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アヴェレート王国シリーズ

教会を追放された聖女、薬学の力で民を救う 〜薬草スフィリナが紡ぐ奇跡とざまぁと恋物語〜

作者: 黒井アン子

 冷たい風が吹きすさぶ冬の朝、教会の大広間には緊張が漂っていた。

 厳かな静けさの中、シエラ・ロウランは膝をつき、己の無力さを噛み締めていた。教会に仕える聖女として、民を救うことを使命と信じてきた彼女にとって、今日という日はその全てが否定される瞬間だった。

「神の奇跡を濫用し、教会の権威を貶める行為をした罪――」

 大広間に響くのは、教会内で正統派を率いるラドクリフ司祭の冷徹な声。その視線は氷のように冷たく、少しの情も見せない。


「シエラ・ロウラン。お前の行いは、教会の理念を根底から覆す反逆に等しい。今日をもって、お前を聖女の座から追放し、教会との全ての関わりを断つことを命じる」


 その言葉は冷酷に大広間に鳴り響いた。

 彼女の追放理由は、その活動方針にあった。民衆救済を第一に掲げ、教会が独占してきた薬学や医学の知識を活用するだけでなく解放しようとした。それにより、教会の手が直接届かない民にも救済が広まることを信じて。その理想は純粋だったが、それゆえに正統派の怒りを買った。

「教会の知識は神の奇跡だ。それを軽々しく広めるなど、冒涜以外の何者でもない」

 ラドクリフ司祭の言葉に、シエラは唇を噛み締めた。彼の声には権力者特有の傲慢さが滲んでいる。

 彼女の周囲には、救済派の司祭たちが沈痛な表情で立ち尽くしていた。

 彼らの中には、シエラを擁護しようとした者もいた。しかし、正統派に牛耳られた教会の中で、彼らの声は届かなかった。

「どうかお待ちください! シエラ様はただ、民を救おうと――」

 若い司祭が一歩前に出ようとしたその瞬間、ラドクリフ司祭が鋭く制した。

「静粛に!」

 その一喝に、大広間は再び重たい沈黙に包まれた。


 シエラは顔を上げ、救済派の仲間たちに微笑みかけた。その微笑みには、感謝と、彼らをこれ以上巻き込みたくないという意思が滲んでいる。

 彼女はゆっくりと立ち上がると、身につけていた白い聖衣を脱ぎ、床に置いた。

「私の行いが、教会の権威を損なうと言われるのであれば、それを否定するつもりはありません。ただ、私はずっと考えていました――神が私たちに授けてくださった知識。それは、誰か一人のものとして守られるためではなく、多くの人々の命を支えるためにあるのではないでしょうか?」

 その言葉に、正統派の司祭たちが眉をひそめた。ラドクリフ司祭は冷笑を浮かべ、さらに言葉を重ねる。

「ならば教会の外で、神のお考えを証明してみるがいい。ただし覚えておけ――金輪際、教会が製造・頒布を行う薬草を使った薬剤の調合および開発を禁ずる。この禁忌を破れば、神罰が下ると心得よ」

 シエラは微かに目を伏せると、小さく息をついた。

「わかりました。ですが――」

 彼女は再び顔を上げ、その瞳に確かな決意を宿す。


「私の信じる救済の道が、神の御心に叶うものであるか――私はこの身を委ね、神の御導きに従いたく思います」


 その言葉を最後に、シエラは大広間を後にした。背後で扉が重く閉じる音が響いたとき、彼女はもはや聖女ではなく、ただの追放者となった。

 

 数日後、シエラは東部地域内の端にある寒村へと辿り着いていた。

 山深いこの地で、彼女を支持する村人たちが匿ってくれた。村人たちは彼女を敬いながらも、その心には不安があった。

 追放された聖女に、何ができるのだろうか――。

 シエラ自身もその問いを抱えていた。村人のために何かをしたいという気持ちはある。しかし、教会を離れ、禁忌を課された今、自分が培った知識はほとんど封じられている。

「私がここにいるせいで、村全体が危険に晒されているかもしれない……」

 寒さ厳しい夜、シエラは一人、息を吐きながら空を見上げた。彼女の心には、自分の存在意義への疑念が重くのしかかっていた。

 

 そうしたある日。村の幼子たちが次々と高熱を出し、倒れ始めた。

 激しい咳と息苦しさに苦しむ子どもたち。その姿を前に、シエラはただ看病することしかできない自分を憎んだ。

「教会に助けを求めよう!」

 村人たちの悲痛な声が上がるが、教会は「聖女がいる地域」への援助を拒否した。それでも多くの村人はシエラを再び追放することを望まずにいてくれた。シエラは、それ故に心苦しく思う。

 刻一刻と状況が悪化する中、「明日にでもこの村を発とう」と心を決め、村長に挨拶に行った時だった。

 村長が古びた巾着袋を手に、シエラに渡した。

「これを見てください。北部の商人から手に入れたものです。『癒しの力がある』と聞いて……」

 袋の中には、独特の芳香を放つ緑の葉が入っていた。所々傷んでいたが、その香りと形状を見た瞬間、シエラの記憶が甦った。

「スフィリナ……」

 その名を呟く彼女の声には、驚きと期待が混じっていた。北部の地でしか採れないという薬草。貴族たちの間では、薬草茶として愛飲されている。シエラも、貴族の家で歓待を受けた時に飲んだことがある。それがなぜここに――。


