凝る思いを振り解け
津田さんが戻ってきて、渡会教授から話を聞いた翌朝。僕が出勤すると、津田さんは、既に給湯室のスツールに腰かけていた。
ふわふわ天然パーマに黒縁の丸眼鏡。くたびれたジャケットにジーパン。
懐かしい格好で、給湯室のスツールに座って、ぼんやりしている。
あぁ、津田さんが居る。
夏からずっと、ずっとずっと、この光景を待っていた。
それなのに。僕は、もやもやしている。
「お、おはよう、ございます……」
挨拶も、どこかぎこちなくなってしまう。
「ん」
それでも津田さんは、以前と変わらない返事をしてくれる。
それを僕は喜べない。
津田さんがあまりにも、何もなかった顔をしているから。
……夏の終わりから、秋の間、そして冬の初めにかけて。
そんなにも長い間。貴方は何処に居たの。
どう過ごしていたの。
なぜ、何も言ってくれないの。
そんなにも長い間、帰ってこなかったくせに。
なぜそうも、何も変わらぬ風に振る舞えるの。
今は、何を隠しているの。
その心の奥に、何をしまい込んでいるの。
言いたいことが山ほどあるのをぐっと飲み込む。
話す代わりに、胸いっぱいに、苦い珈琲の香りを吸い込んだ。
数日が経った今朝も、僕は津田さんに挨拶だけした。何も言い出せないまま、僕は、津田さんの隣で、紙コップにあの美味しいココアを作った。
津田さんはそれをちらりと見たけれど、特に何か言うでもなく、ぼんやりと窓の向こうを眺めながら珈琲を啜った。
今朝は、窓の外に雪がちらついている。
書庫に入ると、部屋全体がほの暖かかった。いつも冷え切っているのに。というか、ゼミ室も給湯室も寒いのに。書庫だけ暖かいなんて。
「あ……」
机の足元に、小さな電気ストーブが置かれていた。昨日はなかった。
……津田さんが用意してくれたのだろう。さすが、ゼミ室の妖精さん。
床にしゃがみ込んで、そっと手をかざす。じんわりと体が暖まる。
こういうさり気ない心遣いがとても嬉しい。
「あ、あの……」
お礼を言おうと、給湯室に戻って声をかけたけれど、津田さんはもうそこに居なかった。いつの間に、部屋を出ていったんだろう?“鰻の寝床”に鞄も上着も残っていない。
出掛けてしまったようだ。
……今日はもう、戻ってこないかもしれない。
…………明日の朝、給湯室にいるだろうか?
津田さんが居ることにまだ慣れていないけれど。また居なくなったらと思うと……。
僕は震える体を自分の腕で抱きながら、書庫に駆け戻り、小さなストーブで暖まった。結局その日一日、津田さんは戻って来なかった。
次の日の朝。
いつものように僕は朝一番に、鍵を借りた。
そしていつもなら、鍵なんてささなくてもドアノブは回り、戸が開くのだ。
それが今日は開かなくて、僕はぞっとした。
震える手で鍵を開ける。
給湯室には誰も居なかった。
鰻の寝床を覗く。毛布は、昨日から畳まれてチェストの籠の中。マットレスも壁に立てかけたまま。
また、津田さんは居なくなってしまった……?
