第二話 絶望とは道が途絶えた事では無く、歩む気力が尽きた時の事を云う
カーテンの隙間から差し込む日差しに瞼を焼かれ、漸う起きたのがしばらく前の出来事で。今日の天気が例年通りの気温なのか、それとも最近流行りの異常気象のあおりを受けたものなのか、それすらも分からなくなる程に世間と乖離してしまった今の自分に嫌気が差して、布団に包まりカタツムリとなっていたのが先ほどまでの事。
そして冷蔵庫の中身が自分と同じようにスッカラカンなのに気付いてどうにか出掛けたのが今の事だ。
ジリジリと照り付けるような日差しを前に、長袖に包まれた腕が蒸し焼きにされたように熱くなってしまう。出来れば袖を捲り上げたい所なのだがそうも出来ない事情がある以上、周囲からの好奇の目を逃れるようにしながら急ぎ足で駆けるしか無かった。
急いで手近なものをカゴに詰めていく。見境なくとまではいかないが、それでも最初に決めていたゼリー飲料の類を重点的に、次いで腹持ちの良いものや保存の効くものを適当に選ぶ。
出来れば安い物、割引の効いている物が良いのだが生憎と、長期保存の類と割引品おつとめ品との相性はすこぶる悪いもの。レジを通すICカードの残り少ない残高が、まるで迫りくる刻限の様に見えて人前にも関わらず背筋に震えが迸る。
どうにか取り繕ってスーパーを出たは良いが震えを堪え脂汗を掻きながらフラフラと歩く長袖の男など、周囲から見れば異物でしか無いだろうと思い至り衝動的に走り出しそうになった身体を抑え込んだその瞬間。
「あぶねえじゃねえか!」
怒声と共に降りかかって来た衝撃に、敢え無く突き飛ばされて路地裏へと転がってしまった。
起き上がって周囲を見渡せば、走り去る自転車の後ろ姿がちらりと映る。どうやら前方不注意でぶつかってしまったらしい。それがどちらの過失になるのかは判らぬが、周りを行く人の群れがコチラを気にする様子も無い辺りどちらとも言えぬ部類なのだろう。或いは自分の方こそ、自転車の前に飛び出す形になってしまっていたのかも知れないが。
ふらつく手足で起き上がったは良い物の、服にはべったりと汚れがこびりついてしまっていた。とは言え今の衝撃で、込み上げていた胸の内のムカつきが何処かへ飛んで行ってしまった事だけは、感謝するべき事かもしれない。
そう思いつつ、投げ出されてしまっていた袋を広げて中身を確認していると。
「あの、大丈夫ですか」
控えめに、されど強い意志を感じさせる声が唐突に響く。
どうにか顔を上げてみれば、そこには一人の少年が物憂げな表情を浮かべて立っているではないか。その視線の向く先はといえば、まあ自分の他には居ないだろう。こんな路地裏で他に倒れていたような人がいたならば、それこそ大問題になってしまうに違いない。
「ええっと、きゅ、救急車とか呼んだ方がいいですか?」
とは言えそんな益体もない考えが脳裏をよぎる程度には自分も疲弊していたのだろう。声を掛けられたにも関わらず、返事の一つもせず無様に蹲る事しかしていなかったのだから、慌てさせてしまったのも当然のことか。
そうでなくとも返事ができたかは疑問ではあるが。
慌てる少年を身振りで押し留めようとするも、予想以上に自分の体は疲弊していたのだろう。まさか広げて中身を確認していたエコバッグに足を取られて転びそうになるなんて、剰えそこまでの醜態を晒しながらも眼の前の少年に抱き留められてしまうなど、言語道断の振る舞いであろう。
どうにかこうにか体勢を立て直すも既に後の祭り。押し倒さずに済んだのはせめてもの救いと言えるだろうが、明らかに年下の子供に支えられるなど面目丸潰れである。そんな物、何処にも置いてやしないだろうが。
「ご、めんなッ、さい」
つっかえつっかえの謝罪にすらも咳が紛れ込む。何たることか、自分は謝罪すらも満足にできぬほど落ちぶれてしまっていたのかと、心中おちゃらけてみせた所でこの場の雰囲気が好転する筈もなし。いつから自分はこうも情けない男に成り下がってしまったのか、気まずい空気に俯いたままの視界に突如として冴え冴えとした青いラベルの飲料水が飛び込んでくる。
「これ、どうぞ!」