 しかし、深く考えている余裕はなかった。シエラは身を寄せている村長の家で、早速調合に取り掛かった。シエラはスフィリナの葉を手に取り、教会で学んだ知識を思い返した。この薬草はかつて、薬草茶として「軽い温補効果・穏やかな鎮静効果がある」と記録されていた。薬ではなく茶として淹れただけでこの効能である。

「量を間違えれば毒にもなるけれど、神から授けられた知識を信じるしかない……」

 彼女はまず、自ら煮出したスフィリナ茶を少量飲み、体調に変化がないことを確認した。わずかに心地よい温かさが体を包み、次に進む自信を得る。

「神よ、この力を私にお貸しください……」

 その後、煮出した薬草液を慎重に調整し、蜂蜜を加えて苦味を和らげた。子どもたちにはまずほんの一口ずつ飲ませ、その反応を見守る。徐々に呼吸が楽になり、眠りに落ちる子どもたちの姿を見て、シエラは確信した。

「神に感謝します……スフィリナは間違いなく、救いの光です」 

 その翌日、村中の子ども達が回復し始めた。村民は神と聖女の奇跡に涙を流して感謝した。


 村の朝はひんやりと冷たい霧に包まれていた。雪に覆われた家々の屋根が朝日に輝き、どこか神聖な静けさを漂わせている。この寒村で、子どもたちが笑い声を取り戻したことは、何よりの奇跡だった。

「シエラ様、本当にありがとうございます!」

 感極まった村の母親が、シエラの手を取って涙ながらに礼を言う。その周囲には他の村人たちも集まり、口々に感謝の言葉を述べていた。病から回復した子どもたちが走り回る姿を見ながら、シエラは微笑みつつ、心の中で神への感謝を捧げていた。

「これは私の力ではありません。神が与えてくださったスフィリナという薬草のおかげです。私はそれを少し使わせていただいただけです」

 シエラの言葉に、村人たちはさらに涙を流し、「神の奇跡だ」と頷き合った。シエラは微笑みを返しながらも、胸中に決意を固めていた。


 ――これが神の与えた知識なら、私はもっと多くの人々を救うために使わなければならない。だけど……

 

 暖炉のある村長の家で、一息ついたシエラは熱いお茶を飲みながら、村長と話をしていた。村長が手渡した粗末な巾着袋の中の薬草――スフィリナのことを改めて思い返す。

「シエラ様、この薬草、本当にそんなにすごいのですか?」

 村長の問いに、シエラは頷く。

「ええ。スフィリナは北部の厳しい環境で育つ希少な薬草です。教会でもその薬効についての文献が残されていました。興奮を抑え、体を温める効果があると言われています。ただ……」

「ただ?」

 村長が問い返す。

「贅沢品なんです。あまりにも希少なため、市場に出回るのは富裕層向けの加工品ばかり。今回のような粗悪品は例外的に流れてきたものだと思います」

「なるほど……」

 村長がしばらく黙り込み、手元の茶碗を見つめた。

「もしこの薬草がもっと手に入ったら、村の人たちはもっと救われるでしょうか?」

 その問いに、シエラもまた言葉を失う。そうだ、もしスフィリナが安定供給されれば、この村だけでなく、多くの人々が救われるかもしれない。けれど、それを手に入れる術が彼女にはない。


 翌日、村の外れでスフィリナを再び煮出していたシエラは、ふと手を止め、空を見上げた。冬空の曇天が広がり、どこか冷たい寂しさを感じさせる。

「この薬草は、神が私たちに与えてくださった恩恵。でも、どうしてこんなにも手に入りにくいのだろう……」


 独り言のように呟く彼女の耳に、不意に足音が聞こえてきた。振り返ると、そこには見知らぬ男が立っていた。

「やあ、君が『奇跡の聖女』かい?」

 軽薄な笑みを浮かべたその男は、どこか余裕のある態度でシエラに近づいてきた。身なりは立派で、寒村には似つかわしくない気品が漂っている。

「どなたですか?」

 シエラは警戒心を隠しつつ尋ねた。

「僕はルシウス・テオバルド。北部のカレスト公爵家に仕える者だよ。今回、ちょっと面白い噂を聞いてね」

 ルシウスと名乗るその男は、口元に笑みを浮かべながらも、その瞳には鋭い光が宿っていた。

「スフィリナという薬草を使って、疫病の子どもたちを救った……これが事実なら、君はただの聖女じゃない。天才の薬剤師だ」

 その言葉に、シエラは一瞬言葉を失った。彼の軽い口調とは裏腹に、その発言には的確な洞察が込められていた。

「私はただ、教会で学んだ知識を使っただけです。それ以上でも、それ以下でもありません」

「謙虚だね。でも、教会を追放された君が、ここで村を救っている。それってかなりの皮肉じゃない?」

 ルシウスは肩をすくめ、近くの石に腰を下ろした。その軽快な動きと、どこか掴みどころのない態度に、シエラは不思議な気持ちを抱く。

「僕は君に取引を持ちかけに来たんだ。君が必要としているものを、僕が用意する代わりに、君の知識を少しだけ貸してほしい」

「取引……?」

「スフィリナさ。君ももっとたくさん必要としているだろう?」

 その言葉に、シエラの心が揺れた。贅沢品であり、教会が製造・頒布していない薬草。カレスト公爵領はスフィリナの名産地だ。そのカレスト公爵家が直接供給してくれるという。

