっと大きな音がする。
どうしたんだろう。起きてるのかな?
そっと細く戸を開ける。
足元に常夜灯が点いているおかげで、暗いとはいえ室内の様子はだいたい見える。
ばさり。ばさっ。
津田さんは何度も寝返りを打っている。
「津田さん?」
ぺたぺたと僕は和室に入った。冷たい空気に、ぶるりと身が震えた。
寒すぎて熟睡できないのかも。
そう思って僕はエアコンを見上げた。
いや、電源入ってるし、温風も出ている。それなのにこの異様な冷気は何だ。
津田さんはずっと、落ち着きなくもぞもぞしている。
悪い夢でも見ているのなら、起こしたほうが良いかもしれない。
でも、どれだけ揺すっても津田さんは目を覚まさない。
眠りながら右腹を押さえ、ますます身を丸めるばかりだ。
深々と冷えた部屋で、夢から醒めることもできずに、声なく苦しむ津田さんをただ黙って見ていられない。
僕は布団に入り、津田さんをぎゅっと抱き締めた。少しでも痛みが和らげばと思って右半身もさする。
ざわり。
なにかの気配が、あの傷痕を這った。
僕は血まで凍りつきそうな冷えを感じた。
りん、りぃんと、か細い鈴の音がどこからか聞こえてきた。