僕が茫然と突っ立っていたら、
「おはよ」と津田さんに後ろから呑気に挨拶された。
あぁ、……ほっとした。良かった、津田さん。ちゃんとここに来てくれた。
「僕より、遅いなんて。また、どこか行っちゃったのかと」
僕はなんとか言葉を絞り出したけれど、津田さんは微かに笑んで、僕の頭にぽんと手を置いただけだった。
大丈夫。もう、居なくならないよ。
そう言ってほしいのに。
そんなふうに、津田さんとはお互いに挨拶するだけの日々が続く。
僕だけじゃなく、二木さんや十郷さんも、津田さんと以前のようには話せないそうだ。僕らの距離は縮まらないままだ。
そのまま年末だけがじわじわと近づいてきたある日。
「修論に向けての壮行会を兼ねて毎年、ゼミの忘年会を俺ん家でやるんだ。丹波もどうだ?手伝ってくれるなら参加費はタダでいいぞ」
佐倉教授が素敵な条件を付けて誘ってくださった。
「いいんですか⁉喜んでお呼ばれします!」
大学進学と同時に独り暮らしを始めた僕。ここのアルバイトの他に土日アルバイトに追われる身で年末年始なんて無いと覚悟していた。主に金銭的な面で。
母は単身赴任で遠い他県にいるし、就職と同時に家を出た歳の離れた兄は海外へ長期出張中だ。
僕の学費と家賃は母と兄が出してくれているが、生活費は自分で稼げと言われている。実家に一人残っても良かったのだけど、大学まで片道2時間、交通費は学生定期でも月3万近くかかるのだ。それなら月4万の家賃を払って、片道歩いて30分で通えるほうが体が楽だ。
それはともかく。
教授の家での宴会。はたと僕は思い至った。
「あ、あの……」
津田さんも呼びますよね?と確認した途端、佐倉教授は困った顔になり
「断られた」
寂しそうに言った。
「まぁ、仕方ないよな。俺の実の息子は、あいつの親の仇だ」
いやいや、何言ってるのさ教授。
津田さんは貴方と宅真くんのために、自分の親と自分自身を投げ出してくれたんだよ。
もう、何なのこの、いい歳して依怙地な親子は。
内心、僕は呆れ返った。
帰省する人もいるからと、年末年始を避けた12月26日の土曜夜。
修士2年の五人と1年が二人。それから僕は佐倉教授のご自宅へ集まった。
宴会のメニューは寄せ鍋と宅配ピザとフライドチキン。クリスマスなのか年末なのかよく分からないけど、楽しそうだ。
メンバーが揃い、乾杯をする。9人で囲むには食卓が狭いので、乾杯と鍋は和室のローテーブルで行った。畳に各自好きに座って手酌で飲み、鍋をつつく。
僕だけ未成年なので、2Lペットボトルの烏龍茶をボトルキープさせてもらう。
酒が進んできたところで、
「今年は、津田は居ないんですね」
十郷さんがぽつりと言った。他の修士2年達は酔っ払って、勝手に隣の居間でテレビをつけて騒いでいる。
「憎い俺んとこにわざわざ来るかよ」
返す教授に、事情を知らない修士1年が首を傾げる。
「津田さんはこの上の部屋でしょ、今からでも呼びましょうよ」
僕が提案すると、1年の2人がびっくりしている。
「え、やめてよ。あんな気持ち悪い人」
と嫌がるのは杉山さんだ。
「突然ボクの背中の辺り払って、失せろとか消えろとか言ってくるんだもん」
「あ、それ俺もされた。ホントあり得ねぇ」
樋野さんも怒っている。
「ゼミ生でもないのに部屋にいるし」
「あと、樋野の彼女に向かって、お前はこいつと別れろって言ったよね」
「まじムカつくわ、そのせいで本当にフラれたし」
「室石萌愛ちゃんだろ?」
あ、僕でも名前聞いたことある。去年ミスキャンパスで優勝した、現在大学3年の生徒だ。
ぱっと人目を引くタイプの明るい美人だと思う。
というか、この人たち、そんなに津田さんのこと嫌ってるんだな……。
津田さんもまぁ、本業絡みなんだろうけど、結構奇怪なことしてるみたいだな。