「良い返事を期待しているよ、シエラ・ロウラン」

 ルシウスはそう言い残し、軽やかに去って行った。その背中を見送るシエラの心には、少しずつ希望と不安が混じり始めていた。


「今日も来たのですか、ルシウスさん」

 シエラが庭先で洗濯物を干していると、彼の姿が見えた。相変わらず軽やかな足取りと人懐っこい笑顔を浮かべている。

「もちろん。君が受け入れてくれるまで毎日来るよ」

 ルシウスは臆面もなく言い放ち、近くの石段に腰を下ろした。

「何度も言いますが、良い返事をするつもりはありません」

 シエラはため息交じりに言いながらも、手を止めることなく洗濯物を干し続けた。

「それでもいいさ。君が断る理由を毎日聞きに来るのも、悪くない時間つぶしだからね」

 ルシウスは肩をすくめる。

「断る理由なんて一つしかありません。カレスト公爵家と手を組むことは、神の教えに背く行為だからです」

 シエラは毅然とした声で言い放った。


「君はどうしてカレスト公爵家をそんなに警戒するんだ?」

 ルシウスは身を乗り出し、尋ねた。その目には、彼の知的好奇心とシエラへの興味が交差している。

「カレスト公爵家は、北部地域の中でも特に合理性と利益を重視して発展してきた家柄です。その実績は否定しませんが、だからこそ神の知識を経済的利益に利用されることを恐れているのです」

 シエラは落ち着いた声で答えた。その瞳には、自分の信念を貫こうとする強い意志が宿っている。

 ルシウスはその答えを聞くと、顎に手を当て、何かを考えるような素振りを見せた。そして軽く笑い、いつもの軽妙な調子を少し抑えた声で言った。

「知識を解放するっていうのは、そういうリスクを伴うことでもあるよね。でも、知識がどれだけ多くの人を救えるかを考えた時、広げるための仕組みを作るのも大事だと思うんだ」

「仕組み……ですか?」

 シエラは眉をひそめた。

「そうさ。例えばカレスト公爵家のように、大きな影響力を持つ者が知識を広める役割を担えば、それはより早く、効率よく伝わるだろう?」

 ルシウスの声には、自分の理屈を楽しんでいるような響きがあった。

「もちろん利益も上がる。でも、利益が上がるってことは、そこに需要があるってことだよ。つまり、助けられた人たちがいる証拠じゃないかな?」

「しかし、それでは新たな独占を生む可能性もあるのでは?」

 シエラの声が硬くなる。彼女は教会の中で知識が独占され、利益のために使われてきた現実を知っていた。

「独占……か」

 ルシウスは軽く肩をすくめた。そして少し目を細め、柔らかい口調で続ける。

「確かに独占のリスクはある。でも、僕はこうも思うんだ。独占を恐れて知識を閉ざしてしまうより、まず広げることに注力するべきじゃないかってね。広がった知識は人々に利用されていく。そうして、独占なんて単なる過去の話になるかもしれない」

 その言葉に、シエラは少しだけ目を見開いた。彼の視点は、これまで自分が持っていたものとは違う新しさを感じさせた。

「知識が広がれば、独占の力を超える……ですか」

 シエラはその考えを反芻するように呟いたが、すぐに首を横に振った。

「それでも、私が目指しているのは知の解放です。誰もが平等に恩恵を受けられる形で知識を伝えること。それが貴族の利益のために歪められるのでは、本末転倒です」

「だからこそ、知識をどう管理し、どう広げるかが大事なんだよ」

 ルシウスの声は穏やかだが、その奥には確固たる意志があった。

「カレスト公爵閣下はそんなに悪い人じゃない。君の理想を踏みにじるような人じゃないよ。少なくとも、僕の上司としては優秀だ」

 ルシウスの言葉に、シエラは視線を落とし、口を閉ざした。確かに彼の言うことには一理ある。だが、彼女の中にはまだ消えない疑念があった。


 その夜、シエラは暖炉の前でひとりルシウスの言葉を反芻していた。彼の話す「合理性」と「利益」を基にした知識の広がりには、教会では見たことのない新たな価値観があった。


 ――彼は自分の利益だけを求めているわけではない。あれはむしろ……人々を救うための合理性。


 けれど、だからといって、カレスト公爵家が本当に自分の理想を守る保証があるわけではない。

 そう思いながらも、シエラはルシウスの視点に触れたことで、少しだけ自分の考えが揺らいでいることを感じていた。自分が知らなかった世界――それは教会の外で育まれてきた新たな価値観だった。

 

 翌日、ルシウスが再び訪れたとき、シエラは彼を客人として迎えることにした。彼女が湯気を立てるハーブティーを差し出すと、ルシウスは驚きながらも嬉しそうに微笑んだ。

「おや、今日は歓迎ムードだね」

「交渉の返事ではありません。ただ、あなたが通い詰めているので、少しでもまともな時間を過ごした方が効率的だと思ったまでです」

 シエラの冷静な言葉に、ルシウスは吹き出して笑った。


 その日から二人の会話は交渉だけでなく、雑談へと広がっていった。シエラが薬学の基礎を語ると、ルシウスは身を乗り出して熱心に耳を傾けた。その瞳には、少年のような好奇心が宿っている。

「なるほど、スフィリナの葉には『温補効果』があって、お茶として淹れても僅かな効果が認められるけど、一定の温度を保って長時間抽出すると高い効果が得られると…。こんな些細な条件で変わるなんて、自然ってすごいね!」