ようやく落ち着いてきた身体を労るように、ゆっくりと上げた視線に映るのは心配そうにこちらを見つめる少年の姿。今しがた買ったばかりなのだろうそれは、封も切られていない程に新品であることを総身で以って証明しているではないか。
「すみません。ありがとう、ございます」
我ながら落第点な、しどろもどろな返答にも笑顔を浮かべて返すなど何れだけ人が出来ているのやら。
取り敢えずはペットボトルを受け取ってそのまま一旦エコバッグへと仕舞ってから、改めて視線を合わせ謝罪を返す。
「改めて、大変申し訳ありませんでした」
「そんな!大したことはしていませんし、頭を上げてください。それよりも、体調の方は大丈夫ですか?救急車とか、呼ばなくても平気ですか?」
全く以て何と出来た子であろうか。自分よりも幾らか年若いだろうに、今の自分達を並べてみればどちらが年上か、或いはしっかり者かはどんな阿呆でも判別が付くに違いない。
「いえ、大丈夫です。……心配して下さってありがとうございます、ですが何時もの事なので、お気遣いなく」
不安げに、或いは単純にきちんと躾られているだけなのか、しっかりとこちらと目を合わせながらも静かに話を聞いてくれている。或いは顔色から体調を窺おうとしているのかも知れないが。そうして相手を見返して始めて、服を汚してしまった事に気付いて更に自己嫌悪に陥ってしまう。
「そう、ですか。……分かりました、他にお手伝い出来ることは有りませんか?」
そこまで言い募られる程自分は駄目に見えるのだろうか。路地裏で半身を汚泥に塗れさせた人間など、何処から見ても無事ではないか。
自問自答の結果がはっきりくっきり残酷な現実を告げてはくるが、何時もならば視界が黒く染まるその前に、真正面に映る少年の澄んだ瞳に心なしか気分が軽くなるような気がした。
「ありがとうございます、でも、話していたら落ち着いてきたので、もう大丈夫です」
そうなって来ると、現状に対する羞恥心その他が俄に心の内より沸き上がって来てしまうではないか。
見た目は13其処らだろうか、少なくとも自分よりは年下に見える相手にこうも世話を焼かれ心配されていると、つくづく自分という人間が駄目なのだと実感してしまう。そして、そんなことを考える自分の頭に対する嘆きが脳裏を木霊して再び醜態を晒してしまう前に、一刻も早くこの場を立ち去らなくてはいけないだろう。
「本当に、ありがとうございます。……すみませんでした、これ、お詫びです」
顔色が悪いだろう事など百も承知、向こうは未だにコチラを病人扱いしているようだが、この程度の不調ならば慣れているから大丈夫だ。財布から抜き出した万札を強引に少年の手に握らせ、急いでその場を後にする。
後ろからコチラを呼び止めようとする声が聞こえるが、それに構わず路地を通り抜けて家路につく。アパートの階段を上る最中、上へ上へと昇る身体とは裏腹に、気持ちは何処までも下に下にと落ちて一向に改善する様子も無い。
されど仕方も無いだろう、わざわざコチラを心配して様子を窺ってくれた人を相手にこの体たらくなのだ、つくづく自分という人間が厭になる。
そうして落ち込んでいるからか鍵の開閉にすら手間取る始末、冷蔵庫に袋ごと投げ入れ一目散に自室へと逃げ込む。
どうしてこうも自分は駄目なのだろうか、そんな益体も無い思考に振り回されては在りもしない世間の目から逃れる為に、きつく布団を被り小さく包まり隠れようとする。
どだいベッドに身体を預けて以降、身体を動かす気力も無いのだ。薄っすらと饐えた臭いを振りまくシャツすら、気にもならない程に思考の内へとのめり込む。
まんじりともせず胎児の如く丸まったまま、どれだけの時が過ぎていたのか。
気が付けばすっかりと部屋は暗く、外ではオレンジ色の街灯が輝いているのがカーテン越しにも良く見えた。
「飯……、食べないと……」
言葉に出しても手足に力が入らない。硬く布団を握りしめたままの両の手が、ここから逃げ出すことを拒む様に立ちはだかる。次第に茹で上がった様に朦朧としてくる脳漿が、今度は睡魔を伴い意気を挫く。遠のく意識がふと枕元に灯る一つの灯りを浚い上げたがそこまでで、悪夢に惹かれた身体では手を伸ばすことも出来ずにいた。