「てか、君ね。どうして、津田だっけ、あんな変な人のこと気に入ってるの。まだ大学1年だよね?友だち失くすよ?」
樋野さんがにやにや笑って僕に言う。僕が何を言っても、この人は聞かないだろう。この人の津田さん批判をこれ以上聞きたくもない。悪いけど、僕が黙ることで会話を切り上げよう。
烏龍茶をがぶ飲みしながら僕は、樋野さんを無視した。それなのに
「津田は変わった奴だけど、悪い人じゃないよ」
さっきからソフトドリンクしか飲んでいない十郷さんが樋野さんに答えてしまう。
「変ですよね?やっぱり」
そこだけ拾ってげらげらと品なく笑う樋野さんを見ているのも不快だ。
教授はそんな修士1年を、困ったように笑って見ている。
ここに居ないのをいいことに津田さんが一方的に悪く言われてるの、何とかして下さいよ。
大事な津田さんのことなのに、よく笑っていられるな、この人。
「まぁ、それでも嫌だっていうなら、これを二人に」
十郷さんが小さな紙袋を差し出した。
「え、何ですか」
ちらっと見たら、ビニールのカバーがついた破邪退魔の御守だった。
「これで、津田に、失せろって言い返せばいい」
二人がどっと爆笑する。十郷さんは内定祈願に神社へ行って、ついでに後輩二人にも御守を買ってきたということだった。
「あざーっす。先輩の選んだ御守だったらなんか強そう、十郷先輩の名前、龍だし」
面白がって御守を受け取っている。
そこへ、ぽやん、と間抜けな音がした。樋野さんのスマホの通知音だ。樋野さんがさっさと御守をポケットに突っ込んで、代わりに取り出したスマホのトークアプリを開く。
「わー、まじかよ、学部の波木が事故ったらしいぞ」
室石萌愛の前彼だそうだ。室石さんはミスコンで優勝してから写真投稿アプリに自分や彼氏の写真を載せるようになったので、彼女のその時々の交際相手が誰なのか分かるらしい。
ほら、と杉山さんが彼女のアカウントを見せてくれる。ミスコン後、彼女のツーショットのお相手はざっと六人。樋野さんの写真も数枚だけ載ってる。
あー、うん。楽しそうですね、はい。
幸せな自分を見てほしいって気持ちはまだ、わからなくもない。でも、ころころ変わる交際相手をさらす人も、それをチェックする人も、不思議だなと僕個人は思う。誰が誰を好きだろうが、誰と恋愛関係に発展していようが構わないじゃないか。
「……ちょ、え?マジ意味分かんない、気持ち悪っ」
叫ぶ樋野さんの声に、はっと我に返る。
見れば、樋野さんのスマホから黒いモノが立ち昇っている。それがポケットの中へ吸い込まれていく。
スマホをその辺に打ち捨て、樋野さんが慌ててポケットの中身を引っ張り出す。どす黒く染まった御守。
カバーから黒いどろどろした液体が漏れ出て滴り始める。
樋野さんの手に付いた黒いのもいくら拭いても取れないようだ。
「ひっ……」
御守を床に投げ、樋野さんは右手をブンブン振り回して怯えている。杉山さんも引き攣った顔で、樋野さんから距離を取るようにそろりと教授の隣に移動した。
隣の部屋からは相変わらず、賑やかなテレビと笑い声が聴こえてくる。
「あの黒いの、なんですか」
誰に聞くでもなく僕が呟くと、
「津田に聞いてみようか、モト」
十郷さんが自分のスマホで津田さんに電話を掛け始めた。スピーカーホンに切り替え、僕にも聞かせてくれようとする。……なかなか出てくれないなぁ。
『……りゅー、うるさい』
寝起きだろうか、舌足らずな津田さんの声なんて超レアだ。
いいもの聞かせてもらった、ありがとう、十郷さん。
「みつ、スピーカーだぞ」
津田さんと十郷さん、愛称で呼び合う仲なんですか。僕は心の中で何故かショックを受けた。
『うるさい。電話切れ』
「そう言わずに。樋野が」
『僕と関わったら友だち失くすぞ』
それ、さっき樋野さんが僕に言ったことだよね?