 彼は目を輝かせながら言った。シエラが頷くと、さらに勢いづく。

「それにしても、この知識を体系化して伝えていった教会の人たちも天才だよね。あ、でもそれを追放された君が改良するって、なんだか皮肉で面白いな!」

 そう言って無邪気に笑う彼の姿に、シエラは少し戸惑いながらも微笑みを返した。


「いやぁ、君の知識量は本当にすごい。さすが教会が擁した聖女様だ」

「今はただのシエラです」

 彼女は淡々と答え、その表情には何の陰りもなかった。その様子に、ルシウスの興味が向く。

「追放されて名誉を奪われたのに、まるで何も気にしていないみたいだね」

「ええ、特に気にしていません。そもそも、聖女の称号があってもなくても、やるべきことは変わりませんから」

 シエラは肩をすくめた。

「それに、私が追放されたことで、司祭たちとは全く異なる性格の方が毎日話に来てくださるので、新鮮ですね」

「ははは! 本当に面白いな、君は」

ルシウスは大笑いした。


 ルシウスが村に通い始めて一ヶ月が経った頃。村人たちは、毎日のように村を訪れるルシウスとシエラのやり取りを、遠巻きに見守っていた。

「今日も来たな、あの北部の人」

「聖女様に何を話してるんだろうね?」

 畑仕事の合間に、村人たちはひそひそと囁き合う。最初は警戒するような目も多かったが、いつしかその視線には好奇心と微笑ましさが混じり始めていた。

「聖女様、最近少し柔らかい表情になった気がするわ」

「あの北部の人の話が、案外おもしろいのかもしれないな」

 村人たちは、二人のやり取りが村に新しい空気をもたらしていることに気づきながら、そっと見守り続けていた。

 

 今日もシエラはハーブティーでルシウスをもてなしていると、ふとルシウスが語り始めた。

「僕たち北部にはね、薬学の知識がほとんどないんだ。せっかくスフィリナを持っていても、ただのお茶にしか使えてない」

 ルシウスが苦笑交じりに言うと、シエラは控えめに頷いた。

「それは以前もおっしゃっていましたね」

 彼女が属していた教会は、東部地域に構える教会の総本山だ。ここを頂点として各地域の教会が連なるが、その中でも北部は規模も影響力も小さかった。故に、薬学の知識の蓄積に乏しく、総本山としても北部はほとんど重要視していなかった。

「でも最近、君から教わった基礎的な特徴を試してみたんだ。スフィリナを温めて抽出してみると、確かに温補効果が得られたよ」

 その報告に、シエラは少し驚いた顔をした。まさかあの雑談から、本当に試してみるとは思っていなかった。

「北部の研究員にお願いしたんだけどね。それだけじゃないんだ――実験の過程で気づいたことがあってさ。煮出し方を少し変えると、なんだかスパイシーで男性らしい香りが出てくることがわかったんだ」

 ルシウスは嬉しそうに目を輝かせながら続けた。

「それを嗅いだ研究員が、『これ、男性用の香水に使えるんじゃないか?』って言い出してね。まさか薬草が香水になるなんて、考えたこともなかったけど、僕はすごくワクワクしたよ」

 その言葉に、シエラは一瞬言葉を失った。香水――それは自分の研究の範疇ではまったく考えもしなかった発想だ。彼女はゆっくりと問いかけた。

「それは……本当に薬草からそんなことが?」

「そうなんだよ。知識を少しだけ掘り下げるだけで、新しい使い道が見つかる。しかもそれが、誰かを喜ばせたり、役立ったりする可能性があるなんて、なんて面白いんだろうって思った」

 ルシウスの声には純粋な興奮が込められていた。

「君の知識を借りて、スフィリナの可能性をもっと探求したいんだ。もしかしたら薬剤以外にも、まだ僕たちが想像もしていない使い方が眠っているかもしれないだろう?」

 ルシウスは心から楽しそうに語った。その表情には、彼の善意と知的好奇心が滲み出ていた。

 シエラは彼の話を聞きながら、ふと教義の一節を思い出していた。


 ――神が人間に知識を授けられたのは、互いに手を取り合い、助け合うためである――


 助け合うこと。それは、単に既存の知識を分かち合うだけでなく、知識を掛け合わせ、新たな価値を創出することを意味するのではないだろうか。スフィリナの香りを香水に――それは、自分の発想だけでは絶対にたどり着けなかった。ルシウスのような、異なる視点を持つ者がいたからこそ生まれた新しい可能性だ。

 彼女の胸の内に、小さな灯火のような確信が広がっていった。

「知識を広めるだけでなく、新たな知識を創り出す――これこそが、神が私たちに望んでいる世界なのかもしれない」

 その考えが心を満たしていくのを感じた。


 その日の夕暮れ、ルシウスが立ち上がったとき、シエラが静かに口を開いた。 

「ルシウス・テオバルド」

 シエラは深く息をつき、彼をまっすぐに見つめた。彼女の声には、これまで以上に確かな決意がこもっていた。

「契約を結びます。ただし、神の御心に背かないよう、私なりの条件を付けさせていただきます」

 ルシウスは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。

「ようやく首を縦に振ってくれたね。いつかその日が来ると思っていたよ、シエラ・ロウラン」

 その笑顔を見て、シエラもまた微笑んだ。互いに異なる価値観を持ちながらも、今、この瞬間に同じ未来を見つめていることを感じていた。


 後日、ルシウスは契約書を持参し、シエラとルシウスは正式に契約を交わした。

「これで正式に君と僕は仲間だね」

 ルシウスが手を差し出すと、シエラはその手をしっかりと握った。

「協力して良い成果を出しましょう。でも――」

 シエラは静かな笑みを浮かべながら、ルシウスを見据えた。

「私の研究を経済的利益だけでなく、本当に人々のために役立てるという約束を守ってください」

「もちろんさ。君の信念を裏切るようなことはしないよ」

 ルシウスの言葉に、シエラは深く頷いた。


 契約締結後、カレスト公爵領から定期的にスフィリナが届けられるようになった。それは贅沢品としてではなく、薬草として新たな価値を模索される日々の始まりだった。

 村に新たに設立された簡易的な工房で、シエラはスフィリナの葉を細かく刻み、成分を抽出するために水とアルコールの比率を変えながら煮沸する。

「この葉の成分は、温度によって抽出される成分が微妙に変わりますね……」

 羊皮紙に書き込む手が止まらない。シエラは湧き上がる疑問と発見に胸を躍らせながら、研究に没頭していた。

 

 ある日、ルシウスがふと彼女の研究室を訪れた。

「どうだい、進展は?」

「ええ、いくつか分かってきました。この薬草は長時間煮沸することで鎮静効果が増しますが、逆に低温で抽出すると免疫力の強化が期待できるようです」

 シエラは羊皮紙を見せながら話す。その真剣な表情に、ルシウスは小さく感嘆の声を漏らした。

「君の手にかかると、スフィリナがまるで新しい何かに変わる気がするよ」

 ルシウスが微笑むと、シエラは首をかしげる。

「新しい何か……ですか?」

「そう。今まで僕たちは、『どう使うか』だけを考えてきた。でも君は、『可能性を広げる』ということをしている。それって、ただ知識を伝える以上のことだよね」

「可能性を広げる……」

 シエラはその言葉を反芻した。彼女の研究は、確かに単なる応用を越えた新しい形を探る試みだった。

「君が見つけた抽出法だって、スフィリナ以外の薬草に応用できるかもしれない。その先に、僕らがまだ見たことのない知識が生まれる――そう思うと、未来が楽しみで仕方ない」

 ルシウスは目を輝かせて続けた。

「未来が楽しみ……」

 その言葉に、シエラは微笑みながら頷いた。彼の情熱と視点が、彼女の心に新しい風を吹き込んでいた。

「貴方の言葉を聞いていると、私の研究が本当に新しい景色を見せてくれる気がします」

「景色だけじゃないさ。その先に、僕らがまだ想像もしていないものが待っている」

 二人は短い沈黙の中、確かな信頼を共有していた。その夜、シエラの胸には新たな希望が灯っていた。

 

 一方で、シエラの活動は正統派の耳にも届いていた。教会内の一室では、ラドクリフ司祭が苛立った様子で机を叩いていた。

「追放されたはずの聖女が、カレスト公爵家と手を組んで市井で民衆の支持を集めているだと……!」

 彼の周囲には正統派の司祭たちが集まっていた。

「いずれ教会の権威に傷がつく恐れがあります。早急に手を打つべきでは」

「その通りだ。このままでは教会の信頼が揺らぎかねない」

 ラドクリフ司祭は鋭い目を光らせながら、一つの決断を下した。

「シエラ・ロウランを宗教裁判にかける。彼女の行いを『北部のスパイ』として断罪するのだ」

 

 その計画は秘密裏に進められ、裁判の日程が決まると、シエラの元にも通達が届いた。シエラがその書簡を手に取ったとき、彼女の指先はひどく冷たくなっていた。

「これが……私への裁きの通達……」

 彼女は内容を読みながら、唇を噛んだ。

 ちょうどその時、ルシウスが訪ねてきた。

「シエラ、どうしたんだ?」

 彼女の顔色の悪さに気づいた彼が心配そうに尋ねる。シエラは手元の書簡を差し出した。ルシウスはそれを読み、目を見開いた。

「こんなことが罷り通るのか……!」

 彼は苛立ちを隠せず、思わず声を荒げた。

「教会を追放されてから、苦難の覚悟はしていました。でも、これは……」

 シエラは震える声で呟く。ルシウスは書簡を机に置き、彼女の前に立つと、強い声で言った。

「君は一人じゃない。僕も一緒に戦うよ。教会の弾圧なんて、僕たちで覆してやろう」

「しかし、貴方を巻き込むことは、カレスト公爵家を巻き込むということ……」

 別地域の、それも公爵家。その大きな力を巻き込むことで、北部と東部に混乱を巻き起こしかねないことを、シエラは直観する。そしてそのツケは民に回ってくる。権力者の争いは民の血で賄われることが歴史の常だ。

「心配はいらない、シエラ。カレスト公爵家は無用な争いは望まない。それは、合理的ではないからだ」

 ルシウスの声は穏やかだが、その瞳には確固たる意志が宿っていた。

「戦いには金がかかるし、最も大きな代償を払うのはいつだって民だ。それを公爵閣下が望むわけがない。閣下はこれまで幾度も、剣を抜かずに困難を乗り越えてきた。冷静な判断と、知恵の力でね」

 彼は一歩シエラに近づき、言葉を強めた。

「そして、その公爵閣下がこの件において信任するのがこの僕だ。僕の背後にいるのは、ただの権力じゃない。平和と理性を貫くカレスト公爵家の誇りそのものだよ」

 その言葉に、シエラは目を伏せたが、やがて顔を上げた。その瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。