「え、下の声、聞こえる?」
十郷さんもびっくりして訊いている。
『酒の入った樋野の声は大きい。そこ、和室だろ。僕はすぐ上で休んでいる。あぁ、御守が灰になったら、集めて僕の玄関ドアのところに置いておけ』
こちらの状況はお見通しのようだ。樋野さんの声、そこまで大声でもなかったと思うけどな。
それに、声が聴こえたとしても、何て言ってるかまで聴き取れるなんて。
津田さん、かなり耳がいいんだろうか。
「……樋野のスマホから黒いのが出てさ。御守が吸ってくれてるけど溢れちゃってさぁ、どうしたらいい?」
『僕は祓い屋休業中だ。それに修士1年の……樋野が僕を気味悪がって避けるのであれば助けようがないし、そんな気も起きないね』
拗ねたような声で津田さんはぶつくさ言ってる。
「樋野くん放っておいていいの?モト君も一緒にいるんだけど」
『……キミ、そこにいるのか?僕の声、聞こえるか』
これは、僕を呼んでる声だ。
「津田さんっ」
『鈴を右手に結わえておおき』
優しい、柔らかな声。
相手によってこんなに声が変わるのか、津田さん。十郷さんが笑いを堪えている。
「えー、僕には?」
と十郷さんが津田さんに言って、
『君にはとっくに渡しただろ。出会ったその日から守ってる』
呆れたような声が答える。とっくに渡したものというのは例の貝守りのことと分かるけれど、出会ったその日から津田さんに守られてるなんて。とっても羨ましい。
「教授は?」
電話の向こうで息を飲む気配がする。
ここにいる教授は、その反応に微かに目を細めた。寂しそうな顔をしている。
僅かに間を置いて、硬い声が聞こえてくる。
『居間へ移るよう、教授に伝えて。和室に樋野を閉じ込めて、他の皆は居間へ』
ぷつん。勝手に切電された。
杉山さんはすっかり怯えて、教授を引っ張って真っ先に居間へ行ってしまった。
十郷さんもそれに続く。僕も和室を出ようとしたら、
「なんだよ、あいつ変なことばっかり言って!俺を一人にするなよ」
後ろから樋野さんにしがみつかれた。
目の前でぴしゃりと引き戸が勝手に閉まり、和室の電気が突然消えた。
扉の向こうで十郷さんが僕を呼んでいる。手探りでどうにか引き手を見つけたがびくともしない。
真っ暗な中、僕の頬に粘つくものが跳ねかかる。
何これ、怖い。気持ち悪い。
「助けて!十郷さん!!開けて!」
周りの音が遠くなる。
「津田さん!怖いよ、お願い、助けに来て!」
叫んだ時、津田さんの声がふと蘇った。
――僕が落ちた時は、あの水で清めた手で柏手2回
――ウチアワセルワガタナゴコロ、ソノオンジョウヲモテ……
僕は津田さんじゃないし、津田さんの水もここにはないけれど。
思い切って、柏手を2回。
津田さん、お願い。助けて。
ぱっと和室の明かりがついた。樋野さんを振り切り、引き手に指をかけた。からっと、容易く引き戸が滑る。無我夢中で部屋を飛び出した。
「わふっ!?」
ふかふかのセーターに僕は顔を突っ込んでいた。
「よくやった、うに。すごいぞ」
津田さんが僕を抱きとめて、優しく笑った。
津田さんは居間の床にクッションを置き、僕をそこに座らせる。
あの鈴も右手に握って、じっとしているよう言われた。僕が、頬に付いた黒いのを自分で拭こうとしたら
「触らないほうがいい」
と言って、津田さんが手袋を嵌めた手で僕の頬に触れ、黒い穢れを拭い去ってくれた。「休業中だというのに、厄介ごとに巻き込まないでくれ、りゅー」
あ、また津田さんの声と性格が、がらりと変わった。