「ありがとう、ルシウス。ともに戦ってくださることを、心から感謝します。私も、私の信念を貫きます」


 裁判の日が近づくにつれ、シエラの活動を知る民衆たちが動き始めた。

「聖女様が裁かれるだと? それはおかしい!」

「私たちを助けてくれた恩人を、なぜ教会は迫害するんだ!」

 民衆の怒りの声は日に日に大きくなり、裁判所の周囲には抗議の人々が集まり始めた。教会が下す裁きの行方は、すでに民衆の目にさらされていた。正統派の企みと、シエラの信念がぶつかり合う舞台は、整いつつあった――。


 冷たい石造りの裁判所に、緊張が張り詰めていた。荘厳な高い天井の下、シエラ・ロウランは一歩ずつゆっくりと進み、被告席に立った。周囲には正統派の司祭たちが重々しい衣装をまとい、彼女を鋭く睨みつけている。その視線には、憤りと焦りが滲んでいた。傍聴席には民衆が溢れ、沈黙の中に騒然とした気配が漂っている。

「シエラ・ロウラン、貴様は北部の勢力と結託し、教会の権威を貶めただけでなく、神の教えを冒涜した。その罪を断罪するため、今日この場に立つことを命じた」

 裁判長を務めるラドクリフ司祭の声が響き渡った。彼の冷酷な声色には、シエラへの憎悪と苛立ちが見て取れた。シエラは静かに一礼をすると、背筋を伸ばしてその場に立った。彼女の表情は落ち着いており、しかしその瞳には揺るぎない意志が宿っていた。

「まずはお聞きしたいのですが、この裁判所は何を基に裁きを行う場でしょうか?」

 シエラの質問に、一瞬場内がざわつく。ラドクリフ司祭が眉をひそめ、低い声で答えた。

「神の御心を基に、教会の教義に従い裁きを行う場だ」

「そうですか。それならば、神が私たちに知識を授けてくださった理由についてもお考えいただけますね」

 シエラの声は静かだったが、その言葉は石造りの空間を切り裂くように響いた。


「神は私たちに知識を授けてくださいました。それは、試練を乗り越え、互いに手を取り合いながら、この世界をより良いものへと導くためではないでしょうか?」

 シエラの声は静かに響き、傍聴席の人々を引き込んでいく。その言葉には、彼女自身の信仰と経験が重なり合っていた。


「私は幼い頃から、神が与えてくださった知識に魅了されてきました。薬草一片に秘められた癒しの力、生命を支える奇跡。それを知り、活用することで人々を救える――そのことに感謝し、学びを深めてまいりました」

 彼女は軽く目を伏せ、そして再び顔を上げた。瞳には、信仰者としての確信が宿っている。


「ですが、私一人の力では、知識が真に輝くことはありませんでした。共に分かち合い、知恵を結びつけることで、新たな可能性が生まれるのです。私がスフィリナという薬草の存在を学んだとき、それを活用するために村の人々の助けを借り、北部の研究者との協力を得て初めて、新しい効能が見えてきたのです」

 その言葉に、場内の人々は思わず耳を傾けた。


「神が私たちに知識を与えてくださったのは、一人で抱えるためではありません。それは互いに支え合い、共に学び、新たな知恵を見つけ出すためです。神の御心は、私たちに共に生きる力を与えること――その知識が広がり、さらに次の光を生む連鎖を、私たちに託されたのではないでしょうか?」

 シエラの声は徐々に力を増し、荘厳さを帯びていく。彼女はあくまで神の御心に寄り添う言葉を紡ぎ続けた。


「私たちが共に知識を紡ぐとき、それは必ず新たな恩恵となって帰ってきます。これは私自身の経験です。そしてその恩恵は、苦しむ人々に届き、希望を灯す光となる。神が私たちに知識を与えられたのは、その光を広げるためでありましょう」

 静かに息を吸い込んでから、彼女は最後の言葉を紡いだ。


「私は神の与えてくださった知識に応えたいのです。それは独りよがりの行いではなく、共に歩むことで生まれる、新たな可能性への信仰です。神が私たちに託された知恵を、どうかその光を最大限に広げる道へと導かせてください。それが私の願いです」


 一瞬の静寂。だが、それは嵐の前触れのようだった。

 次第に民衆の中から低いざわめきが広がり、やがて波紋のように裁判所全体を包み込む。シエラの薬で救われた者たちが涙ながらに彼女の言葉に頷き、声なき賛同を示していた。中には、教会に長年仕えてきた信徒までもが、信仰を持つ目でシエラを見つめている。

 その光景を目にしたラドクリフ司祭は、眉を顰め、冷ややかな表情を保とうと努めた。だが、その視線が揺れているのを隠しきれない。自分たち正統派の教えに忠誠を誓うはずの司祭たちの中にも、動揺を隠せない者がいるのだ。彼らの中には、シエラの言葉に心を揺さぶられ、思わず手を組む者、深く息を吐く者、顔を伏せる者――その表情に迷いの色が浮かんでいた。

「愚かな……!」

 ラドクリフ司祭はわずかに声を漏らしたが、それを飲み込むように、傍聴席からのざわめきが増幅していく。シエラが立っているその場には、まるで神の恩寵そのものが宿っているかのような威厳が漂っていた。


「彼女の行いが、本当に神の意に背くと言えるのだろうか……」

 まさかの、正統派の中からの声だった。その言葉は小さな声だったが、隣にいた司祭が驚いて振り返り、その場の空気にさらなる波紋を広げた。

 ラドクリフ司祭は席を立ち、杖を持つ手に力を込めた。

「沈黙せよ! これは神聖なる裁きの場だ!」

 彼の声は強い響きを持っていたが、その内心には明らかな焦りが漂っていた。


 その時、裁判所の扉が重々しく開き、響き渡る音が緊張の糸をさらに張り詰めさせた。傍聴席の民衆が一斉に振り返ると、堂々たる姿で東部地域の首領・ザルムート公爵が姿を現した。高貴な衣装に身を包み、貴族としての威厳を漂わせながら、彼はまっすぐに裁判長席へ歩みを進めた。

「何事か!」

 ラドクリフ司祭が怒りを滲ませて声を上げるが、ザルムート公爵はそれを意に介さず、冷ややかな視線を向けた。

「この裁判は不当であると、ザルムート公爵家を代表して宣言する」

 その一言に場内がざわつく。

「ザルムート公爵閣下、これは宗教裁判です。政治の場ではありません!」

 ラドクリフ司祭が必死に反論を試みるが、公爵は一歩も引かず、静かに言葉を続けた。

「確かに、宗教裁判は宗教的罪を裁くために設けられたものだ。しかし、この裁判で扱われているのは宗教的な問題ではなく、経済的活動に関するものだ。カレスト公爵家とシエラ・ロウランの連携は、あくまで経済的範疇にある」

 公爵の言葉に、ラドクリフ司祭は顔を赤く染め、何かを言い返そうとした。しかし、公爵はその言葉を遮るように声を強めた。

「我が東部地域は、かつて宗教が政治に癒着し、その重みで国の均衡が揺らいだ歴史を経験している。その反省を踏まえ、宗教と政治の境界を守ることで再び繁栄を取り戻した。この裁判が許されれば、その均衡が崩れる。王国全体が混乱に陥る可能性を、我々は見過ごせない」

 それは、東部地域の歴史を最もよく知る者としての責任が滲む言葉だった。

「宗教裁判を超えた裁きは、教会の権限を逸脱したものであり、それを強行することは『政治侵犯』と看做される。これは王国法に基づき不当と断言する」

 堂々としたその言葉に、民衆の間から歓声が湧き上がった。シエラを擁護する者たちの中には涙を流す者もいた。ラドクリフ司祭はそれを押し返すように席を立つが、東部公爵の威圧感の前に言葉を詰まらせた。

 シエラは静かに頭を下げ、感謝を込めた瞳で公爵を見つめた。その場の騒然とした空気を背景に、公爵は振り返り、柔らかな笑みを浮かべた。


 裁判の二日前、ザルムート公爵の居城で、ルシウス・テオバルドは公爵と対面していた。広大な書斎の中、重厚な机を挟んで座る二人。公爵は興味深そうにルシウスを見つめながら口を開いた。

「教会の横暴を是正しろ、とは大それた提案だな。それも北部の代理人が東部の領主に頼むとは、興味深い」

 ルシウスは軽く頭を下げながらも、真剣な目で公爵を見据えた。

「教会の今回の裁判は、もはや宗教裁判の範疇を超えています。これは王国の秩序そのものを脅かす問題です」

「それは分かる。だが、カレスト公爵家が自領を飛び越えて介入していること、それが内政干渉に見られないとでも?」

 公爵は少し笑みを浮かべながら問いかけた。ルシウスは微笑みを返した。

「いいえ、これは共存共栄のための連携です。北部と東部が手を取り合えば、知識も経済も新たな地平を切り拓けると信じています」

 公爵はその言葉に眉を上げ、「ほう?」と呟いた。ザルムート公爵はしばし考え込んだ後、低い声で問うた。

「ルシウス・テオバルド。君の理想は美しいが、果たしてこの王国がそれを受け入れる準備があるのか?」

ルシウスは微笑みを浮かべつつも、真剣な目で公爵を見据えた。

「準備があるかどうかではありません。私たちがそれを作り出すのです。神から授かった知識を、停滞させるべきではないのです」

「であれば、聖女が開発した薬剤、その普及に我々も関与させてもらおう」

 公爵が軽く口元を歪めて提案すると、ルシウスは即座に応じた。

「もちろんです。むしろ東部地域全土に広めていただければ、彼女の理想が叶います」

 その言葉に、公爵はしばし沈黙した後、小さく笑った。

「知の解放か……相変わらず貴家は恐ろしいことを考える」

 その言葉の裏には、解放された知識が既存の秩序を壊し、新たな混乱をもたらす可能性への危惧があった。知識は光であると同時に力であり、扱い方次第では王国の安定を揺るがす刃となる――それが公爵の恐れるところだった。

 公爵の言葉に、ルシウスは微笑みながら答えた。

「いえ、これは私どもの発案ではなく、シエラ・ロウランの信念そのものです」

 その一言に、公爵は感心したように頷く。

「ならば彼女の覚悟、見せてもらおう。このザルムート公爵家が力を貸すに値する覚悟をな」

 それが交渉の締め括りの言葉だった。


 裁判が終わり、民衆の歓声が収まりつつあった。ザルムート公爵や傍聴席の人々が次々と裁判所を後にする中、シエラとルシウスはその場に残されていた。裁判所の静けさが、数時間前までの緊迫感が嘘のように場を支配している。

「終わりましたね……」

 シエラがぽつりと呟いた。疲労と安堵が入り混じった声だった。ルシウスは微笑みながら、「そうだね。君があの場で訴えた信念――あれが全てを動かしたんだ」と言った。その声には、心からの称賛が込められていた。