他の修士2年の皆さんも、樋野さんに起きた出来事を知らされ、すっかり酔いが醒めている。二木さんが心配そうに僕を見て、まるで僕を守ろうとするみたいに、そっと隣に座ってくれた。
津田さんは和室と居間の境に立つと、まだ畳の上で腰を抜かしている樋野さんを冷たい目で見下ろした。
「丹波の柏手がなければ、危うかった。彼に礼を言うんだな……丹波を巻き添えにしたことは許さない」
津田さんが本当に怒っている。怒りを通り越して殺気立っている。気迫が凄い。
こんな津田さん、ちょっと怖いわ。渡会教授みたいだ。
「無様だな、お前。まだあの女に未練が?それならそのまま自分の念に囚われていろ。僕は知らない」
言い捨てた津田さんは、樋野さんを置き去りにして帰ろうとする。
「津田、」
佐倉教授がか細い声で呼び止める。
「自分のゼミ生を、助けてほしいと仰るのですね」
じっと教授を見つめて津田さんが問う。
「どんな小さな術でも代償は必要です……何と引き換えるかは、その都度、術者次第」
教授が言葉に詰まる。
「……それなら」
樋野さんを助けなくていいとでも言い出すつもりだろうか。
それはそれで、いかがなものか。
僕だって、津田さんにこれ以上無茶をしてほしくないけれど。
正直言って、樋野さんより津田さんのほうが断然大事だけれど。だからといって。
身構える僕をよそに、津田さんが言う。
「あのままでは彼は取り殺される。命には代えられない」
教授が苦しげに顔を歪ませる。
「やってはならないことだって、やりますよ。貴方のためなら」
津田さんが緩く笑みを浮かべた。
「みっ君、やっぱり」
何か察したらしい佐倉教授が取り縋るのを津田さんは優しく引き剥がす。
「あぁ、そうだ。佐倉教授。紙とペンを」
渡されたメモ用紙に津田さんはさらさらと何かを記し、佐倉教授に渡した。
「万一に備えてお伝えしておきます。……景晴さんの……渡会教授の連絡先です」
どうしてそこに渡会先生が出てくるの? 万一って、何。
津田さんは灰茶のセーターを脱いで黒尽くめの出で立ちになると、てくてくと和室に踏み込んで行く。
「さて。樋野。君は今、相当不快だろうねぇ。訳が分からない怖い体験をしたと思ったら、今度は目の前に僕だ。ゼミ生でもないのに佐倉研究室にいて、脈絡なく、失せろだの消えろだの言う僕と、同じ部屋にいる気分はどうだ」
わざとらしくにこっと笑う津田さんに、樋野さんがけっと唾を吐く。
「最悪最低だね」
怯えて腰が立たず震えているという醜態をさらした照れもあるだろう。
そうとはいえ、いくらなんでもその態度は酷い。
「全て邪なるもの」
ゆっくりと津田さんが唱える。
「その業を現すならば、元なる凶ものを求めよと宣る」
スマホだけじゃない。樋野さんの身体からも黒いものが立ち昇り始める。
「何だよあんた、何言ってんだ、気味悪ぃな」
「君に分かる言葉で言えと?あぁ、……室石萌愛に振られたんだよな?僕が言った通り、別れたんだね」
津田さんが笑顔で言う。樋野さんが津田さんに掴みかかった。
「そうだよ、あんたのせいだ、あんたのせいで……!」
「全て悪しきもの禍を呼ぶもの、その業を現すならば、元なる凶ものを求めよと宣る」
樋野さんの体からぶわりと膨れ上がった黒いものが津田さんの首に纏わりつく。
「え……」
それに引きずられるように、樋野さんの手が動き、津田さんの首を抑え始めた。
「俺、何して、」
必死に手を離そうとしても、黒いのが絡みついて身動きが取れないようだ。
津田さんは首を絞められながら樋野さんの額に触れ、
「悩み煩い全て断ち切りこの者を解き放て、誘い惑わす者に疾く去ねと宣る」
唱え終え、下ろしたその手を畳の上で彷徨わせる。
やがてあの御守を探り当てると、握りこんだ。
「失せろ!」
津田さんの怒号に、黒いのが掻き消えた。
「波木が事故に遭ったのは、あの女に関わり過ぎたせいだ。……波木は、あの女がお前を捨てて作った男だと記憶している」
別れていなければ、お前が。
そう樋野さんに言って津田さんは立ち上がり、椅子の背にかけたセーターをもぞもぞと着込みながら佐倉さんの家を出て行った。
何事もなかった風に立ち去ったけれど。津田さんの首には手の痕が残っていた。
樋野さんは手を離そうとしていたから、絞める力はそこまで込めていないはずで。
そもそも津田さんも普通に声が出せるくらいだったのに。
あんなにもくっきりと痕になるなんて。
今夜も、僕の鈴は静かなままだ。
「……何なんすか、あいつ」
樋野さんと杉山さんが気味悪そうに天井をちらちら見て言った。
「つかれた時は癒やしのみっ君。お祓いがあいつの本業だから」
二木さんがにやっと笑って答える。
「あの女に未練たらたらのお前が、津田のせいで別れたと思い込んで悪い感情を持ってたから、あんな目に遭ったんだ」
十郷さんは真面目に樋野さんを叱る。
「それに、波木だけじゃないぞ。室石と別れた男は皆、怪我やら病気やらの災難に遭ってる。別れて正解じゃね?」
三堀さんが彼女の写真投稿アカウントを遡って言う。
「いくら美女でもな、2ヶ月そこらで男を次々替える女性なんて、そもそもやめとけ」
教授にまで言われ、樋野さんはしゅんと小さくなってしまった。
「まぁ、仕切り直そうぜ、ピザ温めっぞ」
四方田さんが余っているピザをお皿に集めてチンしてくれる。それを横合いから手を出して黙々と口に運んでいるのは、津田さんが言うところの“人畜無害の大食漢”こと、八戸さんだ。
二木さんがさり気なくピザのお皿を八戸さんから遠ざけ、皆がビールとピザで飲み直す。
「しっかしなぁ、たかが2週間しかくっついてないのに未練とは、よっぽどいい思いしたのか?」
ミスキャンパスとの短い恋愛について樋野さんは根掘り葉掘り聞かれて照れまくっている。
そこから、みんなの恋愛遍歴とか、好きな女性俳優やアイドルの話とかで盛り上がる。
そんな中、座り直した拍子に杉山さんがポケットからまだきれいな御守を取り出し、テーブルに打ちやった。それを見て、八戸さんが訊く。
「そういや、そごー。その御守って、もしかして津田が?」
それに肯いて十郷さんが答える。
「修士1年の2人に…特に樋野には必ず渡せって言われたんだ。何だっけ?1ヶ月以上の交際あるいは……交際開始から5ヶ月前後、あるいは破局して3ヶ月以内」
それを聞いた杉山さんがガシガシとメモ用紙に室石さんの交際歴を書き出す。
①11月末―年明け、3月頭に入院
②1月半ば―3月末、6月頭に事故
③4月頭―6月半ば、9月に入院
④6月下旬―7月初め(樋野)津田により強制破局
⑤7月中旬―10月頭(波木)12月に事故
⑥10月中旬―現在
何か改めて見ると怖いなぁ、ある意味で魔性の女性なのかもしれない。
「僕に御守を託しながら、樋野に何かあったら千萱が……佐倉教授が悲しむだろうからって、津田は言ってましたよ」
十郷さんが教授に伝えると、
「うるせぇ。一番俺を悲しませてんのはてめぇだ馬鹿野郎……って伝えてくれ」
目元を染め、佐倉教授はビールを手酌で呷って言った。