「いえ、私だけの力ではありません。貴方がいなければ、きっと私は……」

 シエラはふと視線を落とし、言葉を詰まらせる。

「君はどんな状況でも立ち上がったさ。僕が少しだけ背中を押したにすぎないよ」

 ルシウスの声は軽やかだったが、その瞳には真剣な光が宿っていた。シエラはその眼差しに、何かを見透かされているような気がした。

「これからのことを考えなければいけませんね。村に戻って、もう一度始めます」

 彼女の声には再び力が戻っていた。

「ああ、君の理想はまだ始まったばかりだ」


 村に戻ったシエラを、村人たちは温かく迎え入れた。彼女の不在の間、村人たちは彼女の教えをもとに互いを助け合い、なんとか日々を乗り切っていたのだ。

「聖女様、無事でよかった!」

 村人たちが口々に喜びの声を上げる中、シエラは小さく微笑んで応えた。その傍らには、いつものようにルシウスが立っていた。

「君が村人たちに与えたものが、ここまで彼らを支えているなんてね」

 ルシウスが感心したように言うと、シエラは少し照れくさそうに笑った。

「私が与えたというより、皆さんが強いだけです。でも……ありがとうございます」

 

 その後の日々、ルシウスは村での研究をサポートしながらも、時折軽口を叩いてシエラを笑わせた。村人たちはそんな二人のやり取りを微笑ましく見守っていた。

 ある日、シエラが調合の手を止め、ふとルシウスを見つめた。

「私、最近気づいたんです。あなたがいると、不思議と安心するんです」

 その言葉に、ルシウスは少し驚いた顔をしたが、すぐにおどけたように笑った。

「それは嬉しいね。でも、僕としてはもう少し頼ってくれてもいいんだよ?」

「これでも充分頼っているつもりです」

 シエラが軽く反論すると、ルシウスは首を横に振った。

「全然足りないよ。……ああ、でも君が本当に僕を頼る時って、きっととんでもないことが起きる時だと思うんだよね。それまでは、僕が君に甘えさせてもらう方がいいか」

 その冗談めいた言葉に、シエラは思わず微笑んだが、すぐに真剣な表情に変わった。

「でも……もし貴方がいなくなったら、私はどうなってしまうんでしょうね」

 それは半ば自分でも気づいていなかった不安の吐露だった。言葉にして初めて、シエラ自身もその感情の重さを実感した。

「僕がいなくなる心配なんていらないさ」

 ルシウスは彼女を見つめながら、一歩近づいた。その瞳には、いつもの軽口とは違う真摯さが込められていた。

「君が僕に『もう必要ない』って言わない限り、僕はどこにも行かないよ。だから、その時はちゃんと言ってくれ。……そうじゃないと、ずっと君のそばにいるからね」

 その言葉に、シエラの胸がじんと熱くなった。言葉を返そうとしたが、何かが喉を塞いで出てこない。ただ、ほんの少し頬を染めながら、静かに頷くだけだった。


 一方、裁判を契機に教会内でも変革が始まっていた。正統派が失脚し、救済派が主導権を握ると、教会は「知識の独占から、共有と活用へ」という新たな理念を掲げた。

「神が知識を与えたのは、それを正しく使い、苦しむ者を救うためです。私たち教会の役割は、知識を監視することではなく、知識が善き道へと導く指針を示すことにあります」と、救済派のリーダーとなったカルメン司祭は説いた。

 教会はまず信徒教育を強化し、神学や倫理学を広く開放。さらに、各地域での実践的な支援活動を展開した。北部ではスフィリナの活用を軸に、新たな薬学知識や栽培技術が広がり、それを支える人々への教育が進められた。

「知識は分かち合い、育むことでその価値を増すもの」との理念のもと、教会は地域での調整役を担いながら、新たな秩序を築いていった。


 その影響はシエラの村にも届き、彼女の研究を基に村人たちが自ら技術を学び始めた。教会が支援する教材を通じて、村は学びの場となり、新たに生まれた知識がさらに別の地域へと伝わっていく。

 教会は権威の象徴ではなく、「神の知恵を広げる灯台」として歩みを進めていた。その変革の中心には、シエラの信念が息づいていた。

 

 夕暮れの村の丘に立つシエラとルシウス。二人は静かに並び、遠くに広がる風景を見つめていた。

「君と過ごす日々が、僕にとっては特別なものになっている」

 ルシウスがふと口を開いた。その声には、いつもの軽やかさとは違う、真摯な響きがあった。

「貴方がいてくれるから、私はここまで来られたんです」

 その言葉には、彼への深い信頼と感謝が込められていた。

「シエラ・ロウラン」

 ルシウスが彼女の名を呼び、その瞳をまっすぐに向ける。

「君の理想を形にする力を、僕はこれからも貸し続けたい。いや、共に追い続けたい」

 その言葉に、シエラは一瞬驚いたように目を見開いた。しかし、すぐに柔らかな微笑みを浮かべ、彼の手を取った。

「それ以上に心強いことはありません。一緒に歩んでくれるなら、私も恐れるものはありません。貴方がそばにいてくれるなら、どんな困難でも乗り越えられる。これからも一緒に夢を追わせてください」

 二人が見つめ合う中、夕闇に浮かぶ一番星がその絆を祝福するかのように瞬いていた。

ご覧いただきありがとうござきました。

この短編は連載中の作品のスピンオフ作品です。お気に召したらそちらも覗いてくれると嬉しいです。


拗らせ女公爵と策略王弟の愛と希望の日々 〜政略と社交の狭間で愛し合ってみせます〜

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